第二章 仔羊

5

 ヘルルーガの仔羊であることを誇るよう教えられた。顔のない姉たちと同じになるように、と。

 植物園の巨大な硝子窓に、薄ぼんやりとした自身の輪郭が映り込んでいる。水面を覗き込んだときに浮かぶ影にも似ているが、こちらはより暗く翳って、なんだか亡霊のようだった。耳の上方で渦を巻いている二本の角だけが、妙に大きく見えた。

 己の姿を確認できるのは、サシャの知る限りこの場所だけだった。ずいぶん前に先生に命じられて、自室の鏡は砕いてしまった。別の世界の自分に、小さな仔羊の魂を引き裂かれるかもしれないからだ。

 サシャは視線を逸らし、繁茂する草木のなかへと歩いていった。これから大々的に鋏を入れて、〈虚ろな古木〉たちの居場所を確保してやらねばならない。ほんの数日でも目を離すと、あっという間に他の植物に呑み込まれて、見えなくなってしまう。

 下草を踏みしめるたび、濃い緑の匂いが漂った。あたりは猛烈に蒸し暑い。いかなる仕組みで温度と湿度を維持しているのかは、サシャには知るべくもない。このヘルルーガの屋敷には、謎めいた部屋や設備が無数に存在している。

 蛇のごとき蔓草は大敵だが、切断は容易ではない。ようやっと持ち込んできた鋏は頼りなく、また十二歳の小娘に過ぎないサシャの手は非力だ。しかし時間をかけて取り除く以外に、前へと進むすべはなかった。

 息を荒げながら格闘を続けて、どうにか一本の〈虚ろな古木〉のもとに辿り着いた。彼女はゆっくりと、その表皮に指先を這わせた。

 この木は自分に似ている、といつもサシャは思う。朽ちて生命力を失い、ただ形状を維持するのみとなった植物に自分をなぞらえるというのも不思議だが、〈虚ろな古木〉の傍らにいると心が安らぐのもまた、事実だった。苦痛に身悶えするように捻じれた幹も、痩せ細って色褪せた枝も、ぽっかりと開いた洞でさえ、この上なく愛おしい。

 丁寧に水をやってから、サシャは別なる〈虚ろな古木〉の救助に向かった。植物園は広大だ。一回りし終える頃にはすでに、最初の一本が再び埋もれかけている。永遠に続く鼬ごっこだ。

 一心に働いたのち、大樹の根元で少しだけ眠った。さすがに疲労を覚え、出口へと向かう。近くの枝にかけておいた白いヴェールを取り、やむなく身に纏った。

 扉の向こうは、冷え冷えとした廊下に繋がっている。暗色の絨毯に吸収され、足音はほとんど響かない。屋敷に相応しからぬ雑音は、常に排除される仕掛けだ。

「あ、お姉さま」

 何番目ともつかない姉たちが階段を下ってきたところだった。揃いの白い装束に、寸分違わぬ動作。そしてまったく同じ顔。

 三人で列を成しているが、ただのひとりとしてサシャを振り返ろうとはしなかった。沈黙を維持したまま、するすると行き過ぎんとする。

「お姉さま。私、植物園を綺麗にしてきました。まだ途中ですけど、ずいぶん見違えたと思います。よろしければ、少しだけ覗いて――」

 姉たちは一瞥もくれない。分かり切ったことではあった。

 途中で言葉を切り、追い縋る足も止めた。まるで速度を緩めることなく離れていく三人を、ぽつんと見送る。

 サシャは一族の末娘だ。姉たちが全部で何人いるのか、いまだに知らない。漠然と十人くらいだろうと推測してきたが、ときおり増えたり減ったりしているような気もする。ひとりひとりを区別することさえ、サシャには儘ならなかった。

 仕方がないので全員に「お姉さま」と呼びかけている。まともに口を利いてもらえたことは、これまで一度もなかった。

 のろのろと自室へ戻った。鋏を丹念に布で拭いてから抽斗に戻すと、小ぢんまりとした寝台に腰掛けた。枕元に置いた人形を見やる。

「ねえクロル」と語りかけた。「私、本当はこの家の子じゃないのかな。お姉さまたちとはちっとも似てないし」

「さあな。俺はお前の姉を見たことがないから、なんとも言えないが」

「似てないんだよ。お姉さまたちはみんなそっくりなのに、私だけ違うの」

「角は?」

「私にしかない」

 クロルは低く笑い声を洩らし、「でも、なくなってほしくはないんだろ。もし痛みなく抜けるとしても、抜きたくないんだろ。なくなったら自分じゃなくなるような気がするもんな」

 角を指先で撫でると、クロルがまた笑った。お見通しといった風情だった。

 なぜこうして会話が成立するのか、サシャには分からない。余り物の布切れに綿を詰めて拵えた、手製の人形である。クロルという名前もサシャ自身で付けた。

 目指したのは愛らしい小動物だった。ところが材料も技術も足りなかったせいで、鼠のような小鳥のような、不格好な姿になってしまった。異様に頭が大きいし、丸々と太って見える。当初のイメージとの違いに、最初は少し気落ちしたほどだった。

 それでも記念すべき最初の作品には違いない。飾っておくと愛着が湧きはじめた。そのうち相手から話しかけてくるようになり、以来、やり取りが続いている。

「私じゃなくなるような気がする、か。うん、確かにそうかも」

「俺もそうだよ。もっと見栄えがする人形は世にごまんとあるだろうが、でも俺じゃない。お前が手直ししたいっていうなら止められないが、できるだけ原型は残してほしいね。俺が俺でいたことを忘れそうだから」

 サシャが気兼ねなく会話できる相手は、今のところ彼しかない。なんらかの奇蹟によって生命が宿ったのならば素敵だが、たぶん違うのだろうという気がしている。自分の別なる人格が投影されているか、あるいはまったくの幻聴――。

 壁の向こうにふと、幽かな気配を感じた。開きかけた唇を閉じ、クロルを毛布の下に放り込んで隠す。姿勢を正して待ち受けていると、扉が押し開けられた。案の定、マノイアだ。

「サシャ。少しお話を」

 言いながら、平然たる仕種で部屋に歩み入ってきた。なにかを探るようにあたりを見回していたが、やがてサシャに視線を定めた。

「返事は?」

「はい。マノイア先生」

 女の唇の端が、満足げに吊り上がる。サシャは頭を下げた。

 マノイアは屋敷の教育係だ。仔羊たちとは対照的な、見慣れた漆黒のヴェールで痩身を包んでいる。波打つ長髪のあいだに浮かんだ混沌とした魔石のような瞳が、サシャの影を映し返していた。

 静かに立ち上がり、椅子を運んでくる。失礼があってはならない相手だ。万が一にも機嫌を損なえば、ろくなことにならない。

「あなたは今日も植物園にいたようね」とマノイア。「ずいぶん長いこと籠っていたようだけど」

「はい。ずっと草木の手入れをしていました」

 ふうん、という吐息交じりの応答。「ねえサシャ。あなたは誇り高い仔羊であって、園丁ではないはずだけど」

「本分を忘れたことはありません。私はヘルルーガの仔羊です」

「ではなぜ? あそこは棘のある草も多いでしょう」

「誰かがお世話をしないといけませんから。お姉さまたちに押し付けるわけにも参りませんし」

 マノイアは小さく頷いた。姉たちを引き合いに出したのが効いたらしく、

「確かにね。あの子たちよりは、まだあなたのほうが適役かもしれない」

「でしたら構いませんか。放っておけばきっと、すぐに荒れ果ててしまいます。そうなってしまっては、この屋敷に相応しくないかと」

「まあ、ね。あまり入り浸りすぎなければいいでしょう。だったらそう、あなたにお願いが」

 反射的に身を硬くした。「どのようなことでしょう」

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