7

「時間だぞ」

 という呼びかけで覚醒する。ほんの幽かな囁きだったが、確かに耳に届いた。屋敷全体が寝静まっているであろう真夜中に起こすよう、クロルに依頼してあった。

「気分はどうだ」

 サシャは眦を擦った。「悪くない。いつもより頭がすっきりしてる」

「だろうな。普段のお前は、死んでるんじゃないかってくらい眠りが深いんだ。ちょっと起こしたくらいじゃ、絶対に起きるはずがない」

「薬を呑まなかったおかげだね。出発しよう」

 ゆっくりと寝台から這い出し、扉に耳を押し当てて外部の様子を伺った。想定通り、しんと静まり返っている。少しだけ待機してから、足音を忍ばせて部屋を出た。

 真っ白いヴェールを羽織るのは避けた。夜間の徘徊が見つかればどうせ鞭打ちなのだ。少しでも目立たない、それでいて動きやすい格好のほうがいい。

 条件に合いそうな部屋着をあらかじめ選び出し、胸の位置にポケットを付けてあった。クロルを一緒に連れていくためだ。彼の目の部分だけが表に出るように、寸法を調整してある。

(先生は夜、部屋まで見回りには来ないって言ってたよね)

(俺の知る限り、来たことはない。それだけ薬を信用しきってるんだろうな)

 実際に声を発さずともクロルと会話ができることを、サシャは日中のうちに発見していた。ただ脳裡に思い浮かべれば通じる、自分たちだけの特別な言葉。この発見が、彼を同行させる最後の一押しとなった。いつでも内密に相談できるならば、心強いことこの上ない。

(わりと明るいね)

 廊下の壁にはぽつり、ぽつりと規則的に灯りがともされており、歩き回るにはそう不自由しなかった。絨毯のおかげで音も響かない。探索には打ってつけと言っていい状況だ。

(見張りはいないだろうが、注意を怠るなよ。なにか見つけたら合図する。俺のほうが、お前より遥かに感覚が鋭いからな)

(そうなの?)と思わず訊ねた。(目がいいの?)

(気配から、物の在り処や動きを察知できるんだ。そういうふうに生まれついたらしい。そういうふうに作られた、と言うべきかもしれないな。お前の意思じゃないのか)

 サシャは小さくかぶりを振り、(そんなの、考えたこともなかった)

(なら幸運に喜べ。利用できるものは利用すればいい。俺はそのためにいるんだから)

(うん。頼りにしてる)

 姉のひとりひとりに接触し、対面で腹を割って話す案は、クロルに早々に却下されていた。おそらく彼女たちは、サシャと言葉を交わすこと自体を禁じられている。下手な動きを見せればマノイアに筒抜けになるだけだというのが、彼の意見だった。

(秘密の合図、手紙、暗号。やり取りをするなら、ともかく他の奴の目につかない形にするのが賢明だ。仮にお前の味方がいるとしたら、同じように考えるだろう)

 サシャが立ち入りを許されているのは、この広大なヘルルーガの屋敷のごく一部のみである。姉たちと顔を合わせることは珍しい。共用の廊下で、ときおりすれ違う程度だ。

(廊下は人通りが多すぎるし、そもそも物を隠せる場所がないから、なにかを残すには向かない。本腰を入れて探すなら、私が立ち入り禁止の区域に入り込んでみるしかない)

 無鉄砲な作戦には違いない。賭けとして分が悪いことも承知していた。

 それでもどうにか、マノイアに一矢報いてやらなければ気が済まなかった。謹慎を命じられたその夜に抜け出す。これは一種の決意表明のようなものかもしれなかった――理不尽きわまりない支配を拒絶するための。

 階段に辿り着いた。上階は姉たちの空間だ。足を踏み入れたことを知られれば、ただでは済まない。

(構うもんか)とサシャは唇を動かした。(あなたのものにはならないって言ってやる。私は私、サシャだって、何度でも言ってやる)

(よし、腹を括ったら前に進め。決して焦るな。なにか起きても慌てるな。俺が傍にいる)

 サシャはほくそ笑んだ。(分かってる。最後まで付き合ってね)

(ああ)

 クロルの短い返事に満足し、首を逸らせて踊り場を見上げた。蟠った闇の一部が、小さな灯りによって追いやられている。視認できるのはそこまでだ。先になにがあるかは分からない。

 息を吸いあげ、ゆっくりと前進を開始する。皮膚という皮膚に、ちりちりと電流が走るかのようだった。自分の心音ばかりが、恐ろしいほどに響く。

 一段上がるごとに静止し、様子を確かめた。慎重すぎるくらい慎重な歩みで踊り場まで至り、そろそろと方向を転換する。

 ようやく上の階に辿り着いた。すぐに分厚い扉が目に付いたが、どこへ繋がっているのかは判然としない。次なる廊下か、なんらかの部屋なのか。

(開けてみるのか)

(とりあえず後回しにする。クロルも場所を覚えておいてくれる?)

(分かった。どうにかやってみよう。帰ったらふたりの記憶を突き合わせて、地図を起こそう。きっと次の役に立つ)

 壁際に備え付けられた灯りに照らされて、影が長々と床を這っている。これまでよりも少し暗く、視界が狭くなったように感じた。緊張ゆえの現象かもしれない。どうにも体がふわふわとし、現実感が伴わない。

 歩きながら、なるべく慎重に周囲を観察した。足許に絨毯がきっちりと敷き詰められているのは、下の階と変わらない。遠目にはほとんど真っ黒だが、角度によっては少し緑が混じって見えるようである。きめ細かく、艶のある生地だ。

(同じ布でも、俺の体とは桁が違いそうだな)とクロルが洩らす。(ここまでの上物を、こうも神経質に配置してるのはどういうわけなんだ?)

(クロルのことはごめん、そのへんの余った布で作っちゃったから)

(いや、それはいいんだ。お前の身近にあるものから生まれたってことだからな。俺が気になってるのは、この絨毯の質が、あまりに均一すぎることだ。財力に物言わせれば実現できるものなのか?)

(分からないけど、そうなんじゃない? ヘルルーガのお屋敷だもん。きっと、どんなものだってあるんだよ)

 程なくして、壁に飾られた絵を発見した。細やかな装飾を施された金の額縁は、サシャの視線より少し高い位置に吊るされている。姉たちの身長に合わせたものと思しい。

 風景画のようだが、画面の大半は白くぼやけており、舞台は特定しえない。ところどころに背の高い木が突き出しているのが見えるのみで、目印や手掛かりはなにも存在しないようである。あえて曖昧な印象を抱かせる趣向なのかもしれなかった。

 中央部よりやや下には、人物がふたり配されている。こちらに背を向けているが、どうやらいずれも少女らしい。自分たちと同じ仔羊だろうと思ったが、帽子で頭部をすっぽりと覆っているせいで、角の有無は確認できなかった。

 サシャは絵を見上げたまま、(お姉さまが描いたのかな)

(そういう仔羊がいてもおかしくはないな。お前だって俺を作ったわけだし)と応じてから、クロルは注意深い調子で、(ひとまず進もう。同じ場所に留まりすぎないほうが無難だ)

 少し先でまた絵に出くわした。一瞬、自分の目を疑う。同じ作品かと思ったのだ。

(似てる――どころじゃないね)

(だな。違いを探すほうが難しいくらいだ)

 出来栄えは拮抗しており、習作と完成品、という感じではない。同じ金の額縁に収められ、同じ高さに設置してあることからしても、一続きの別作品として鑑賞するべきなのだろう。

 ただひとつの差異は、ふたりいたはずの少女が独りだけになっている点だった。相変わらず背中しか見えないので、表情は分からない。しかし取り残された片割れだという認識があるせいか、妙に淋しげな気配が伝ってくるようだった。

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