崖っぷちに落とす

幾太

寝室にて

失礼します。

お母様体調はどうでしょう。いえ就寝のお時間なのは承知でええ、ええ、話したいことがありまして、お母様聞いてくださいまし。いえ、いえ、決して目は覚めませぬ。はい、聞くだけで、良いんです。ええ、聞いてください。アイツったら随分(ずいぶん)狡猾(こうかつ)でぇ、きっとあの人間というのは他(た)の人間で成り立っております。芯を持ち合わせていない。狡(ずる)い、狡い、狡い。

丁度先刻(せんこく)程のことでございまして、私はそこの随分大層な御屋敷の、えぇあの頭を固めた、仰々(ぎょうぎょう)しい服を身につけた男が家族といいご馳走でも頬張っているでしょう。あの御屋敷です。そこの倅(せがれ)と競っていた所です。どちらが向こう側迄(まで)順番に跳び、早く着けるかです。そこの田圃(たんぼ)ですよ。丁度手頃な石が手頃な間隔で置いてありましたんで、こりゃあやるしかねぇと、私共満足気に始めました。そりゃあもちろん、私、初めは順調で、5つの石程の差をつけながら、蛙を捕まえる余裕さえありました。ですが相手はその所謂(いわゆる)「一張羅(いっちょうら)」を飽きるほどに着ております。焦って転んでしまったら、もう、口にするまでもないです。田圃なんかでやるもんじゃありませぬ。今はそう、思っております。服に留まらず綺麗な顔迄茶いろぅくなってしまいまして。水が張ってあるもんですからズブズブ入って言ってしまい唖然(あぜん)と沈んでいくのを見るしかございませんでした。なにせ私も焦り始めましたんでどうも足が動きませぬ。頬を汗が伝(つた)ったのも束の間。ええ。これまた丁度その仰々しい男です。その、所謂お父様、相手のお父様です。自分の息子をお迎えに出向いていたのか歩いておりました。水の音に気づいてこちらを見遣(みや)ると鬼の形相です。向こう側から来ましたんでぇ押しのけられて私も田圃にはいりました。おまけに大きな声まで浴びせられて。その時からは帰るまで人を人として見られませんでした。倅を田圃からつまみ上げるとこちらを細うい眼できっと睨みつけて帰っていきました。競走のその相手も涙を流し、こちらを睨みつけてくるように見えてしまいました。あの時の悔しさと言ったらもう、私の人生一でございました。お母様なにか私は悪かったのでしょうか。私は狡(ずる)をしていたでしょうか。信用なりませぬ。綺麗だった。顔は綺麗でいらした。それなのにあんな父を持った。どうでしょう。他所様(よそさま)の子を田圃に押しのける。そんな父を持って喜ばしいでしょうか。他所様の子に罵声を浴びせ、他所様の子をきっと睨みつける。そういった父を持ち、上手く使い、どうでしょう、狡猾というお言葉はこのことに使う為に作られました。私は何も持ち合わせずとも強く、強うく、生きてきた。銭(ぜに)も、綺麗なお洋服も、つまみ上げてくれる体の強いお父様も。アイツァ弱い、脆弱(ぜいじゃく)だ。父がいないと、強く居られないんでしょう。可哀想だ、嗚呼(ああ)、可哀想……。

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崖っぷちに落とす 幾太 @wara_be

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