10

 病院から抜け出して死んだという患者の話をした。巽は俯きがちになって、依織の言葉に聞き入っていた。

「死体が見つかったのは駐車場だったって噂もあって。なんかその――ちょっと気持ち悪いよね。私も駐車場で倒れてたみたいだし。偶然、なんだと思うけど」

 叔父の顔が曖昧に上下した。やがて彼は穏やかに、「なあ依織。駐車場で倒れたのはなんでだ? 改めて訊くが、誰かに殴られたりはしてないんだろう?」

「してない」

 応じた直後、蟀谷に疼痛を覚えた。顔をしかめたのを見て取ったのだろう、巽が声を低めて、

「どうした」

「ちょっと――頭が痛んで。でも大丈夫。わりとよくあることだから。すぐ収まる」

「体質なのか」

「精神的にちょっと」

「精神的というのは」

 依織は毛布の下で右手を握りしめた。叔父にもこの話をするときが来たのだと思った。

「一言でいうと罪悪感、なのかな。ある人のことを考えたり、近づこうとすると苦しくなる。友達なんだけど――今は入院してて。意識がずっと戻らないの。私のせいなのに」

「詳しく聞かせてくれるか」と巽。「依織のペースでいいから」

 息を吐き、首を逸らせて白っぽい天井を見つめた。飲み物で唇を湿らせる。

「友達の名前は葉宮佳南。同級生で、昔から仲がよかった。小学一年のクラスで一緒になってからかな、近所だったし、何回も遊びに行った。親が喧嘩して家が気まずくなったときは、決まって佳南のところに逃げ込んだの。ふたりが上手くいかないのは私のせいなのかなって相談すると、違うよ、依織は悪くないよっていつも言ってくれた。親友で、私の支えだった」

「もちろん、依織のせいじゃない。お前の両親の問題だ。それで? その子がどうした」

「小学校六年のとき、一緒にスキーに行ったの。佳南のご両親が連れてってくれた。たまたま家の雰囲気がよくて、珍しく許してもらえたんだよ。すごく嬉しくて、自由になったような気がした。私は初心者だけど葉宮家はスキーが上手かったから、スクールには入らないで直接教えてもらうことにした」

 叔父が頷く。「親切だったんだな、みんな」

「ほんとに親切だった。最終日、まあまあ滑れるようになってきたところで、佳南とふたりだけでリフトに乗ってきていいですかって訊いた。もちろんいいよ、行っておいでって、ご両親は送り出してくれた。佳南もスキー上手かったから、心配してなかったんだと思う。でもそれは起きた。佳南が転んで――そのときはすぐ起き上がって大丈夫だよって笑ってくれたのに、次の日に目覚めなかったの」

「それから」巽はいったん間を置いた。「今までずっと。七年か」

「事故だって言われた。お母さんも、佳南のご両親も、みんな事故だって。私は悪くないって慰めてくれた。佳南はいつも依織ちゃんのことを話してて、今回だって一緒にスキーに行けるってはしゃいで、嬉しそうだったんだよって。佳南が帰ってくるまで待っててあげてねって。私のせいなのに。私があのとき――」

 叔父もまた同様の慰めをくれるものと思った。ところが発されたのはまるで違う言葉だった。

「その子を思うと頭痛がすると言ったな。比喩でなく肉体的な苦痛なんだな? どういう痛みだ?」

「どうって――」

「ずきずきと脈打つような痛みなのか。熱っぽく、だるくなるのか。どうだ?」

「うんと、どっちでもないな」首を傾げつつ答える。「風邪の症状とか、寝不足の症状とははっきり違う。ずきずき痛む感じでもないな。平坦で、重苦しい感じ」

「波やリズムを伴わない、重たい金属で絶え間なく圧迫されるような痛みか」

「それ」と思わず応じる。きわめて近い感覚だ。「その表現がぴったりくる」

 途端、巽の額にくっきりと皺が浮かんだ。なにか考え込んでいるらしい。「その子のもとへ見舞いに行ったことは?」

「何度も」

「そのたびに同じ痛みがあるか? 帰ると静まる?」

 記憶を読み取られているのではないかと思った。「叔父さんの言う通り。どうして分かるの?」

 彼は答えなかった。しばらく沈黙を保っていたが、やがて、「最初の質問に戻ろう。お前が駐車場で倒れたのはなぜだ?」

 体験したままを語り出しかけて、はたとする。慌てて唇を引き結んだ。

 恩人たるあの女性の最後の仕種が脳裡に浮かんでいた。彼女は唇の前で人差指を立てて見せた。今ならばはっきりと分かる。あれは口留めだ。自分の存在を秘密にしろと、私に指示したのだ。

「――叔父さんはきっと、私がおかしくなったって感じると思う。だからその、どう話したらいいのか迷ってて」

「少しずつでいい。聞くよ」

 逡巡の末、女性にはいっさい言及せずに話すことに決めた。黒い獣の出現。駐車場への逃走、壁際に追い詰められたこと……。

「それで? どうやって逃げ延びた」

「分からない。気が付いたら病院にいて」とだけ、俯きがちになって答える。この態度を貫いたのが正解なのか、現時点ではまったく判断が付かなかった。

「ねえ、やっぱりどうかしてるよね。こんな話」

 言いながら顔を上げると、深い翳りを宿した双眸が依織を見据えていた。「いや、そんなことはない」

「え?」

「その獣は実在する。ある現実においては、だが」

 叔父の返答にも驚いたが、同時にその奇怪な言い回しに意識を引かれた。「どういうことなの、ある現実って」

「他の人間の認識する現実と、お前の認識する現実は、必ずしもすべてが重なり合ってるわけじゃないんだ。人は自分の所属する世界の外側にあることは知覚できないし、干渉もできない。天使と悪魔の騙し絵を知ってるか、エッシャーの」

 巽がポケットからスマートフォンを取り出し、画像を表示させた。円のなかに白と黒のパターンが規則的に配置された、有名な絵画だ。

「天使の視点に立てば、悪魔に当たる部分は単なる背景だ。黒地の世界に仲間の天使たちが大勢で存在している、としか知覚しないだろう。悪魔にとっても同じで、自分の隣に天使がいるとは永遠に気付かない。同じひとつの絵のなかにいるのにもかかわらず」

 叔父が絵を移動させ、円周の付近を映し出した。中心から遠ざかるにつれて天使と悪魔は徐々に縮小され、またどこまでも数を増していく。

「無限に存在する天使のなかに、新たな視点を獲得してしまった奴がいるとしよう。天使でありながら、横の悪魔が見える。その実体を認識する。黒地の世界にしか棲んでいない他の天使たちには、絶対に理解できない感覚だ。俺の言ってることが、なんとなくでも分かるか」

 叔父が冗談を言っているとも、自分になんらかの信仰を押し付けようとしているとも思えなかった。依織は言葉を探した。

「それが、今の私だってことなの?」

 巽が頷く。

「だったら私はどうしたらいいの? 叔父さん、ちゃんと教えてよ」

「それはここを出てからだ。医者は天使の側の視点しか持っていないから、どんな検査を行ったところで異常は発見できない。いたって健康のお墨付きを与えるだけだ。すぐにでも退院の許可が下りる。まずはそれを待て。いいな」

「分かった」と応じるほかなかった。「叔父さんの言う通りにする」

 巽は珈琲を飲み干し、スマートフォンを仕舞った。立ち上がり、

「退院の日にまた会おう。それまでにどうするか考えておいてほしい。なにも聞かなかったことにしたいなら、止めるすべはない。だが俺と一緒に来るなら、悪魔と折り合いを付ける方法を教えてやる」

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