第三章 再会
9
閉じた瞼の向こう側が白み、明滅を繰り返している。瞼を開けると思いのほか眩しく、冴木依織は半ば反射的に頭部を反転させた。枕に顔を埋めようとして、違和感を覚える。自宅のベッドではない。
体を起こそうとすると、軽い眩暈を感じた。ともかくも頭を動かし、周囲の様子を確かめる。見たところ病室だった。左腕に点滴を受けている。
長い夢を見ていたような気がした。記憶を手繰り寄せようとすると、また頭蓋の内側が疼いた。
「目、覚めましたね」と傍らから呼びかけられた。「びっくりしましたよ、駐車場で倒れてたって」
後輩の宗谷茉緒が、心配そうな面持ちでこちらを覗き込んでいた。ずっと声をかけるタイミングを見計らっていたらしい。依織は何度か目を瞬かせてから、
「今日、何日?」
「二十九日の土曜です」
「昨日、雪だった?」
茉緒は不思議そうに顔を傾けてから、「ええ。ちょっとちらついた程度でしたけど」
思い出されてきた。佳南の見舞いから帰り、SNSで見かけた写真をきっかけに彼女に連絡を取った。そのあと自分は――。
「怪我はないって聞きました。どこも痛みませんか」
空いている右手で身体のあちこちに触れてみた。確かに怪我らしい怪我はないようだ。ひとまず安堵した。
「その――どういう流れで茉緒はここに?」
「連絡があったんです。よく分かりませんが、たぶん直近でやり取りした人間だからじゃないですか。とうぜんご家族にも連絡は行ってると思うんですけど、私はほら、家も近いんで、ひとまず付いてようって」
依織は小さく頷き、「ありがとう。私は大丈夫。迷惑かけちゃってごめんね」
「いえ、別に。私はどうせ春休みですし。ご家族が来るまでだったら、ぜんぜん」
「たぶん時間かかる。母親は北海道だし、父親は音信不通だから」
「北海道なんですか」茉緒はスマートフォンを取り出した。「うわ、これ札幌か。季節外れの大雪ってニュースになってます」
「じゃあ当分は無理だね。茉緒、本当に帰って平気だよ。少し落ち着いたら、こっちから連絡する」
茉緒は逡巡する様子を覗かせたが、ややあって丸椅子から腰を浮かせた。「分かりました。いったん帰ります。もしなにかあったら連絡ください。家近いんで、すぐ来られますから」
いつでも来ますんで、と繰り返してから、彼女は病室を出て行った。独りきりになると、あたりが急速に静けさを取り戻した。
枕に再び頭を下ろした。茉緒はきっと気を遣って、こちらの状況を問わずにいてくれたのだろうと思った。夜中にひと気のない駐車場で昏倒していた――なんらかの犯罪に巻き込まれたと推測するのが妥当だ。他の可能性に思い至るほうが不自然でさえある。
誰かに説明を求められたらどうすべきかと考えた。そのまま打ち明けたとして、まず信用される出来事ではない。確実に正気を疑われる。
そもそも依織自身、すべてが現実だったという確証がない。夜のうちに駐車場に行ったのはおそらく間違いないだろうが、問題はそのあとだ。黒い怪物と、名も知れない救援者。その謎めいた言葉。
彼女はあのとき、なんと言った? 思い出せそうで思い出せない。
扉が引き開けられた。思わずどきりとしたが、歩み入ってきたのは初老の医師だった。「冴木さん、気分はどうですか」
ごく短時間の検診があった。そののち、医師は穏やかに、
「今のところ大丈夫そうですが、ひとまずはもう少し、様子を見ましょう。なにかご自身で気になることは?」
「その――ちょっと混乱しています」
「それは当然。時間をかけて、ゆっくり元に戻していけばいいことです。心配しすぎることはありませんよ」
なにが起きたのか、自分はどうなっているのかと尋ねたかったが、どうにか言葉を呑みこんだ。専門家が大丈夫だと言った。ならば信用すればいいだけだ。
なにも恐れる必要はない。なにも……。
今度は看護師と思しい男性が入ってきた。何事か伝言している。医師は頷き、依織を振り返って、
「冴木さん。ご家族の方が面会に見えたそうです」
母がもう? 無事に飛行機が飛んだのか。それにしても早すぎる。
「ここへお通しして構いませんね」
ともかくも頷いた。「ええ」
面会者が病室に姿を見せたのは、医師たちが病室を出てしばらくののちだった。対面するなり、ぽかんと唇が開いてしまった。確かに自分の家族には違いなかったが、まるで予期していない人物だったのだ。
「――叔父さん?」
「久しぶりだな、依織」以前に会ったときより十数年分の歳を重ねた葦原巽が、うっすらと笑みを覗かせる。「親父の葬式以来か。ずいぶん大きくなった」
「うん。久しぶり。とりあえず座って」
巽は椅子を引き、ベッドの傍らに腰を下ろした。髪に白いものが混じり、記憶のなかの彼より少し痩せたようにも見える。服装はさっぱりとしていたものの、顎にはいくらか無精髭が散っていた。
「どうしてここに?」
「ひとまず姉貴の代わりだよ。フライトがことごとく欠航で、身動きが取れないそうだ。お前の様子を見に行ってくれと頼まれた。具合はどうだ」
「だいぶ落ち着いてる。叔父さんは北海道じゃなかったの」
「しばらく前からこっちだよ。連絡すればよかったな」
「忙しかったんじゃないの? 今日もわざわざ来てもらって――」
いや、と叔父は頭を振った。「気にするな。今はあるていど余裕があるんだよ。それで、いったいなにがあった?」
「ええと」と依織は口ごもった。「よく覚えてないことが多くて」
「飲んでた?」
少し考えてから、「一滴も飲んでない。なんというか――自分でもちょっと、受け入れにくいことで」
「ゆっくりでいいから、説明してくれないか。俺に言いにくいなら先生を呼ぼう。女の先生のほうがいいか」
「叔父さんが心配してるようなことは起きてないよ。ただ」依織は言葉を探した。「どう話していいのか分からなくて。正直なところ、自分でも困ってる」
巽は短く吐息を洩らした。懐かしい表情が覗く。「そうか。いいよ、とりあえず後にしようか。十何年ぶりに会った人間に、いきなり腹割って話せってほうが無粋だったかもしれない。下で珈琲でも買ってくる。なにがいい」
そう言われて初めて咽の渇きを意識した。昨日の夜以降、なにも飲み食いしていない。「じゃあ冷たいカフェオレを」
「分かった。ついでにサンドイッチでも食べるか」
「お願い」
叔父は五分ほどで戻ってきた。礼を言ってカップを受け取り、唇にストローを運ぶ。
しばらくのあいだ、当たり障りのない雑談を交わした。途中で叔父の近況についてそれとなく尋ねてみたが、明瞭な回答は得られなかった。べつだん無理やり聞き出そうという気も起きなかったので、その話題はそれきりになった。
久方ぶりに叔父と接してみて感じたのは、仄かな憂いの気配だった。もとより物静かな人物という印象はあったが、とくべつ口下手というわけではないようである。語り口こそやや朴訥としているものの、話術もあればユーモアもある。しかしその深い灰色の瞳は常に翳りを帯びていて、消えることがない。
話題がふと、茉緒に及んだ。「叔父さんが来てくれる前、高校のときの後輩が付いててくれたの」
「後輩? なぜまた」
「連絡が行ったみたいで。私がこうなる直前にやり取りしてたからだと思うって、本人は言ってた。警察とかから、なにか聞かれたのかな。悪いことしたな」
「かもしれないな。ちなみにどんなやり取り? ただの雑談か?」
「雑談といえば雑談かな。都市伝説みたいな――よくあるじゃない? 最近こういう怪談が流行ってます、みたいなことを聞いた」
すぐに流されるかと思いきや、巽は予想外に興味を示した。「どんな怪談だ」
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