11

 自動ドアを通り抜けると、アパートの正面に停車したワゴンが目に留まった。少し古い型の、無骨な車だった。予定より少し遅い時間だ。

 フロントガラスの向こう側で叔父が手招いている。依織はボストンバックを肩に掛け直してから、軽く手を振り返した。

「悪い、遅れた」助手席に乗り込むなり、巽が詫びてきた。「肝心なときにこれじゃあな。済まなかった」

「いいよ。五分か十分だもん。道が混んでたの?」

 エンジン音とともに、軽い振動が体に伝う。叔父は頬を指先で掻きながら、

「いや。恥ずかしい話なんだが、車の鍵が見当たらなくて探してた」

 意外な理由だった。厳格な人物だと思っていたが、あんがい抜けた面もあるのかもしれない。

「忘れ物、わりとするほう?」

「姉貴ほどではないが、まあお前の母親の弟だと思ってもらえれば」

 思わず掌で口許を覆った。「お母さん、昔からああだったんだ」

「人間、そうそう変わらない。母方の血らしくて、お袋、姉貴、俺と三人揃って抜け作だった。親父は呆れるのを通り越して、一種の悟りを開いてたよ」

 車が市街地を離れていく。長いドライヴになることはあらかじめ知らされていた。ふたりきりで話す時間はいくらでもある。

「なにから訊けばいいのか決めかねてるんだけど」と依織は切り出した。「私の体、どうなってるの? 叔父さんはなにか知ってるんでしょう」

 彼の想定通り、検査ではいかなる異常も発見されなかった。冴木依織の肉体は健康そのものである――ただしそれは、〈天使〉の領域における認識にすぎない。

「説明する前に、改めて確認しておきたい。お前の友人である葉宮佳南は、十二歳のときから今まで昏睡している。彼女に近づくと頭痛が起こり、遠ざかると収まる」

「合ってる」

 巽はハンドルを握ったままで頷いた。ちらりと視線を寄越してから、

「その病気は〈天鵞絨の病〉と呼ばれている」

 言葉の意味が捉えられず、「ごめん、なんの病?」

「天鵞絨。織物の」

「ああ」ようやく得心した。「ベルベットね」

「そう、ベルベットだ。なぜそういう呼び方をするのかは俺も知らない。詳しい仕組みもよく分かっていないが、特定の人間に対して強い感情を抱くことが、発症の原因のひとつらしい。お前の場合なら、友人を昏睡させた罪悪感がトリガーになって、頭痛を引き起こしているわけだな」

「トラウマのせいってこと?」

「単純に言えば。ただしそれに加えて、〈天鵞絨の病〉には他の心因性の病と大きく違う特徴がある。強い幻覚症状だ」

「幻覚?」と思わず鸚鵡返しにした。「アルコールとか薬物中毒みたいな?」

「いや、だいぶ違う。〈天鵞絨の病〉によって生まれる幻は、その宿主に干渉できるんだ。宿主にとっての現実と同じ領域に存在する、と言ってもいい。実体を有する幻だ。常人の目には映らないものに脅かされる――そういう意味では、呪いに近いかもしれない」

 呪い、と繰り返した。あの晩の、悪夢のなかに置き去りになったような感覚が甦ってくる。

「〈天鵞絨の病〉の幻は特殊な形を取る。患者によって微妙に違うが、獣の姿をしていることが多い。そしてお前の幻覚の源泉は、罪の意識だ。意味が分かるか」

 依織は目を閉じた。瞼が小さく震えた。

「――私を罰そうとする幻。それが虚ろな目の獣の正体なんだね」

「ああ」

「また現れる?」

「病状が進めば、より頻繁に。放っておけば遅かれ早かれ、自ら作り上げた幻覚に食い殺されることになるだろう」

 言葉がそこで途切れた。どう返答していいか分からずに沈黙を保っていると、巽のほうが先に口を開いて、

「そしてその真相は、〈天使〉の側の人間には永遠に分からない。勝手に自殺した、狂い死にした、と認識されるだけだ。お前にも想像がつくだろうが、そういう話にはたいがい尾鰭が付いて広まる。真実はどんどん覆い隠されていく」

「このあいだ話した怪談も、その〈天鵞絨の病〉のせい――なのかな」

「断定はできないが、可能性は充分にある。なにか病気が流行ると、得体の知れない風聞も流行るだろう? ある種のジンクス、怪談、都市伝説の分布と、〈天鵞絨の病〉の発生には相関があるんだ。だからお前が怪談と言ったとき、ちょっと引っ掛かった。まさかと思った。話を聞くうちに、確信が湧いてきたんだ」

 正面の信号が赤に変わった。小学生くらいの子供三、四人が横断歩道を渡っていく。なにかの噂話を囁き合っているように思え、窓を少し開けて耳を欹てたが、聞こえてきたのは街の喧騒のみだった。奇妙なほど快活な宣伝音声。ざらついたポップミュージック。意味を成さない無数のノイズ。

「叔父さん、悪魔と折り合いを付ける方法を教えるって言ったよね。特別な治療法があるの?」

 巽は小さく顔を上下させた。言い聞かせるような調子で、

「まず大事なのは原因から距離を取って、心を落ち着けることだ。独りきりでいたら、お前は延々とその子について悩みつづけるだろう? いったん深く考えるのをやめて、療養しろ。詳しい話はその後だ。消耗した状態で自分の傷と向き合うのは自殺行為だからな」

「あるていど精神力が戻らないと手術はできない、みたいな話?」

「そう考えていい。その子を完全に忘れるのは無理でも、あるていど遠ざかることはできるはずだ」

 依織は視線を落とした。「でも――」

「他に方法はない。お前をわざわざ連れ出したのは、環境を無理やりにでも変えてやるためだ。けっきょくはそれが、いちばんの近道なんだよ。悲しみや苦しみを真正面から直視するには、ある程度の余裕が必要なのは分かるだろう? お前が最初にすべきなのは、心を修復することだ。過剰に自分を責めずに済むように」

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