13

 意識から遠ざけるよう命じられたところで、そうそう都合よく実行できるはずもない。真っ白なベッドに潜り込んでからも、頭には佳南のことばかりが浮き沈みした。幼い時分の溌溂とした表情、ときおり覗かせた悪戯気な笑み、そして蒼白い寝顔……記憶のなかのあらゆる彼女が脈絡なく現れては、依織を搔き乱した。

 経験上、こうなると上手く寝付けないのは分かり切っていた。決められた時間に熟睡するのがもとより苦手な体質だ。どちらといえば日中、うつらうつらと細切れに眠るほうが調子を維持しやすい。いつから自分はこうなのだろうと考えたが、明確な答えは得られなかった。

 起き出して冷蔵庫のミネラルウォーターを飲み、何度目かの手洗いに行こうかどうか迷いながらけっきょくベッドに戻った。寝返りを繰り返しているうちに、ぼんやりと窓の向こうが白みはじめる。

 何時に起きてどうするという意識も、また叔父からの指定もなかったので、そのままぼんやりと寝床に留まりつづけた。次に気が付いたときは昼近くで、さすがに自分自身に呆れ果ててしまった。身支度を整え、階段を降りる。

 昨日教わった叔父の部屋を訪ねたが、どうやら不在らしかった。軽く家のなかを探してみても姿が見えない。窓から確かめると、車がなくなっていた。

 電話を入れてみようかと思いかけた段になって、不意に戻ってきた。玄関で出迎えると、巽は手に提げた袋を持ち上げてみせながら、買い出しに行っていたのだと言った。

「ちょっと心配した。ひと声かけるか、携帯に連絡してくれればよかったのに」

「まだ寝てると思ったんだよ。次からそうする」

 午後から打ち合わせが始まった。使ったのは叔父言うところの客間だが、西洋風の応接室と形容するほうが相応しく思える場所だった。猫脚の長椅子に腰掛け、木目の浮いたテーブルを挟んで向かい合わせる。

「やっぱり、夜は寝苦しいか」と叔父が訊ねてきた。「あれこれ考えがちになるか?」

「うん。意識するまいと思ってもね、どうしても」

「まあ、最初はそうだろうな。だが物理的に距離を取ったことは、必ず心身に効いてくる。頭痛はずいぶんましになると思うよ。それだけでも劇的に違うはずだ」

「かもしれないけど――」

 巽はやや上半身を前傾させ、

「〈天鵞絨の病〉による頭痛はかなり酷かったはずだ。特に相手の見舞いに行くなんてのは、並大抵の苦痛じゃ済まない。お前にはお前なりの気持ちがあるのは分かる。だが――それに呪縛されすぎるのはよくない。分かるだろう? 姉貴もお前を心配していた。お前が自分の人生を前向きに生きられなくなってるんじゃないかと」

「このあいだのお見舞いの日、お母さんから電話があった。その通りのことを言われたよ」

「もしもの話だが、幻に襲われることがなかったら、お前は痛みを堪えながらでも見舞いに通いつづけたと思うか?」

 すぐさま頷いた。「それは間違いない。やめろって言われても、どうしようもないから」

 藤倉沙夜の顔が浮かぶ。あの日叩きつけられた怒り。突きつけられた言葉。

「やっぱり、私のせいだから」

「依織。あのな――」

「違うの」と叔父を遮った。感情のまま、乱れた調子で、「お母さんも、叔父さんも、本当のことは知らない。私のせいなんだよ。七年前のあの日、佳南を向こう側に追いやることになったのは――私の言葉のせいなの」

「どういうことなんだ」あくまで穏やかに、巽は尋ねてきた。「なにかまだ、話していないことがあったのか?」

 頷いた。目に力を込めて堪えるつもりだったのに、ひとりでに涙が溢れてきて頬を濡らした。息を吸い上げんとした咽が、鼻孔の奥が、痙攣を起こしたように痛む。

 私の、と繰り返し、どうにか指先で眦を拭う。そして語りはじめた。

 私は佳南に借りたスキーウェアを着てた。あの頃はまだ体格が同じくらいだったから、普通に着られたの。好きなのをレンタルしたければしてもいいよって言われたけど、私は佳南のウェアを着て滑りたかった。そのほうが上手くなったような気になれるから、なんて笑ってみせながら、本当はぜんぜん違うことを考えてた。感じてた。体じゅう、幸せで包まれてるみたいだった。

 車のなかでも、私たちはずっと隣り合ってた。山道を登っていくと道端に雪が積もってるのが見えてきて、佳南はすごくはしゃいでた。右と左の窓をそれぞれ見ればいいのに、私たちは片側に固まるみたいにして、同じ景色をずっと眺めてた。

 ふたりだけでリフトに乗ろうって提案したのは私だった。旅行のあいだじゅう、機会を探してたの。ふたりきりになる時間なんてたくさんあったはずなのに、私はわざわざ天辺まで佳南を連れ出した。そこに相応しい場所があるような気がしたから。完璧な瞬間が見つかるような気がしたから。

 リフトを降りる少し前、そのときが来た。もし一秒、早いか遅いかしたら、なにかが違ってたんじゃないかと思う。でもあのときの私には、その瞬間しかありえなかった。

 好きだって言ったの。ずっと好きだったって。

 驚いたんだと思う。それはそうだよね。友達――同性の友達に告白されたら、驚くに決まってる。分かってたよ。でも私は伝えたかった。伝えないまま生きていくのに耐えられなかった。

 本気だっていうのは分かってもらえたんだと思う。そういう目をしてた。だけど返事を聞く前にリフトが頂上に着いて、佳南は私より先に滑っていった。普段ならどこかで止まって、こっちを向いて待ってくれるのに、あのときの佳南は振り返らなかった。ずっとずっと遠くまで滑っていった。そして、コースの外の林に落ちたの。

 私は慌てて追いかけていった。佳南はすぐに登ってきて、こっちに手を振った。大丈夫だって言った。そのときは安心したけど、でも実際は大丈夫じゃなかった。

 あんなふうに転ぶの、見たことなかった。よっぽど気が動転してなかったら、あんなこと起こるわけがなかったんだよ。私が――私がなにも言わなければ、佳南はきっと無事でいた。

 だから叔父さん、佳南がああなったのは私のせい。私が、佳南をあんな目に遭わせたの。

「――依織」話が終わると、巽がゆっくりと口を開いた。「状況は分かったよ。だが俺の考えは変わらない。お前のせいじゃない。お前の言葉のせいじゃない」

 依織は洟を啜り上げて、「だけど」

「お前は人を愛した。勇気を出して思いを伝えた。なにを後悔することがある? お前は立派だった。勇敢だった自分を否定するな」

 私が勇敢、と叔父の言葉を繰り返した。そうだよ、と彼は笑った。

「だからもう一度勇気を出すんだ。幻影に呑まれずに踏みとどまれ。お前はお前のまま、その子の帰りを待つんだ」

 手をこっちに、と叔父が言う。依織が差し出した掌の上に、巽の無骨な手が重なる。

「諦めに呑まれそうになったら、思い出せ。お前は勇気に満ちた行動をした。だから大丈夫だ。何度だってまた奮い起こせる。お前が抱えている思いは、何者にも消せない」

「――やってみる」

 やっとのことで頷きを返した依織に、叔父が微笑みかけた。

「よし。より具体的に、幻覚から身を守るすべを教えてやろう。〈天鵞絨の病〉に抗うには、精神力と技術の両方が必要だからな」

 いったん時間を貰い、手洗いに立った。洗面台の鏡に映りこんだ顔はなかなかに悲惨だったが、今さらなにをどう取り繕う気も起きなかった。客間に戻ると、巽は先ほどまでとほとんど変わらない姿勢で待っていた。

「具体的にって、どうするの」

「襲われたときの対処法を身に着けてもらう。もちろん出くわさないのが最上だが、どうしたって備えは必要だ。幸運だけで二度は逃げ延びられないからな」

「特別な戦い方があるってこと?」

「そうだ。だがこれに関しては、言葉で説明できることが少ない。お前自身で体得するんだ。俺にできるのはいわば――ワクチンを打ってやることだな。それで抗体ができるか、病を跳ね除けられるかはお前の心身に大きく依存する。分かるか」

「なんとなくは」

「心の準備ができたら始める。お前のタイミングで、俺の目を見ろ。逸らさずに見つづけるんだ」

 なにが始まるのかまるで分からなかったが、今は彼を信用する以外にない。腹を括って顔を上げた。叔父の灰色の瞳を覗き込んだ。

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