第4話 事件現場

 ルーヴと衛兵の同行を断り、私たちは扉の前に立った。

 細かい模様が彫られた頑丈そうな扉は、壊すことなど不可能だろう。

 緊張を紛らわすように確認していると、兄様はゆっくりと扉を開いた。

 外壁と同じ色の壁と床。

 十人程度でいっぱいになりそうな広さの中、壁や天井に黄色の天幕が数多く飾られている。

 目に眩しい色が満ちる場所は、騎士団の儀礼室に相応しいだろう。

 なのに、それを覆す色が存在している。

 見る者の意識を暴力的に集める色は、私たちの胸にある色と同じだった。


「これは、また」


 小さく呟いた兄様は、私の横で小さく息を吸う。

 けれど私は一瞬のうちに血の気が引き、呼吸の仕方なんて忘れてしまった。

 広い部屋の中心に横たわるモノを見れば、誰しもがそうなるのではないか。

 私は監視官になるために特別な知識を与えられてきた。

 犯罪に関するものはもちろん、医学的な教養も備えている。

 病気も怪我も症状も、知られているものはほとんどすべて頭に入れた。

 それでも……そんなのは、机上の空論だった。

 実際に現場を見たら、話に聞いただけの記憶では圧倒されてしまう。

 空気の冷たさ。

 饐えた臭い。

 漂う雰囲気。

 あんなに大きな口を叩いたのに、襲いかかる現実に身体が震え、その場で崩れ落ちてしまった。

 床が冷たい。

 肌が泡立つ。

 喉が詰まる。

 なのに五感は鋭くなっていく。

 赤色が迫ってくる。

 赤色に覆われる。

 赤色に、赤色に……。


「無理に見なくていい」


 心臓が硬い音を立てていることに気付いた時、低い声と共に視界が遮られた。

 骨ばった、大きく冷たい手。

 目元をすっぽり覆ったあと、兄様は私を抱きかかえてくれた。


「に……さ、ま」


 温かい。

 そう感じたら、ようやく息ができるようになった。

 薬っぽい匂いが私を包み込んでいる。

 六年前より強く感じるものは、私の恐怖をすぐに溶かしていった。


「お前は僕だけ見ていればいい」


 それは監視官として、調査官を見ていろという意味なのだろう。

 いつもと変わらない優しい声に、心臓の痛みが和らいでいく。

 視界は黒に覆われ、兄様以外の何も見えない。

 なんて幸せな景色なのだろう。

 でも、私は……。

 

「兄様と……同じものを見るんです」


 監視官として。

 兄様の隣に立つ者として。

 不甲斐ない態度はこれで終わりだ。

 ゆっくり身体を離し、震える手で膝を支えて立ち上がった。


「……そうか」


 そんな私を見た兄様は、なぜか悲しそうな顔をしていた。


 顔を上げると、惨劇が姿を現した。

 目を背けてはいけない。

 その一心で私は視界に意識を集中させた。

 決して広くはない部屋の中心で、騎士服を着た大男が横たわっている。

 今まで見たどの服よりも綺羅びやかなのは、騎士団長という地位に見合ったものなのだろう。

 青灰色の床石を染める血液を踏まないよう、慎重に足を進める。

 ゾロは言っていた。

 出血量だけではなく、あれでは助からないだろうと。

 どういうことかと思ったけれど、姿を見れば一目瞭然だ。

 騎士団長……レオーネの左胸には、金色に輝く長剣が設えられているのだから。

 胸に深く突き立てられた長剣は、傾くことなく遺体を磔にしていた。

 側には空っぽの鞘が落ちていて、男が役割を奪っていた。


「……ひ、どい」


 遺体を鞘としていたのは長剣だけではなかった。

 右手には槍が。

 左手には斧が。

 大きく開いた口の奥には矢が。

 そして、おそらく局部であろう場所にはナイフが突き刺さっている。

 穿たれた武具たちが、遺体が磔にされているという印象を強く演出しているのだろう。

 徹底的な装飾は、一体どんな気持ちで行われたのか。

 気が遠くなりそうになった時、真っ黒な靴が真っ赤な床を踏みしめた。


「ふむ……これじゃあ顔も分からないな」


 血溜まりを気にすることなく近づいた兄様は、遺体を見下ろして眉をしかめる。

 けれど口調は変わらず、動揺の気配など微塵も感じない。

 これが歴戦の調査官というものなのか。

 誰よりも長く務めているという兄様は、まじまじと観察を続ける。


「口、両手、左胸、それに局部、か。

 もしも生きたまま刺されたのなら、いっそ殺してほしくなりそうだ」


 さっきまであれほど私に気を使ってくれていたのに、今は存在すら忘れているのかもしれない。

 それは調査官として相応しい態度なのだから、拗ねることなどとんでもない。

 私は迫りくる吐き気を押さえつけることで精一杯だった。


「この長剣は、触っても?」


 入り口で控える衛兵に質問する声も、顔も、穏やかなものだ。

 まるで死体を前にしているとは思えないくらいに。

 小さく頷くのを確認すると、天を向く長剣へと触れる。

 ごてごてとした装飾は実践には不向きのように見え、おそらく名誉的なものと判断できた。

 衛兵の話によると、儀式に使うための特別な宝剣だそうだ。


「ずいぶん深く刺さっているようだ。びくともしない。

 それに、他の武具もなかなか嗜虐的だね。標本でも作りたかったのかな」


 人間は鞘である前に水瓶である。

 そう裏付けるように、長剣が動かされる度に湿った音が漏れ聞こえた。


「うぇ……」


 思わずえづいてしまったけれど、衛兵たちも青白い顔で同じことをしていたからよしとした。

 久しぶりに会う兄様は、どうやら任務に集中すると周りが見えなくなる気質らしい。

 心に留めておくことにして、酸っぱい唾液を飲み下してから姿勢を正した。


「フィオナ。お前はどう思う?」


「私……ですか?」


 ゆっくりと見下ろす兄様は、髪に隠れた目元を向ける。

 真っ黒なローブで遺体は隠されたけれど、広がった血の色を隠すのは到底不可能だった。

 まるで試すかのような言い方に、どう答えたものなのか。

 監視官と調査官。

 二人で協力して事件を解決する立場なのだから、私も考えなければいけないのだ。

 必死に吐き気と寒気を隠しながら見上げ、兄様が期待しているであろう言葉を絞り出した。


「現場が……とても、荒らされていると、思います」


 遺体だけでなく、室内もひどく乱されていた。

 儀式にでも使いそうな大きな銀製の水瓶が、側面に凹みを作りながら転がっている。

 乾燥地帯だというのに僅かに湿っぽい臭いがするのは、これが原因なのかもしれない。

 そして天井を覆う垂れ幕も一部が引きずり降ろされ、壁に飾られた武具があちこちに落下している。

 私でも届く低さの武器はそのままだから、レオーネ自身が手にしたのか。

 もしかしたら、激しい戦いでもあったかのかもしれない。

 勝手な想像が膨らむ前に兄様を見上げると、再び穏やかな声が続いた。


「ゾロ騎士長は外部犯だと言っていたね。それについては?」


「可能性は……低い、かと」


「どうしてそう思うんだい?」


 兄様はもう分かっているのだろう。

 それでも私のためにこうして段階を踏んでくれているのだ。

 まるで教師のように導いてくれる兄様を幻滅させないよう、必死に頭を働かせる。


「単なる部外者が、わざわざこんな場所で犯行に及ぶ必然性が感じられません」


 第一に、ここは騎士団本部の奥地にある場所だ。

 衛兵の目をかいくぐり、迷路のような敷地内を進み、あえてここに侵入する。

 普通に考えて、そんなことをする部外者がどこにいるというのか。

 自分の中で確信を持った考えでも、兄様の期待に応えられるかは分からない。

 そっと顔を見上げると、薄い唇がほんのり弧を描いていた。


「うん。僕と同じだ」


 その答えにほっとすると、兄様は私と遺体から数歩離れた。

 血溜まりを踏んだはずの靴は足跡を残しておらず、とっくに乾いていたのが分かった。


「そもそも、ただの一般人が、こうも凄惨な殺し方をするだろうか?」


 本当にそもそもの問題だ。

 ゾロは、侵入した外部犯がレオーネと鉢合わせしてしまったのだろうと言っていた。

 だとしても、ここまで損壊する必要性は皆無だろう。

 そんなことをするくらいなら、さっさと逃げるほうがましというものだ。


「それに見ての通り、床は石造りのとても硬いものだ。

 いくら立派な武具だとしても、僕やフィオナの力では到底貫けないだろうね」


 そう言ったあと、今度は室内をぐるりと見回した。

 天井は高く、壁にはまばらに燭台が備えられている。

 もちろん灯が灯っているはずもなく、隅の方は薄暗く沈んでいた。


「ゾロ騎士長は、扉の鍵は閉まっていたと言っていた。その上、この部屋には開く窓がない」


「あの窓は……」


「はめ殺しだね。開けるためには硝子ごと割らないといけない」


 壁の上方にある窓は、おそらく明かり取りのものだろう。

 濁った硝子がはめられていて、そもそも人が通れる大きさでもない。

 小柄な私でも無理だろうから、騎士団に所属する人なんて到底無理だろう。

 と、いうことは……。


「密室殺人、ですか?」


 そう聞いてみると、兄様は口元を苦々しく歪めた。

 不可能犯罪に繋がる状況は芳しくないのだろう。

 可能性を潰すために、この場に見合う状況を頭に浮かべた。


「もしかしたら、被害者が鍵をかけたとか?」


 過去の事件記録から、そういったパターンもいくつかあった。

 犯人に襲われたあと、息絶える前に部屋に逃げ込み鍵をかける。

 結果、不可思議な密室殺人に発展してしまうケースが。


「磔にされた被害者が、かい?」


「う……無理、です」

 

 知識を披露したいがために、とんだ失態を犯してしまった。

 恥ずかしさで俯いている間にも、兄様の思考は続いていく。


「鍵の管理については聞いておく必要があるね。案外、誰でも使えたのかもしれない」


 もしそうなら、ゾロが鍵について大げさに語るだろうか?

 ただ、確かに数やら管理方法やらはしっかり確認しなければならない。

 胸にしっかり留めておき、兄様の話に意識を戻す。


「部外者を犯人にするなら扉の鍵は開けておくべきだった。なのに、あえて施錠した」


 淡々とした声につられて振り返ると、扉にはどちらも掛け金ではなく鍵穴があった。

 つまり、鍵がないとどちらからも開閉ができないということだ。 

 

「それにはきっと……相応の理由があるんだろうね」


 それが分かれば、犯人も暴かれるのだろうか。

 それを私たちは、暴くことができるのだろうか。

 そんな不安が一瞬浮かんだけれど、そんなことはありえない。

 私たちは帝国より派遣された調査団。

 失敗など、ありえない。


「さて……遺体に関してはもういいだろう。

 あとは、検死の結果と事件の詳細を聞くことにしようか」


 兄様はくるりと扉へ身体を向けると、長い足を引きずりながら歩き始めた。

 磔にされたあの遺体は、このあとすぐに運び出されるのだろう。

 私が初めて目にした被害者に、私は報いることができるのだろうか。

 後ろ髪を引かれる思いで外に出ると、冷え切った空気を胸いっぱいに吸い込んだ。


「ご遺体の見分が済み次第、ゾロ様の元へご案内するよう言いつかっております」


 衛兵が再び鍵をかけた後、直立で待機していたルーヴが声をかけてきた。

 痩せ細った身体は寒さを際立たせ、骨の浮いた手首に痛々しさを感じる。

 いくら書記官とはいえ、騎士団の仕事は辛いのではないだろうか。

 そんな考えが浮かんだものの、他人でしかない私が口にして良いことではない。


「気の短いお方だ。ただその前に、少し休憩してもいいですかね?」


 苦笑した兄様は言うが早いか、外壁沿いの僅かな段差に腰掛ける。

 兄様は見た目の通り身体が強くない。

 虚弱体質と言ってもいい身体は、こまめに休憩を必要とするそうだ。

 とはいえ、片膝を抱えて座るのはお行儀が悪いのではないか。

 対するルーヴは正面に立ったまま、兄様へと身体を向けている。


「休まれるのでしたら、お部屋を準備いたしますが」


「いえ、ここでいいですよ。それよりルーヴ書記官は、ゾロ騎士長と同じく外部犯だと思いますか?」


「はい」


 迷うことのない肯定に、兄様はゆっくりと顔を上げた。

 やんわりと見上げる兄様に対し、ルーヴはしっかり相対している。

 目元の見えない相手に対するまっすぐな視線は、自信の表れか、騎士団特有の癖なのか。

 なんともいえない緊迫感の中、兄様は穏やかに問いかけた。


「その理由は?」


「団長様だからです」


「分かりやすい理由ですね」


 まっすぐすぎる理由に、兄様は苦笑を漏らす。

 しかしルーヴはいたって真面目なようで、内心面白くはないのかもしれない。

 けれど兄様にとっては、素直な反応は快いものだったのだろう。


「レオーネ団長は誰もが尊敬する人間だから、ということですか?」


「そういった、気持ちの問題ではありません」


「というと?」


「団長様は騎士団で一番強いのです。ですから、団員相手なら……あのようにはなりません」


「遺体には戦いの跡も、抵抗の様子もありませんでしたね。だから部外者だと?」


 ルーヴの深い頷きに、兄様は抱えた膝を下ろす。

 投げ出された脚は細く長く頼りなく、靴の底面が土で汚れていた。


「あれほどまでの犯行です。並大抵の殺意ではなく、強い憎悪からのものでしょう。

 そんなものを、部外者が抱けますかね?」


「抱く者もいるかもしれません」


「部外者が、騎士団の備品を使うでしょうか?」


 兄様は曖昧な笑みを浮かべ、小さく首を傾げる。

 長い前髪のせいで目は見えず、紅玉の証がなければ不審人物として捕らえられることすらあるだろう。

 そんな異様な姿を前に、ルーヴは無表情のまま押し黙る。

 問答が途切れたことに気づいた兄様は、慌てたように膝を抱え直した。


「ああ、いえ、そうじゃない。

 意見が食い違うことはいいことです。それだけの選択肢があるんですから。

 一方的な思考はいけないことだ。ルーヴ書記官の主張を聞かせてもらえますか?」


 否定し続けられたルーヴがなんの反応も返さないことに、兄様は内心で焦っているのかもしれない。

 これから少なからず同行する相手だ。

 関係が良好に越したことはない。

 そのため、躊躇いがちに口を開いたルーヴを見て胸をなでおろしたようにみえた。


「……騎士団の中で、団長様に敵う方はおりません。備品については、目についたから、かと」


 一方的な主張を聞かされた身としては、今更聞かれてもいい気分はしないだろう。

 不承不承といった主張に、兄様は大げさに頷きを返した。


「一つだけに目を向けていたら、いつか背後から襲われます。

 内部犯と外部犯、それぞれの視点で疑うことが解決への正しい道です」


 先程までの断定的な質問はどこへ行ったのか。

 そう結論づけた兄様は、重々しく腰を上げる。

 兄様は髪に隠れた眉間に指を当てながら、無表情で見つめるルーヴに移動を促した。


 来た道を戻りながら、兄様はずっと黙っている。

 何か考え込んでいるのだろう。

 兄様は私の数歩先の思考をしている人なのだから。

 ただ、そうなると急に不安になってくる。

 大きな機械時計の前で足を止めたのをきっかけに、私は兄様に聞いてしまった。


「兄様……私に教えることで、捜査の邪魔になっていませんか?」


「教える?」


 きょとんとした声にこっちが首を傾げてしまう。

 立ち話に気づいたルーヴも足を止め、空気を壊さないためか静かに振り返る。


「ですから……私に捜査の方法とか、気づけているかとか、指導してくれているのでしょう?」


 その質問に、兄様の口元が薄っすらと開き、すぐにきつく結ばれた。


「お前が監視官でいるというのなら、僕はお前の意見を参考にするよ」


「それは、どういう……?」


 二人で捜査するとはいえ、主導権を握るのは調査官のほうだ。

 もちろん私自身も調査に専念するけれど、長く調査官を務める兄様の言うこととは思えなかった。


「僕はね、元来すべてに悲観的なんだ」


 その声は、どこか諦めを含んでいるように聞こえた。

 力なく、どこか他人事で、なのに何かを責めているかのように。


「二つの目で、二つの頭で見つけた答えなら、それなら僕も肯定せざるを得ない」


 調査官と、監視官。

 兄様と、私。


「それが、僕が監視官に……お前に求める役目だよ」


 骨と皮しかない指で差されると、胸の紅玉が重みを増した気がした。

 なんて控えめで、後ろ向きな人なのだろう。

 けれど兄様が求めるのならば、私は兄様の思考の支えになろう。

 そう意気込んでいると、兄様はふと、ぼやくように吐き出した。

 

「ただ……今の時点で考えられる犯人像は、騎士団長をも瞬殺し、一突きで地面を穿つ武芸の達人かな?」


 あまりにも突拍子もない犯人像に、私もルーヴも言葉を返せなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る