第3話 拒絶

 ゾロの見送りを受けて応接室を出ると、その場で一度息を吐いた。

 やはり緊張していたのだろう。

 一言も喋っていないというのに喉がカラカラに渇いていた。


「長旅だったと聞いております。お飲み物をご用意いたしましょうか」


 私のあとに出てきたルーヴが中性的な声で言った。

 並んで立つと向こうのほうが背が高いらしい。

 発育の悪い私と比べれば当たり前のことだけれど、少し悔しくなってしまう。


「フィオナ、休んでくるかい?」


「大丈夫ですっ! 私は監視官なのですから、兄様から離れません!」


 それが優しさからだと分かっていても受け入れられない。

 見えない目を見上げると、兄様は口元を緩めて私の頭を撫でてくれた。


「無理はしなくていいからね」


 骨ばった大きな手で触れられると、そのまま頷いてしまいそうだ。

 けれど甘えるわけにはいかない。

 絶対に離れないことを伝えるために、真っ黒なローブをぎゅっと握りしめた。


「意気込むのはいいが、お前の仕事は僕の行動を見ていることだけだ。

 事件の解決は調査官だけの義務である。そう教わっただろう?」


「ですが……」


 私は兄様の役に立ちたい。

 けれど兄様は求めていないのだろうか。

 そんな悲しさがこみ上げる私を見て、兄様は私の頬を撫でた。


「僕らにはこの忌まわしき紅玉がついている。安心しなさい」


 胸に重くへばりつく、大きすぎる紅玉。

 そんなものより、兄様の言葉のほうが私には響くのだ。

 私の気持ちに気付かなかったのは、いいのか悪いのか。

 それでもしっかり頷きを返すと、早速現場へ向かうことになった。


「ええと……ルーヴ書記官、でしたっけ?」


「はい。ルーヴとお呼びください」


 兄様が先を歩く背中に問いかけると、そんな答えが返ってくる。

 ゾロとは違い上から目線でないからか、兄様の口調も気軽なものに変わっていた。


「他人は記号化しないと覚えられないもので。すみませんね」


 生真面目な言葉を即座に切り捨てた兄様は、ルーヴの横に並んだ。

 私とそこまで変わらない背で兄様を見上げるのは首が痛むことだろう。

 それでもルーヴは顔色一つ変えずに歩き続けた。


「先程の方は騎士長でしたね。この騎士団で一番偉い人を指名したのですが合ってますか?」


「いいえ。つい先程、ゾロ様より上の役職の方が戻られました。

 ほとんどの団員が遠征に行っておりましたので」


「つまり他にもいるってことですか。嫌だなぁ。偉い人、苦手なんですよね」


 兄様はルーヴの答えに深いため息をついた。

 しかしその偉いという者に対しても、ブローチを見せれば優位に立てることは確実だ。

 紅玉は皇帝が認めた相手にだけ直々に下賜される。

 故に、紅玉を手にした人間は皇帝の加護を受け、人民は敬意を表する。

 とはいえ、いくら相手がへりくだってくれてもそれとこれとは話が別だ。

 兄様は小さな窓から差し込む陽射しに顔を向け、玄関ホールで足を止めた。

 機械時計は十四の数字を指していたけれど、差し込む日差しは遠く弱々しかった。


 入り組んだ道を延々と進むと、ようやく曲がり角がなくなった。

 ルーヴの案内がなければたどり着くことは難しかっただろう。

 防衛が必須の施設とはいえ、あまりに難しい道筋にうんざりしてしまいそうだ。


「あちらが儀礼室です」


 突き当たりの扉を開けると、渡り廊下の先にこぢんまりとした建物がぽつんと建っていた。

 自然の石で組み上げた青灰色の建物は、名前に相応しい荘厳さを備えている。

 周りの地面は土を押し固めただけの簡素なもので、遠くに高い防壁が見えた。

 扉の前には逞しい衛兵が立っていて、絶え間なく警戒しているらしい。

 けれど私たちを目にすると敬礼で答え、鍵を開けて退いた。

 いよいよ初めての現場だ。

 小さく息を吸っていると、兄様がゆっくりとこちらに向き直った。


「フィオナ」


 兄様の声は僅かに震えていた。

 吹き抜ける風で凍えているのだろうか。

 そっと触った手は氷のように冷たかった。


「お前はここにいなさい」


「え……?」


 低い声に息が詰まる。

 思わず顔を見上げても、髪で隠れた目元は見えなかった。


「どうして、ですか?」


 目の前に事件現場があるというのに、監視官である私を置いていこうというのか。

 兄様の顔は扉に向いていて、私に向けられることはなかった。


「ここからでも僕を監視することは可能だ。お前まで現場に立ち入る必要はない」


 そんな兄様の突き放すような言葉に、ふっと今までのことが頭に浮かぶ。

 考えてみれば、今の時点で私が何かをさせてもらえたことはないのではないか。

 騎士団内に立ち入る時も、ゾロに事情を聞く時も、ルーヴの案内に従う時も。

 兄様は決して私に口を開かせず、私はこの事件に兄様を通してしか関われていないのだ。

 ようやく気付いた事実に、私の身体に焦燥が走った。


「わ……私は監視官です、監視官は調査官と常に一緒にいる決まりですっ!」


「必要ない。僕は今まで一人でやってこれたんだから」


「そんな……!」


「ルーヴ書記官、彼女と一緒に居てくれるかな」


 穏やかな言葉と共に、冷たい手が離れていった。

 呼びかけられたことでようやく動きを見せたルーヴは、気遣わしげな視線を向けてくる。

 どうしてそんなことを言うのだろう。

 それほどまでに、私は頼りないのか。

 どこまでも私は、妹でしかないのか。

 悔しくさで視界が滲んで揺れていく。

 真っ黒な背中が離れていくのすら、ぼんやりとしか見ることができない。

 また、離れてしまうのか。

 涙が零れ落ちそうになった時、兄様は振り返ることなく囁いた。


「……監視官というのは、決して楽な立場じゃない。

 今なら適正なしと判断して、修道院に行く道も残っている」


 明確な拒絶に胸が詰まり、雫が落ちた。

 とある理由で親に見捨てられた私は、本来なら修道院に入る予定だった。

 それを覆してまで得たこの立場を、何もすることなく捨てろと言うなんて。

 私がここにいることは、兄様の意に反したものなのかもしれない。

 でも……これが兄様と一緒にいる一番確実な方法だから。


「……絶対に、嫌ですっ!」


 遠ざかる背中を捕らえるように、折れそうな腕を掴んだ。

 鼻の奥の痛みは消えないけれど、涙は瞬きき一つで追いやった。

 絶対に離れないためにこの立場になったのだ。

 誰よりも兄様の近くにいるための立場は、兄様にだって否定されたくない。

 決して強くはない力なのに、兄様はその場で立ち止まった。

 叱られるだろうか。

 呆れられるだろうか。

 それとも……嫌われるだろうか。

 考えるだけで血の気が引きそうだけれど、手を離したくはない。

 下唇を噛みながら見た地面は、いつの間にか白い靴に泥を飛ばしている。

 数度の呼吸が聞こえたあと、苦々しい声が降ってきた。


「事件に関わるということは、凄惨なものに触れるということだ。

 今回の事件だって目を背けたいものばかりになるだろう」


「覚悟はできています!」


「いいや、できていない」


 淡々と語る兄様は、今までどれほどの事件を見てきたのだろう。

 離れていた六年間は、兄様の認識を変えるのに十分な時間だったのだろうか。


「きっと、後悔する」


 絞り出された声に、肩が少しだけ跳ねた。

 殺された、と聞いただけで苦しくなった。

 そんな私が実際の現場を見れば、確かに後悔することもあるかもしれない。

 閉められた扉の先に何があるのか。

 まだ目にしていない私が言うことはおこがましいのかもしれない。

 でも……だとしても。


「兄様から離れることのほうが……私にとっては、後悔です」


 修道院に行くということは、生涯兄様に会えないことになる。

 親に見捨てられ、一人きりで過ごしていた私にとって、時折訪れる兄様は唯一の希望だった。

 兄様は私に優しさを、厳しさを、慈しみを、思いやりを。

 兄でありながら、父のように、母のように、教えてくれた。

 そんな人を求めてしまうのは、異母妹として当然のことだろう。

 なのに突然、兄様は足を運ばなくなってしまった。

 兄様の居ない日常は、命を無駄に燃やしているようなものだった。

 物だけは満ちた部屋の中で、私は空っぽになった。

 私が我が侭だったのか、幼稚だったのか、迷惑だったのか。

 そんな不安を抱きながらの日々は、調査官になったという兄様に会うためだけにあった。

 監視官になれば調査官と共にいられる。

 それだけを糧に今まで生きてきたのだ。

 だから……たとえ苦しみに溺れながらでも、兄様の隣にいたい。

 決して離れる気がないことが伝わるように、硬い腕を強く握りしめた。


「……なら、もう何も言わないよ」


 兄様はしばらく黙ったあとにそう言うと、私の手を取り握る。

 さっきよりも僅かに温かくなった手とは違い、見下ろす空気は冷え切っていた。


「ただ、覚悟してほしい。監視官というものは……恐ろしい立場なんだと」


 それでも握ってくれたのだ。

 決して離されないように、私も強く握り返した。

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