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(どういう意味なのかな、これ)
ほぼ純白の背景と人物――情報量は少ないが、それがかえって謎かけめいて感じられはじめた。絵と絵のあいだを往復しながら思索を巡らせる。なにか意図があるはずだと思えて仕方がなかった。
描いたのは姉の誰かだろうか。同じひとりの手によるものか? それとも――。
夢中になりすぎた。(サシャ)という鋭い呼び声が割り込んでくるまで、周囲の様子はまったくといっていいほど意識に上らなかった。
(なにか近づいてくる)
顔色を失う。息を顰め、耳を欹てたが、サシャの感覚ではなにも捉えられなかった。
(どこ)
(まだはっきりとは分からないが、階段のほうからだ。ともかく、ここを離れよう。長居しすぎたんだ)
姿勢を低め、じりじりと這うような速度で移動を始めた。おそらくまだ気付かれてはいまい。焦って尻尾を出すことだけは、絶対に避けねばならなかった。
(お姉さま――なのかな)
(たぶん違う。お前よりも小さい奴だ)
(――私より?)
(それでいて動きが速い。勝手を知ってる様子だな。気配に迷いがない)
追いつかれないように祈りながら前進する。下の階とは構造が違うらしく、自分がどのあたりにいるのかまるで推測できない。集中力を切らせば途端に方角を見失うに違いなかった。
やがて左手側の壁に扉が三つ、連続して並んでいるのが目に入った。表札の類は出ていない。いずれも開ける勇気が生じず、そのまま素通りした。
廊下が右に折れた。正面にまた別の扉。
やむなく手を掛けたが、施錠されているらしくびくともしなかった。これでは行き止まりと変わらない。黒々とした失意が胸中に垂れこめる。引き返すしかない――。
(サシャ、止まれ)とクロルが警告を寄越した。(相手と距離が近い。このまま出て行くと鉢合わせかねない)
立ち竦み、(どうすればいい?)
(いったんここに留まって、どうにかやり過ごせ。隙を見て、さっきの扉のどこかに逃げ込むんだ)
即座に意を決した。壁にぴったりと身を寄せ、縮こまる。これで隠れたことになるとは思えなかったが、今さらどうにもならない。相手の粗忽さに期待するばかりだ。
やがて布の表層を擦る、柔らかな音が響いてきた。ときおり、くるるるるるる、と咽を鳴らすような異音がそこに混じる。
角の向こう側にいるのは間違いない。似たような場所をぐるぐると往復している。息を潜めながら待ちつづけたが、一向にこちらへ踏み込んでくる様子はない。
痺れが切れた。(相手を確認する)
慎重に体の位置を変えた。音が遠のいた瞬間を狙って、壁からほんの少しだけ頭部を突き出す。
(先生の飼い猫だ)
(猫?)とクロル。(本当に猫なのか)
(うん。先生が抱いてるのを見たことがある。黒い、痩せた猫。名前は確か、ルーディ)
(なんだ。だったら気配が小さいわけだ)
かろうじて視界に入るのは、骨が複雑に浮き上がった背中のみである。体は異様なまでに細く、手足ばかりが長い。なにか別種の、たとえば鹿のような生き物に類似した造形だ。
くる、くるる、とルーディがまた鳴き声を発した。どこか哀れっぽい、誰かに縋るような声音だった。やがて低めていた腰を浮かせ、ひょこひょこと離れていこうとする。
サシャが安堵に身を浸しかけた途端、ルーディがぴたりと立ち止まった。そのまま微動だにしない――と思いきや、凄まじい速さで頭部だけを動かして、こちらを振り返った。
身が凍りついた。
その眼窩はあたかも、ぽっかりと落ち窪んだ洞だった。生物のものとは思えない奥深いふたつの暗がりが、サシャへと向けられている。
両目とも潰れているのだった。眼球はどこにも存在しない。
たかが数秒が永遠に思えた。虚無に呑み込まれてしまうのではないかと思った。
不意にルーディが顔を背けた。何事もなかったかのように、その場を去っていく。完全に気配が失せてしまうまで、サシャは身じろぎもせずにいた。
(行ったな)とクロルが洩らす。(見えていなかったようで助かった。あの女、いつもこうして放し飼いにしてるのか)
曖昧に頷いた。(たぶん。繋いだり檻に入れたりはしないんだと思う)
(あの目には驚かされた。慣れた場所だろうから、歩き回るぶんには平気なんだろうが)
少しずつ落ち着きを取り戻してきた心音を、念のため百まで数えた。そろそろと歩み出す。
まだ明け方までは時間がある。夜のうちに、可能な限り探索を続けておきたかった。
(あれ)
廊下を引き返していくうちに異変に気付いた。床に細長い光が投げかけられている。三つ並んだ扉のうち、ひとつが僅かに開いているのだった。
誰の気配もない。ルーディが器用にそこを通り抜けたのかもしれなかった。いま一度あたりの様子を伺ってから、静かに身を滑り込ませた。
ただの通路かと思いきやそうではなかった。新たな部屋へ出た。
倉庫じみた空間だ。サシャの身長をゆうに超える高さの棚が無数に聳えているせいで、どうにも圧迫感がある。どれも書架らしく、やたらと分厚い本ばかりが隙間なく詰め込まれていた。背表紙に金箔押しされた表題は、どうやらすべて異国語である。
本棚に近づき、目に付いた一冊を選び出した。ずっしりと重く、幽かな匂いがある。百科事典のような感じだ。なんであれ相当に古びた本らしい。
適当な頁を開いてみたが、内容は当然、なにひとつとして理解できなかった。どこかに見慣れた文字、でなければ挿絵があるのではないかと思い、ぱらぱらと他の頁を捲ってみたが、いつまでも記号のような文字列が並んでいるばかりだ。
(どこの言葉なんだ)
(さあ。こっちはどうかな)
手早く何冊かを確認した。どの本のどの頁も異国語。
(駄目か)
失意を押し殺しつつ、ひとまず元通りにした。すべての仔羊は、読み書きを教育係から直接教え込まれる決まりだ。サシャの知る限り、異国語の授業はこれまでに一度もなかった。ならばおそらく姉たちにも、この言葉は読めないはずだ。
なんとはなしに、背表紙だけを目で追った。印字されている表題の意味が分からないのだから、ただそういう図、そういう形として認識するのみである。端から端まで棚を眺め渡して、ふと違和感を覚えた。
(これ)
(それがどうしたんだ)とクロルが問う。(他と変わりなく見えるが)
(うん。でもこの一冊だけ変なの。上下逆向きで入ってた)
(誰かが取り出したってことか。でも待てよ、読める奴なら正しい向きにするだろうし、読めない奴ならそもそも手に取る意味が――)
サシャは頷き、抜き出した本の小口をそっと指先で撫でた。あ、と思わず声をあげそうになる。途中で幽かな引っ掛かりを感じたのだ。
該当の頁を開いた。あった。
挟まっていたのは、小さく折り畳まれた紙片だった。破ってしまわないよう、震える指で慎重に広げる。
深い翡翠色の文字が書きつけられていた。異国語ではない。サシャのよく知る、ヘルルーガの言葉だった。
なにが書いてある、とクロルが催促してきた。唇だけを動かして、読み上げた。
〈空の綻びを見つけよ〉
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