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 なにも起きない、と感じたのは一瞬だけだった。耳の奥に甲高い異音が生じたかと思うと、あっという間に頭蓋の内側にまで入り込んできてやかましく増幅を始めた。同時に視野が狭まり、叔父の顔以外のいっさいが飛び去って認識できなくなった。白黒のノイズがちかちかと明滅している。

「あ、あ、あ」

 長々と引き延ばしたような金属的な音声が、やがて頭痛に変わった。視線を逸らして逃れたいと思うのに、意識のまた別の部分が頭部をがっちりと固定してそれを許さなかった。奥歯を食いしばったまま叔父の目を見つめつづける。暗転。

 吸い寄せられるような感覚とともに、痛みが失せた。散り散りになりかけた意識がどうにか統合したとき、依織はようやっと異変に気付いた。叔父の客間が消えている。周囲にはただ、黒々とした闇が満ちているばかりだ。

「叔父さん?」

 ここにいる、と返答があった。しかし姿は見えない。声だけが頭の内側に直接響いているような感じだった。

(俺からはお前が分かる。最初の関門は乗り越えたようだ)

「ここは」

(説明するのが難しい。夢を見ているとでも、ひとまずは思えばいい。ともあれ、ここからが本番だ。今からそこに、お前にとっての天敵が現れる。それをお前自身の力で退けろ)

「天敵って――」

(どういう形を取るのかは俺にも分からない。訓練といえば訓練だが、痛みを消すことはできない。少なくともさっきの頭痛程度にはリアルな感覚として、お前に伝わる)

 つまりは現実と区別のつかない激痛ということだ。身震いが生じた。「ここで死んだりしないよね、私」

(体に傷は残らないし、死にもしない。終われば出られる)

 ひとまずは安堵したが、それ以上に疑問だった。なぜ彼にそんなことができる? そもそも自分は、どうやってこの得体の知れない場所に送り込まれた? 

「ねえ叔父さん、叔父さんはいったい」

(来たぞ)という言葉に、問い掛けは遮られた。(お前の思うようにやれ)

 奇妙な音が背後から聞こえた。低い獣の唸りのように思えたが、どこか人の声にも近い響きを帯びてもいる。振り返った。

 影が蠢いた。痩せ細った――狼? 

 あの夜に出くわした怪物と似ているが、どこかが違う。しかしなにがどうとは断定できない。纏っている気配? 

 分からないことが多すぎる。しかし今は戦うしかない。

 ややあって、相手が姿勢を変えた。長すぎる前肢が突き出され、腰の位置が高くなる。身構えているらしい。薄闇のなか、やや緑色を帯びた毛皮が艶やかに揺らいで見えた。

 僅かに後脚が動いた。発条が弾けるように獣が跳躍した。

 かろうじて横に飛んで避けたが、一瞬でも判断が遅れれば真正面から体当たりを見舞われていた。とても耐えられたとは思えない。後ろざまに転倒し、押さえ込まれて、咽を食い破られたに違いなかった。

 着地した獣が優雅に身を反転させた。白い牙を剥き出しにして依織を威嚇する。

 逃げて逃げ切れる相手でないことは、即座に理解できた。この空間がどの程度の広さとも分からないが、脚力ではまるで勝負になるまい。体力が尽きた段階で、ただ嬲り殺しに遭うだけだ。

 長引けば長引くほど不利になる。できる限り早い段階で反撃の糸口を見つけねばならない。

 どこかで見ているらしい叔父に助言を求めようとは思わなかった。これは試練だ。依織は少しずつ横に移動しながら、相手を睨みかえした。

 素手では話にならない。なにか武器になるものをと視線を走らせたが、周囲は変わらず薄闇に満たされているのみだった。どこにも、なにもありはしない。

 一定の距離を保ったまま、狼は依織の隙を伺っているようだった。最初の一撃を回避されたことで、多少は慎重になっているのかもしれない。たかが小娘ひとりを相手に、なにを臆することもないだろうに。

 息を吐いて思考を巡らせた。叔父はここを、夢の世界とでも思えと言った。自分の意思で動き回れる夢。すなわち明晰夢だ。そうと気付いたからといって、なにか目覚めるすべがあるでもないが――。

 あの女性のことを思い出した。怪物の体を一閃した短刀。彼女はいったい、あの武器をどうやって携帯していたのか。ただポケットに突っ込んでおいた? そんな馬鹿な話があるわけはない。それ以前にあれは、本当に現実の刃物だったのか。不思議と空中から生じた――魔法の産物だったのではないか。

 自分の思い付きが信じられなかった。しかし試してみる価値はある。なにせここは夢の世界なのだ。どんなことだって起こりうる。

 獣がまた姿勢を低めた。次なる跳躍が、数秒後に来る。

 依織は目を閉じ、掌のなかになにかを呼び寄せんとした。有用な道具――しかし直感的に脳裡に浮かんだのは、なぜか刃ではなかった。

 より長く、重みのあるものが来た。先端が鉤爪状に湾曲した杖。

 それからは体が自然と動いた。斜め向きに構えた杖で、飛び込んできた獣を受け流す。バランスを損なって倒れた相手を、勢いのままに打ち据えた。

 確かな手ごたえがあった。しかし悲鳴も、また出血もなかった。ただ幻燈のように影が消失し、代わり、小さな塊が地面に転がったのみだった。

 獣を象った人形?

「――まさか」

 という声に耳朶を打たれ、依織ははたと目覚めた。傍らには巽がいて、驚愕の表情でこちらを覗き込んでいた。

 もとの部屋だった。やたら大振りなソファに身を沈めたまま寝入っていたらしい。

「訓練は」目を瞬かせてから訊いた。「終わったの?」

「ああ。しかし――信じられない結果だ。お前はなぜあれを知ってる?」

 体を起こし、改めて周囲の様子を確かめた。やはり叔父の客間だ。先刻までとなにも変わっていない。

「お前、どうやって武器を呼び寄せた?」

 依織は小さく肩を動かした。「分からないよ。夢の世界だって思ったら、できる気がしただけ。体が勝手に反応したの」

 この返答に巽は納得のいかない様子で、「なんの予備知識もなく?」

「言葉では説明できないから体得しろって言ったのは叔父さんでしょう」

 彼は困惑したように顎を摘まんだ。「確かにそうだが――」

「だから私にも説明できない。なんで杖だったのかも、どうして扱えたのかも分からない」

「分かったよ」いささか気圧されたかのように、巽は引き下がった。「とりあえず、今日はこれで終わろう。計画を根底から考え直さないといけなくなった。少し時間をくれ」

 そう宣言されると、途端に緊張が途切れた。じっとりと体に纏わりつくような疲労を意識する。掛け時計を確かめてみると、あの奇怪な空間にいた時間は五分にも満たなかった。

 ありがとう叔父さん、と短く礼を言った。客間を後にする。

 ひとまず浴室へ向かい、熱いシャワーを浴びた。ゆったりした服に着替えて自室に引き上げる。自分にも考えるべきことが無数にあるように思えたが、今はともかく休養したかった。

 ベッドに上がってカーテンを引こうとしたとき、視界に奇妙なものが映りこんだ。無視して寝入ってしまいたかったが、直感がそれを許さなかった。身を起こした。

 窓に顔を近づけて覗き下ろした。人影だった。

 庭木の作る薄暗がりに立っているせいで、細部は視認できない。しかしどうやら、ひっそりとこの部屋を見上げているようである。

 また会ったね、とどこからか声がした。年若い、それでいて落ち着き払った女の声音だった。確かに聞き覚えがある。そうだこの声は――。

 窓を開けようとした依織を、相手が掌で制した。動作に、目が釘付けになった。

 翳ったままの顔の正面へと、右手が運ばれる。続けて、見せつけるようにゆっくりと、その人差し指が突き立てられた。

 依織は咄嗟に身を翻した。憑かれたような勢いで階段を駆け下りると、裏口のドアから表に飛び出した。

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