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その尖った頭部は、狼のようにも鹿のようにも鰐のようにも見える。全体が黒っぽい、奇怪なほど艶やかな毛皮に覆われており、表情はよく分からない。明確に人ではないのだが、どことなく髪を長く伸ばした女を思わせる部分があって、依織にはそれがかえって恐ろしかった。かつて人だったものの成れの果てではないかという気がしたからだ。
再び咆哮が起きた。咽を痙攣させるような、甲高く生々しいその声は、今度こそ眼前の存在から発せられたものに違いなかった。赤々とした口腔と、ずらりと生え揃った牙が覗く。
「なに、なんなの」
答えるわけがない。依織自身、なにに対して問うたのか判然としなかった。役立たずの言葉を発したばかりの唇が、際限なく震えている。
相手が身を起こし、ゆらりと両腕を広げた。人間並みだなどと感じたのが嘘のように巨大で、首を逸らさなければその顎を視界に入れられないほどだった。なにをどのようにして縮こまっていたのか、まるで見当がつかない。つい先ごろまで路地裏に身を潜めていた存在とは思えなかった。
かろうじて後ずさると、がしゃりと音を立てて背中が障害物にぶつかった。金網のフェンスだ。同時に無数の玉砂利の感触が足裏に伝った。危うく転倒するところだった。
走れ、と本能が警告を発した。こいつに近づくな。今すぐここから離れろ。
どうにか体勢を立てなおして駆け出した。踏みしめるたび足許の砂利がやかましい音を立てたが、構っている場合ではなかった。フェンスが途切れて生じた道に、必死で身を滑り込ませる。
そのまま逃げ延びようとして、真正面に壁が聳え立っているのを悟った。慌てて向きを変えたが、その先も同様の壁である。平坦なコンクリートで、容易に攀じ登れる高さではない。
「畜生」
まんまと追い込まれた。出入口の一箇所しかない空き地に、自ら飛び込んでしまった。
たいした広さではない。逃げ回ったところで、捕まるのは時間の問題だろう。己の軽薄さが情けなく、今にも泣き出しそうだった。咽の奥を強く締め付けられるような感覚に、呼吸さえ覚束ない。
胸の内を黒々と渦巻く絶望。割れそうな頭の痛み。
怪物はしばらく声をあげない。もはや威嚇する意味はないと判断したのだろう。こちらにはもう、どこにも逃げ場はないのだ。
せめて相手がどこにいるのか確かめたかったが、視界に入れたが最後、凍り付いて動けなくなるだろうという気もしていた。正体がなんであれ、この世の存在ではありえない。悪夢の住人だ。なぜそんなものが侵食してくる? なぜ自分が出くわす?
滑らかな布どうしを擦り合わせるような音が、耳朶に入り込んできた。本当はずっと聞こえていたのかもしれない。この場には相応しからぬ、柔らかく穏やかな響きだった。さらさら、するする――。
ここで死んだんだって、という言葉がふと、脳裡に甦った。そうか写真の空き地はここだったのかと、依織は今になってようやく理解した。病院を抜け出したという患者も、自分のように化物に襲われて死んだのか。それとも……。
「順番を間違えちゃ駄目」
声とともに、上方からなにかが降ってきた。そのように見えた。塊が依織のすぐ傍に着地したかと思うと、するりと湧き立つように立ち上がった。長身の女の背中が、そこに生じていた。
「いったい」なにを問いたいのかも判然としないまま、依織は声をあげた。「どうなって――」
「ぜんぶ後」
鋭く命じられ、依織は吐き出しかけた言葉のいっさいを呑み込んだ。従うしかない。こくこくと顔を上下させると、女性はこちらに背を向けたまま、
「ただそこでじっとして、動かないで。どうにかするから、信用して」
これにも頷くほかなかった。「はい」
女性が隙のない、優雅とさえいえる動作で身構える。低い足音が、少しずつ接近してきた。
彼女と相対するなり、怪物は大口を開けた。耳を貫くような喚きはやはり、獣の鳴き声というより人の声に似ている。長々とした腕を振り回す動作も人間じみていて、依織の目には一瞬、怪物が狂女のように映った。身が震え、背筋が冷たくなった。
怪物が勢いよく距離を詰め、女性に躍りかかった。圧倒的な体格差で、一息に圧し潰さんとしている。
鎌のような爪が宙を薙いだ。彼女は巧みに身を捻ってそれを躱し、続いて跳ねるように後退した。あっという間に相手の懐から逃れる。動きを予見していたらしく、体勢はまったく崩れていない。
瞬き一回ののち、女性の手の中になにか光るものを見た。どこかに隠していた刃物を引き抜いたのだろうが、依織には魔法のごとく空中から生じたとしか認識できなかった。その清冽な輝きが、怪物の黒々とした爪と鮮やかな対比を成す。
ふ、と短く息を吐き出す音、続いて足が砂利を蹴って飛び出す音が、耳に響いた。女性が相手に接近して右腕を突き出した、その次の瞬間、怪物の黒いヴェールのような毛皮に一筋の裂傷が生じた。悲鳴。
霧のように噴き出したのは血飛沫だったに違いないが、それは薄闇の中であまりにも鮮明で、ぱっと火の粉が舞ったかのようだった。あちこちに飛散し、一帯を染め上げる。
やがて怪物が両腕で身体を抱き、がっくりと崩れ落ちたかと思うと、その姿は煙のように掻き消えた。後にはなにも残らなかった。
「――倒した?」
呟きのように発すると、女性は慎重な声音で、
「いったん追い払っただけ。死んではいない。あいつはそう簡単には死なない」
彼女が初めてこちらを振り返り、歩み寄ってきた。十九歳の依織より少し年上といったくらいだろうが、長い髪に縁取られた面立ちは凛として、頼もしげに見えた。端正で硬質な気配を宿した人だった。
「大丈夫?」
相手が手を伸べてきた。おっかなびっくりで握り返す。怪物の血を間近で浴びたろうに、その形跡はもはやどこにもなかった。白くしなやかな、女の掌だった。
「あの、ありがとうございました。さっきのあれは――」
言いかけた途端、思い出した。頭蓋の内側が丸ごと鉛球に挿げ替えられたかのような重み。
性質自体は慣れ親しんだ頭痛のものと相違ない。しかし過剰だった。緊張の糸が途切れ、感覚が悲鳴をあげはじめたらしい。
思わず掌で頭部を押さえ、体重を壁に預けた。呼吸が切迫してくるのが分かった。
「痛むんだ、やっぱりそうか」と女性が依織の瞳を覗き込む。口づけせんばかりに顔を寄せてきて、「あなたも〈天鵞絨の病〉なんだね」
ビロード、と聞こえたが、謎めいた言葉は頭の中で意味を結んでくれなかった。まるで理解が追い付かない。その声ももはや遠く、薄い皮膜を隔てた向こう側の出来事のように響いていた。
「あ……ああ、あ」
視界が揺れ、ぼやけて、やがて紗がかかった。全身から力が失せ、痛み以外のあらゆる感覚が曖昧になっていく。
不意に女性の顔が離れた。とうとう立っていられなくなり、依織はずるずるとその場にへたり込んだ。
「私のことは――」という声は、最後まで聞き取れなかった。ただ意識が消失する寸前に目に入った仕種だけは、くっきりと脳裡に焼き付いていた。
彼女は薄い笑みを浮かべながら、人差し指を唇の前に突き立てていたのだった。まるで悪戯を咎められた姉が、妹に見せるような表情で。
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