第17話 ルーヴへの問いかけ

 しばらくして、私たちは再び建物に戻った。

 機械時計の針は十四を指し、遠くからは再び訓練の声が聞こえてきた。

 さて、次は誰の元へ向かうのか。

 そう思っていると、窓の外から清々しい匂いが漂ってきた。

 様々な香草のような匂いは、儀礼室で嗅いだものだろう。

 冷え切った乾燥地帯に似つかわしくない匂いは、だんだん強くなってきた。


「兄様、この匂いはなんでしょうね」


「うん? 匂いなんてしてるかい?」


 鼻を鳴らして嗅いでも気づかないらしい。

 私が敏感すぎるのだろうか。

 歩くほどに強まる匂いは、離れた建物から広がっていた。

 それなりに大きい場所は扉が開け放たれていて、中に数名の人影が見える。


「倉庫、かな?」


 兄様が覗き込むと、その場に居た全員が慌てて敬礼を返す。

 その中に見知った顔を見つけ、兄様は小さく手を上げた。


「ルーヴ書記官、ちょっといいですか?」


 誰よりも短い煤けた金髪が、上官に子どもの真似事のような敬礼をする。

 そうして近づいてきたルーヴは、私たちに深く頭を下げた。


「邪魔してすみませんね。ここの説明をしてもらっていいですか」


「承知いたしました」


 ルーヴは表情の薄い顔で頷くと、広い室内をぐるりと手で指した。


「こちらは後方支援の団員が管理する物資保管庫です。

 武具はなく、遠征用の備品を多く扱っております」


 言われたとおり周りは棚で囲まれていて、麻袋や木桶などが隙間なく詰め込まれていた。

 ただそれよりも、部屋の中心で人々に囲まれている樽に意識は行ってしまう。

 体格のいい大人がようやく抱えられる大きさから、ワイン樽か何かだろうか。

 下部には液体を取り出す筒が差し込まれ、上部は完全に開かれていた。

 中には青々とした香草が縁一杯まで入っていて、これが匂いの根源らしい。

 私の視線に気づいたのか、ルーヴは作業を続ける団員たちに目を向けた。


「あちらは聖水になります」


「聖水というと、教会のとは違うんですか?」


 兄様も興味を持ったのか、ルーヴの説明に耳を向ける。

 聖水といえば、教会が精製するものが最たるものだろう。

 病を払い万人を癒やす、神の雫。

 さすがにそれは迷信だとしても、有り難がる民が多いのは事実だ。


「はい。教会の聖水を使うと、武具が駄目になってしまうのだそうです。

 争いを嫌う女神様が鈍らに変えてしまわれるのだと」


「教会の聖水には岩塩が含まれているからね。金属が錆びるのは当たり前だ」 


 苦笑を浮かべて囁く兄様の頭にも、私と同じ考えがあるに違いない。

 帝国の三大勢力である、皇帝、教会、騎士団。

 水面下でのせめぎ合いは、こうして末端まで伝えられているのだろう。


「中を見ても?」


 兄様の希望に、樽の回りに居る団員が蜘蛛の子を散らすように離れていった。

 調査においてはありがたいけれど、ここまで逃げられるのもなんだか困る。

 けれど兄様は気にすることなく、樽いっぱいの香草に目を凝らした。

 中に入っているのは、血止めや鎮静効果のあるものだそうだ。

 なんでもこの聖水は騎士団の伝統的なものだそうで、古くから香草の調合が決められているらしい。


「水瓶も決められているんですか?」


「はい。聖水で清めた純銀製の水瓶に注ぐことになっております」


 近くの棚には、儀礼室にあったのと同じ水瓶がいくつも並んでいる。

 私でも抱えられそうな大きさだけれど、水が入ったらかなり重そうだ。

 それらはもちろん凹んでいなく、鈍い輝きを放っていた。


「ああ、すいませんね。作業を続けてください」


 そう言うと、団員たちはそろりそろりと近づいてくる。

 作業はもう大詰めらしく、外から水を汲んだ木桶が運ばれてきた。

 そっと注がれる水はしばらくその場に留まり、じっくり染み込んでいく。

 香草はよほど押し詰められているらしい。

 何度かに分けて注がれた水は、しばらく経ってからようやく一滴落ちてきた。

 あれだけの香草を通り抜けたからか、雫には強い匂いが染み込んでいるようだ。


「これは、どれくらいで完成するんですか?」


「この速度ですと、ぴったり五時間で仕上がります」


「ずいぶん正確に分かるんですね。それも決まりですか?」


「いいえ。ですが、毎日行っているので耳で覚えております」


 ぴたん……ぴたん……ぴたん……。

 筒から滴る水滴の速度は変わらない。

 これを元に時間を計っているのだろう。

 毎日の作業なら覚えることはできそうだ。


「事件のあった日も?」


「いいえ。一昨日は人員不足のため行っておりません。

 後方支援の団員も遠征に参加しており、残ったのは自分一人でした」


 遠征は相当に大規模だったらしい。

 確かに、これを一人で行うのは骨が折れそうだ。

 けれど……どうしてルーヴだけが残ったのか。

 本人の希望など通らないだろう。

 一応誰かしらは残さなければという考えか、はたまた華奢な身体では無理と判断されたか。

 まぁ、大した問題ではないだろう。

 聖水の精製に満足した兄様は、ルーヴを連れて扉の外へ出た。

 若干麻痺した鼻で冷たい息を吸っていると、兄様は声を落として言った。


「ブルアン副団長との関係をお聞きしても?」


「幼いころ、路上生活から救っていただきました」


 端的な質問に、ルーヴは一切表情を動かさなかった。

 タレイアが言い方から内密なものかと思っていたけれど、そうでもないのかもしれない。

 もし知っていたとしても、孤児の入団は珍しくもなんともないだろう。

 指摘して貶めるには人数が多すぎる。


「騎士団に入団したのはブルアン副団長への恩義からですか?」


 こくりと頷く仕草は、本当に子どものようだ。

 これで十八歳だというのだから、幼いころの生活はよほど重要なのだと感じる。

 大きな制服から見える手首は細く弱々しく、あの水瓶すら持つのに苦労するだろう。

 兄様もそう思ったようで、小さなため息を吐いた。


「どう考えても不向きでしょう。教会に残ることは考えなかったんですか?」


「自分の力など些末なものですが、微力ながらお力になりたいと思いました」


 淡々とした応対の中、僅かに熱が見えたような気がした。

 きっと、不向きだと分かっていても止められなかったのだろう。

 その気持ちは分かる。

 私もそうだからだ。

 勝手に親近感を抱きながら、過去を深堀りしてもこれ以上の情報は得られないように感じた。


「鐘つき部屋は……書記官なら知っていそうですね」


「はい。清掃に入ることもございますので」


 兄様の大きな関心事はブルアンとの関係だったようで、他に聞きたいことはなかったらしい。

 けれどそれだけでは仕事を抜けさせた意味がないとばかりに、唸りながら首をひねる。

 兄様もルーヴには気を許しているのだろう。

 緊張感の弱まった仕草は、私たちの関係を兄妹に戻してくれるような気がした。


「うーん……ルーヴ書記官は、入団して何年経ったんでしたっけ?」


「……一年、経ちました」


 答えに一瞬詰まったのは頭の中で計算したからだろう。

 恩人のために騎士団に入り、一年間勤め上げた。

 それは十分立派なことなのだから誇っていいだろう。

 ルーヴのように、私も兄様のために監視官を勤め上げよう。

 薄い笑みを浮かべる兄様のローブに触れ、頭を下げてから仕事に戻るルーヴを見送った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る