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「植物園に何本か、枯れそうな醜い木があるのを知ってる? 時間があるときに引き抜いて、片付けておいてほしいの。大変でしょうけど、それほど植物園に愛情を持ってくれるなら――頼める?」

 一瞬、思考が空白になった。〈虚ろな古木〉たちのことに違いない。あの木を引き抜いて、処分する? 私が?

「急ぎではないから、手が空いたらでいいの。植物の手入れより大事なことが、あなたたち仔羊にはあるわけだしね。分かっているでしょう、サシャ」

 曖昧に顔を上下させた。手立てを考える余裕はまだあるようだ。内面の安堵を悟られないよう、できる限り表情を維持する。

「理解しているつもりです、先生」

「結構。ではそう、そろそろ本題に入りましょう」マノイアが絡みつくような眼差しを寄越す。「裸になってそこに立ちなさい、サシャ」

 命じられるままに着衣を脱ぎ落した。せめて胸部を覆いたかったが堪え、両腕を体の側方に添えて直立の姿勢になった。息を細く吐き出して目を閉じる。なにもかもが迅速に、できれば痛みを伴わずに過ぎ去ってくれるようにと祈った。

「今のお前には膨らみがある」

 薄く目を開けた。マノイアは椅子に腰掛けたまま、じっとこちらを眺めていた。

 サシャは俯いた。膨らみというのはこの胸のことだろう。ほとんど目立たないが、なだらかな隆起が確かに存在している。

「お前はまだ、完全な仔羊にはならないようね」

 マノイアの声は平坦で、いかなる感情も読み取れない。それがかえって薄気味悪く、サシャは背筋が冷え冷えとするのを意識した。なにか普段とは違うことが起きる予感がした。

「――完全な仔羊とはなんですか」

 彼女は答えず、「寝台に仰向けになりなさい」

 言われた通りにした。毛布の中に隠したクロルが背中の下で潰れる。ごめんね、とサシャは胸の内で謝罪した。あとで綿を詰め直してあげるから。

「力を抜きなさい。もっと」

 蒼白い手が伸びてきて、サシャの腹部に触れた。恐ろしいほどの冷たさに身悶えした。危うく声をあげそうになったが、すんでのところで堪える。

 指が小刻みに場所を変えながら、軽い圧迫を繰り返す。どこをどう触れられたか記憶しようとしたり、その意味を考えたりしたが、どうにも上手く行かなかった。伝う肌の感触は、ずっと冷え切ったままだった。

 やがて膝を立てて両足を開くように命じられた。恥辱と恐怖が綯い交ぜになって込み上げたが、拒絶するすべがないことは理解していた。

 マノイアは淡々と観察を終えた。見られている時間はそう長くなかったが、こんな目に遭うくらいなら鞭を食らったほうがまだましだという気がしていた。黙って耐えきった自分が信じられないほどだった。

「それもじきに塞がる」ゆっくりと頭を上げながら、マノイアが言う。「時間が解決してくれる。お前はなにも心配しなくていい」

「塞がるって――」

「消えてなくなるの。少しずつかもしれないし、あるとき劇的にかもしれないけれど、いずれ変化する。他の姉妹と同じようにね」

 サシャは起き上がり、姉たちの姿を思い浮かべた。常に白いヴェールを着込んでいるから、その下の様子は知りようがない。顔が似ていないだけで体は同様だろうと思い込んでいたのだが――姉たちにはない?

「それが完全な仔羊に近づくということ。楽しみでしょう、サシャ。あなたもいずれその不自由な体から逃れて、ずっと美しい生き物になれる。余計なものはなにもなくなる。それがヘルルーガの一族である証。あなたたちは特別な存在なの」

 寝台の隅に脱ぎ置いた衣服を拾い上げようとすると、不意にマノイアの腕が伸びてきた。角を掴んで強く引き寄せられる。

「これもね、なくなるの。邪魔で歪な角。醜い角。こんなものがある限り、あなたは未熟な獣のまま」

 先刻までの恐怖と恥辱に代わり、今度は激情が蟀谷に走った。視界が紅く染まる。思わず、「――私は私です」

 途端、角を勢いよく捩られた。抗いようのない怪力。サシャは寝台に倒れ込んだ。

 そのまま組み伏せられた。勝ち誇ったようなマノイアの顔が近づく。

「お前はヘルルーガの仔羊。自分でそう言ったでしょう。お前がお前であることより、ヘルルーガの仔羊の一員であることが大事なの。よくよく考えなさい、サシャ。自分がどれほど恵まれた存在なのか」

 角を押さえていた手が離れた。忌々しいものに触れたとでもいうように、マノイアが自身の掌を見下ろす。それからこちらを振り返り、高圧的な口調で、

「今日はもう、ここから一歩も出ないこと。普段と同じ時間に、薬を呑んで眠りなさい」

 マノイアが部屋を出て行った。けたたましい音を立てて扉が閉ざされる。

 気配が完全に失せるのを待ってから、サシャはようやくヴェールを元通りに身に着けた。その過程で、自分の体を一箇所ずつ確かめなおす。

 これはすべて私のものだ。誰になにを言われる筋合いもない。私だけのものなのだ。

「お前の教育係、行ったのか」と毛布の下からクロルが話しかけてきた。「あの女、俺はどうにもいけ好かない」

 ふふ、とサシャは笑った。相変わらず口さがない。しかし今はかえって、それがありがたかった。「あの人がなにを考えてるのか、私にはよく分からない。でも思い通りにはさせたくないよ」

「同感だ。お前はお前だよ。それがすべてだ」

 サシャは人形を取り出し、そっと抱き締めた。クロルを抱えたまま棚へ向かい、いちばん上の抽斗を開ける。小さな緑色の壜を掴んだ。

「こんなもの」

 中身の薬剤を屑入れにぶちまけようとした瞬間、待て、とクロルに遮られた。

「そのまま捨てたら、奴に見つかるかもしれないぞ」

 手を止めた。もっともな警告だ。「じゃあどうしよう」

「いい方法がある。ひとまずは俺の腹に隠すんだ」

「クロルの?」

「ああ。詰め物に混ぜてしまえば分からないはずだ」

 サシャは頷き、クロルの腹部にある糸をゆっくりと引き抜いた。薬を綿のなかに押し込む。「ありがとう」

「気にするな。それより、これからどうするんだ」

 彼の腹を再び縫い合わせながら、サシャは意を決した。長いこと胸の内に抱いてきた考えを披露する。「お姉さまたちはみんな、あの人の言いなりなのかな。ひとりくらい、私に味方してくれる人がいるんじゃないかと思うの」

 ふむ、とクロルが応じる。ややあって、

「分からないが――可能性はあるかもしれない。姉妹なんだ。お前みたいな跳ねっ返りが、どこかにいても不思議じゃない」

 凛々たる勇気が湧いてくるのを意識した。その人もきっと、自分を探しているのだと思えてくる。

 そうだ。全員が全員、素性の知れない教育係に盲従していようはずもない。自分のような目に遭わされ、叛意を抱いている者が、誰かしらいるはずだ。

「手掛かりを探してみるよ、クロル」とサシャは宣言した。「もう決めた。このお屋敷じゅう、虱潰しにしてやる」

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