名前を呼んで/アル

 この街を歩いているとたまにすれ違う人物は、実はちょっとした有名人。というのも、りんごばかりを盗むりんご泥棒だからだ。いつも誰かしらに追われてて、きっと私の事は風景の一部位にしか認識されていないのだろう。

 いつも通るのは細い立体交差。身を隠し、追っ手を撒くのによく利用しているようだ。

 ばたばたと複数人の足音が過ぎてから顔を出す。

「こんにち――わっ!?」

 タイミングが悪かったようだ。挨拶と同時に突き付けられたのは剣。私は慌てて両手を挙げた。

 りんご泥棒は刃を突き付けたまま私を睨み、やがて敵ではないと分かったのか「……悪い」と短く謝って剣を納めた。

「ねぇ、りんご泥棒さん」

 尋ねてみる。

 りんご泥棒は戦利品に噛り付きながら、視線だけこちらに向けた。

「りんごを狙うのは、何か理由があるの?」

「無ければ《りんご泥棒》なんて呼ばれてなかっただろうな」

 つまらなさそうに答えてくれた。

「理由、気になります」

「聞いてもつまらないけど?」

「興味深い話を持っている人は、みんなそういうんです」

 私が身を乗り出して聞こうとすると、りんご泥棒は眉を潜めた。

 失礼かもしれない事は分かってる。けれども好奇心に蓋をしたくない。

 彼は静かに答えた。

「食べないと命に関わるからだ」

 どうせ信じないだろうといった風な表情だ。

 もちろんすぐには信じられなかったけれど、そんな顔をされたら、本当なのかもしれないと思ってしまう。そして、あまり深く聞いてはいけないかも知れないとも。

「りんご泥棒さん……」

「あのな」

 襟元を引き寄せられ、お互いの顔が近付く。

 甘い香りがする。藤色の瞳が、近い。

「俺はアルだ」

「……へ」

「名前で呼べ」

 突然の名乗りに呆然としている間に、襟元を掴んでいた手から解放された。

「なんで名前……」

「さあ、なんでだろうな。

 厄介を呼び込む前に、防いどく感じか」

「……はあ」

 納得できるようなできないような。

 アルの顔を見ながら心の中で何度か呼んでみる。――と、何故か顔を逸らされた。

 あえて覗き込みにいく。迷惑そうな顔をされた。

「嫌なんですか」

「別に、嫌なんかじゃ、ない」

「ならどうして避けるんですか」

「凝視されるのが苦手なだけだ」

「嘘ですね」

「……」

 黙りこんで、膝に顔を埋めてしまった。

 表情が、見えない。

 言葉が、見つからない。

 沈黙の空間に、もしかしたらこの場から離れた方が良いのかも知れないなど様々な思いが浮かんでは消える。

 そのうちに気まずさからか考える論点がズレてきて、沈黙を壊したくて、口を開く。

「だったら、私はナナです」

 ぴくりと肩が揺れた。ゆっくりと顔を上げたアルが私を見る。

「名前で呼んで欲しいのは、お互いさまです……から」

 ああ、何だか恥ずかしい。顔が熱い。

 イエスでもノーでもいいから、何か、言葉を――。


「ナナ」


 優しい声が、私を呼んだ。




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