12

 少し休憩しよう、と巽が提案してきた。依織も空腹を覚えつつあった頃合いだった。ちょうど昼食時である。

 最初に目に留まったレストランに立ち寄った。叔父が車のキーを無造作にポケットに突っ込んだので、依織は思わず、

「それ、また失くさない?」

「さすがに失くさないと思うが――そう言われると弱いな」

「じゃあ、これあげる。付けとけば」

 足許のボストンバックからリトルバットのマスコットを取り出し、巽の眼前で振って見せた。頭部にリングが付属しており、キーホルダーとして使える仕様だ。

「なんだ、それ」と巽は笑い交じりの息を吐く。「ずいぶんとこう、愛嬌がある蝙蝠だな」

「ちょっと前に流行ったんだよ。プレゼント」

 叔父は少し困惑したようだったが、けっきょく手を伸べてきた。「ありがとう。これだけ目立つのが付いてれば安心だ」

 本来ならば佳南の病室に置いてくるはずだったものだ。手放すに手放せず、あれ以来ずっと持ち歩いていたのである。叔父が新しい所有者になってくれるなら申し分なかった。

 席は窓際だった。揃ってハンバーグの定食を頼んだ。

 料理が運ばれてくるまでのあいだ、巽はリトルバットがいかなるキャラクターなのかについて聞きたがった。普段はテレビも観ず、この種の品物にも関心がないのだという。

「女の子が作った縫いぐるみっていう設定なんだよ。本当はなにか違うものを作ろうとしたんだけど、作者の子が不器用でそういう姿になっちゃった。でもリトルバットは自分に誇りを持ってて、女の子を助けるの」

「どうやって助けるんだ」

「それはほら、蝙蝠だから超音波を使ったりとか」

 カートを押した店員が近づいてきた。プレートをテーブルに移しながら、鉄板がお熱くなっておりますので、と説明を始める。ソースをかけられた肉が軽快な音を発した。

「冷めないうちに食おう。お代わりしたければ遠慮するなよ」

 小刻みにナイフを動かす巽を、依織はなんとはなしに眺めた。視線に気付いたのか、彼は顔を上げ、

「どうした」

「ううん。家族と食事するの、すごく久しぶりだなと思って。両親の関係が悪くなってからは、三人で食卓に揃うことってほとんどなかったし。いつもぴりぴりしててさ、雑談して笑うとか、ちょっと考えられなかった」

「大変だったな。力になってやれなくて済まなかった」

「今さら気にしてないよ。叔父さんは叔父さんで忙しかったんだろうしね」

 言いながら、彼の私生活をほとんど知らない自分を意識したが、あえて穿鑿しようとも思わなかった。もし語りたければ、叔父のほうから語ってくれるだろう。ただその機会を待てばいいのだという気がしていた。

「確かに、俺にもいろいろとあった」と巽は応じた。窓の外に視線を向けている。その目の物淋しげな翳り。「だが、過去のことだ。なにもかも」

 食事のあと、車でさらに三時間ほど走った。途切れ途切れの睡眠と覚醒を繰り返すたび、景色が移り変わっていったのを記憶している。もうすぐだぞ、と呼びかけられて目覚めたとき、車はまるでひと気のない山中にあった。

「ごめん叔父さん、寝ちゃって」

「いいよ。よく眠れたか」

 陽はとうに落ちている。両側に聳えた背の高い木々のほか、周囲にはなにもない。ヘッドライトの重なりには、細かく曲がりくねった道が照らし出されるばかりだ。

「あの――本当にこっちで合ってるの」

「合ってる。じきに着くよ」

 右に左に、ときおり白いガードレールやコンクリートの壁が現れては消える。自分はなにか騙されているのではないかと疑いはじめたころ、不意に分岐にぶつかった。細いほうに侵入していく。唐突に視界が開けたかと思うと、大きな一軒家が姿を現した。

 砂利敷きの庭の一角に車が停められた。「お疲れさま。到着だ」

 ボストンバックを抱え、叔父に追従する。細かな装飾が彫り込まれた扉が開かれた。広々たる沓脱。妙に開放感があると思ったら、なんと二階まで吹き抜けになっていた。ずいぶんと高い位置から、王冠じみた形状のシャンデリアまで吊り下がっている。

 依織はかしらを巡らせながら、「叔父さん、ここで独り暮らしなの?」

「そうだよ。二階の一室をお前にと思って準備しておいた。こっちだ」

 木製の、なにやら凝った形状の手摺の付いた階段を上がっていく。廊下をぐるりと辿ったもっとも奥に、その部屋はあった。

 シンプルなベッドと机、ちょっとした棚やクローゼット、小振りな冷蔵庫などの備え付けられた空間である。誰かが使っていた雰囲気はまるでない。あたかもホテルの一室のような、真新しく清浄な気配だけが満ちていた。

「今日は疲れたろうから、ゆっくり休め。トイレは一階と二階にひとつずつ、風呂も沸かしておくから、好きに入っていい。着替えは持ってきてるな」

「いちおう」

「よし。細かいことは明日以降にしよう。なにか必要なものがあれば言ってくれ。俺の部屋は一階の角だ。自分の家だと思って適当に寛いでもらって構わないが、いくつか守ってほしいことがある」

「はい」依織は背筋を伸ばして叔父に向き直った。「どんなこと?」

「第一に、俺の許可なくこの敷地を離れるな。第二に、鍵のかかった部屋には立ち入るな。第三に、俺以外の誰かに声をかけられても返事をするな。絶対に言葉を交わすんじゃない。いいな」

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