8

(どういう意味なのかな、これ)

 ほぼ純白の背景と人物――情報量は少ないが、それがかえって謎かけめいて感じられはじめた。絵と絵のあいだを往復しながら思索を巡らせる。なにか意図があるはずだと思えて仕方がなかった。

 描いたのは姉の誰かだろうか。同じひとりの手によるものか? それとも――。

 夢中になりすぎた。(サシャ)という鋭い呼び声が割り込んでくるまで、周囲の様子はまったくといっていいほど意識に上らなかった。

(なにか近づいてくる)

 顔色を失う。息を顰め、耳を欹てたが、サシャの感覚ではなにも捉えられなかった。

(どこ)

(まだはっきりとは分からないが、階段のほうからだ。ともかく、ここを離れよう。長居しすぎたんだ)

 姿勢を低め、じりじりと這うような速度で移動を始めた。おそらくまだ気付かれてはいまい。焦って尻尾を出すことだけは、絶対に避けねばならなかった。

(お姉さま――なのかな)

(たぶん違う。お前よりも小さい奴だ)

(――私より?)

(それでいて動きが速い。勝手を知ってる様子だな。気配に迷いがない)

 追いつかれないように祈りながら前進する。下の階とは構造が違うらしく、自分がどのあたりにいるのかまるで推測できない。集中力を切らせば途端に方角を見失うに違いなかった。

 やがて左手側の壁に扉が三つ、連続して並んでいるのが目に入った。表札の類は出ていない。いずれも開ける勇気が生じず、そのまま素通りした。

 廊下が右に折れた。正面にまた別の扉。

 やむなく手を掛けたが、施錠されているらしくびくともしなかった。これでは行き止まりと変わらない。黒々とした失意が胸中に垂れこめる。引き返すしかない――。

(サシャ、止まれ)とクロルが警告を寄越した。(相手と距離が近い。このまま出て行くと鉢合わせかねない)

 立ち竦み、(どうすればいい?)

(いったんここに留まって、どうにかやり過ごせ。隙を見て、さっきの扉のどこかに逃げ込むんだ)

 即座に意を決した。壁にぴったりと身を寄せ、縮こまる。これで隠れたことになるとは思えなかったが、今さらどうにもならない。相手の粗忽さに期待するばかりだ。

 やがて布の表層を擦る、柔らかな音が響いてきた。ときおり、くるるるるるる、と咽を鳴らすような異音がそこに混じる。

 角の向こう側にいるのは間違いない。似たような場所をぐるぐると往復している。息を潜めながら待ちつづけたが、一向にこちらへ踏み込んでくる様子はない。

 痺れが切れた。(相手を確認する)

 慎重に体の位置を変えた。音が遠のいた瞬間を狙って、壁からほんの少しだけ頭部を突き出す。

(先生の飼い猫だ)

(猫?)とクロル。(本当に猫なのか)

(うん。先生が抱いてるのを見たことがある。黒い、痩せた猫。名前は確か、ルーディ)

(なんだ。だったら気配が小さいわけだ)

 かろうじて視界に入るのは、骨が複雑に浮き上がった背中のみである。体は異様なまでに細く、手足ばかりが長い。なにか別種の、たとえば鹿のような生き物に類似した造形だ。

 くる、くるる、とルーディがまた鳴き声を発した。どこか哀れっぽい、誰かに縋るような声音だった。やがて低めていた腰を浮かせ、ひょこひょこと離れていこうとする。

 サシャが安堵に身を浸しかけた途端、ルーディがぴたりと立ち止まった。そのまま微動だにしない――と思いきや、凄まじい速さで頭部だけを動かして、こちらを振り返った。

 身が凍りついた。

 その眼窩はあたかも、ぽっかりと落ち窪んだ洞だった。生物のものとは思えない奥深いふたつの暗がりが、サシャへと向けられている。

 両目とも潰れているのだった。眼球はどこにも存在しない。

 たかが数秒が永遠に思えた。虚無に呑み込まれてしまうのではないかと思った。

 不意にルーディが顔を背けた。何事もなかったかのように、その場を去っていく。完全に気配が失せてしまうまで、サシャは身じろぎもせずにいた。

(行ったな)とクロルが洩らす。(見えていなかったようで助かった。あの女、いつもこうして放し飼いにしてるのか)

 曖昧に頷いた。(たぶん。繋いだり檻に入れたりはしないんだと思う)

(あの目には驚かされた。慣れた場所だろうから、歩き回るぶんには平気なんだろうが)

 少しずつ落ち着きを取り戻してきた心音を、念のため百まで数えた。そろそろと歩み出す。

 まだ明け方までは時間がある。夜のうちに、可能な限り探索を続けておきたかった。

(あれ)

 廊下を引き返していくうちに異変に気付いた。床に細長い光が投げかけられている。三つ並んだ扉のうち、ひとつが僅かに開いているのだった。

 誰の気配もない。ルーディが器用にそこを通り抜けたのかもしれなかった。いま一度あたりの様子を伺ってから、静かに身を滑り込ませた。

 ただの通路かと思いきやそうではなかった。新たな部屋へ出た。

 倉庫じみた空間だ。サシャの身長をゆうに超える高さの棚が無数に聳えているせいで、どうにも圧迫感がある。どれも書架らしく、やたらと分厚い本ばかりが隙間なく詰め込まれていた。背表紙に金箔押しされた表題は、どうやらすべて異国語である。

 本棚に近づき、目に付いた一冊を選び出した。ずっしりと重く、幽かな匂いがある。百科事典のような感じだ。なんであれ相当に古びた本らしい。

 適当な頁を開いてみたが、内容は当然、なにひとつとして理解できなかった。どこかに見慣れた文字、でなければ挿絵があるのではないかと思い、ぱらぱらと他の頁を捲ってみたが、いつまでも記号のような文字列が並んでいるばかりだ。

(どこの言葉なんだ)

(さあ。こっちはどうかな)

 手早く何冊かを確認した。どの本のどの頁も異国語。

(駄目か)

 失意を押し殺しつつ、ひとまず元通りにした。すべての仔羊は、読み書きを教育係から直接教え込まれる決まりだ。サシャの知る限り、異国語の授業はこれまでに一度もなかった。ならばおそらく姉たちにも、この言葉は読めないはずだ。

 なんとはなしに、背表紙だけを目で追った。印字されている表題の意味が分からないのだから、ただそういう図、そういう形として認識するのみである。端から端まで棚を眺め渡して、ふと違和感を覚えた。

(これ)

(それがどうしたんだ)とクロルが問う。(他と変わりなく見えるが)

(うん。でもこの一冊だけ変なの。上下逆向きで入ってた)

(誰かが取り出したってことか。でも待てよ、読める奴なら正しい向きにするだろうし、読めない奴ならそもそも手に取る意味が――)

 サシャは頷き、抜き出した本の小口をそっと指先で撫でた。あ、と思わず声をあげそうになる。途中で幽かな引っ掛かりを感じたのだ。

 該当の頁を開いた。あった。

 挟まっていたのは、小さく折り畳まれた紙片だった。破ってしまわないよう、震える指で慎重に広げる。

 深い翡翠色の文字が書きつけられていた。異国語ではない。サシャのよく知る、ヘルルーガの言葉だった。

 なにが書いてある、とクロルが催促してきた。唇だけを動かして、読み上げた。

〈空の綻びを見つけよ〉

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る