第2話
朝の静寂さを裂くように、木刀を振り下ろす。伊庭孝(いばたかし)は、この一瞬がたまらなく好きだった。心形刀流の十代目当主伊庭想太郎(いばそうたろう)の養子であるにもかかわらず、剣術の道ではなく芸術の道に進んだ伊庭であったが、幼少からの習慣である早朝の稽古だけは欠かしたことがない。役者として東北や九州に巡業に行くときでさえ、稽古用の木刀を持っていくものだから、仲間たちには大変怖がられていたものだった。
気の済むまで稽古をすると、伊庭は満足したように木刀を縁側に置いた。手拭いで額に滲んだ汗を拭く。後方から誰かの視線を感じ、さっと振り向いた。しかし、伊庭の目には見慣れた庭の光景が広がるだけで、誰もいない。
(しかし、人の気配がする)
伊庭は音を立てずに木刀を構え、そのままじりじりと、玄関先に植えられた低木の方へ近付いた。
「誰だ」
腹の底から、凄んだ声を出す。樹葉がざわめき、逃げ出すようにして一人の男が現れた。伊庭はそのまま振りかぶって、木刀を下ろした。
「ひええ、僕です、藤原ですよう!」
目の前には、額すれすれで止まった木刀に怯え、恐怖のあまり腰を抜かして地面に座り込んだ藤原義江(ふじわらよしえ)がいた。目には涙さえ浮かんでいる。
「なんだ、藤原か。お前、帰ってきていたのか」
伊庭は木刀をゆっくりと藤原の真横に下ろした。
「なぜこんなところにいる」
そう問いながら、伊庭は藤原に手を差し出した。藤原はその手につかまり、立ち上がりながら
「つい先日帰国したものですから。早速イバコウさんのところへ行こうと思ってやってきたら稽古をされているようだったので、邪魔するのも悪いと思って見ていたんです。それにしても、あんなことやめてくださいよ! 怖いじゃないですかあ」
と言い、つい数十秒前のことを思い出して震えた。
「稽古の途中に君が来ても、邪魔だとは思わん。そういうことなら、早く声をかけてくれ」
「ええ、ええ。絶対に次からはそうしますよ……」
藤原は、伊庭に促されるまま縁側に座り込んだ。伊庭は、彼の家に住み込んでいる弟子を呼び、お茶を持ってくるように言った。
「ずいぶん早い帰国じゃないか。一体どうしたというのだね」
伊庭は、関東大震災前に浅草を中心として熱烈な人気を誇った「浅草オペラ」と呼ばれる演芸の創始者の一人であり、藤原は浅草オペラの歌手であった。藤原に特別な才能を感じた伊庭は、彼に留学を勧め、息子である藤原のことをあまり良く思っていない英国人の父親に、資金援助を請う手紙まで書いた。伊庭の尽力のおかげで、無事、大正九(一九二〇)年にイタリアへと旅立っていった藤原が、「我等のテナー」という新聞社の鳴り物入りで帰国したのは、今から二年前の大正十二(一九二三)年のことである。順調に日本で活動を続けていくかのように思われた藤原であったが、震災のために演奏会が軒並み中止になったことや、ある上流階級の夫人との恋愛に陥ったことが原因で、震災の余波から逃れるようにして再びヨーロッパへ旅立っていったのはその年の十一月のことだった。
「そんなことないですよ。そろそろ白米でも食べたいと思っただけですから」
藤原は慌てたように答える。
「本当にそれだけか?」
「え、ええ。それだけです」
「まさか、宮下(みやした)夫人と会うために帰ってきたわけではなかろうな」
宮下夫人というのは、藤原が前回の帰朝のときに恋に落ちて社交界を騒がせた、宮下あき子のことである。三井財閥の総理事・中上川彦次郎(なかみがわひこじろう)の婚外子として生まれた彼女は、現在は眼科医の宮下左右輔(みやしたそうすけ)博士と結婚し、二人の娘をもうけていた。
藤原は一瞬ひるんだように見えた。しかし彼はすぐ気を取り直して、こう答えた。
「もちろん! そんなわけないじゃないですか。イバコウさんがおっしゃるように、今の僕には恋愛をしている暇なんてないですから」
「それなら良いが。私は、君に夢を託しているのだからな。ちゃんとしてくれないと困る」
「ええ、わかってますよ」
伊庭は、お茶を持ってきた弟子から湯呑みを二つ受け取り、一つを藤原に渡す。
「伊庭さんは、『国民歌劇』を作りたいのでしょう。我々日本人に合うような」
「ああ。国民には、独自の芸術がある。キリスト教も根付いていない国で、イタリアやフランスのオペラをやったって日本人には全く理解できないだろう。気軽に楽しめると同時に立派な芸術でもある、日本人の歌劇を作らなければいけない」
「そして今はまだ、西洋の有名なオペラを上演して、オペラについて学ぶ段階にあるんでしょう」
藤原が伊庭の言葉を継いだ。伊庭は黙って頷く。
「君がオペラをやるなら……そうだな、『椿姫』なんてどうだ」
「『椿姫』ですか。そういえば、浅草でも人気のある演目でしたねえ」
「まあな。しかし、浅草オペラはダメだよ。君だってわかっているだろう。上演場所は芝居小屋、朝から晩まで公演を続け、十分な練習時間もない。特に女の連中ときたら、ろくな練習もせずに、舞台に上がってきわどい格好をして、自分のできない部分をごまかす。しかも、観客は若い男子学生が多くて、それで満足ときた。本当に実力のある者は、全く見向きもされない」
伊庭の脳裏に、一人の女の姿が浮かぶ。
可哀想な徳子(とくこ)。あれほど苦労して日本人離れした音楽とダンスの実力を身につけながら、それに見合った評価をされることもなく、死んでいった。
「私は、あの連中と地獄に堕ちていくのはごめんだと思った」
伊庭が絞り出した言葉に、藤原は「まあまあ」と言った。
「イバコウさんが思っているほど浅草オペラってひどかったかなあ。歌手にも観客にも熱気があって良かったと思いますが」
「熱気だけあっても、どうにもならないんだよ」
藤原は不満そうに伊庭の顔を見た。
「とにかく、私はもう浅草には見切りをつけたんだ。徳子が亡くなったあと、徳子の一座に残っていた連中や君とともに一座を作ったが、それも怠惰な歌手たちのせいで失敗してしまったしな。君もあの頃は残念なことに練習をボイコットする連中の一員だったが、私は君にだけは期待しているんだ。どうか、国民歌劇の担い手になってほしい」
「イバコウさんはいつもそう仰りますね。しかし僕にそんなことができるかどうか……」
藤原は俯き、湯呑みに入った茶をじっと見つめた。
「弱気になるな。私が保証するから大丈夫だ。君は、どんな西洋の一流オペラ歌手とも違う、君だけの魅力を持っている。君のその三味線音楽由来の繊細な歌い方こそが、国民歌劇にふさわしいんだ。君は今、民謡や歌曲ばかり歌っているが、いずれオペラにも出てほしい」
伊庭がそう熱く語るのを、藤原は庭先に咲き誇るツツジの花を眺めながら聞いていた。
「ええ。わかってますよ。そろそろ、僕もオペラの練習をしようかな」
「それは良い。君には若くて思慮の浅いアルフレードがぴったりじゃないか」
アルフレードは、『椿姫』の主役で高級娼婦のヴィオレッタに恋をする、田舎から来た青年貴族のことである。
「ええ、そんな。ひどいですよ……」
「すまない、言いすぎた。……まあ、一杯どうだ。せっかく帰ってきたんだしな。あがっていけよ」
藤原は、その言葉で少し元気を取り戻したようだった。彼らは、伊庭の書斎へと向かった。それから二人は、会えなかった時間を埋めるかのように、夜が更けるまで話し続け、結局藤原は伊庭の家に泊まっていった。
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