第63話 それでもさ

 レイはカップ酒の水面を見つめながら、窓を叩く風の音を合図にするかのように静かに過去を語り始めた。

 レイが自身の中に二度と開けぬと封印した過去。正に身を切って開く様に苦痛を語った。


 複数の男に引きずり込まれた林の奥。


 涙で霞む星が何時までも揺れていたこと。


 死んだ愛犬の冷たさを。


 自身の穢れを呪い責めたことを。


 自死を選択してしまったこと。


 レイは語り終わると痛々しいほどに抱いていた自分の肩を放して腕を解いた。

「自分でも不思議でした。その頃の私は周りの事は何も見えず、自分を責めることに憑りつかれていたかのように固執していました。他の考え方などとても一人では発想できない状態でした。きっと今のハルト君も同じ状態なんだと思います。他者を責めろと言っている訳ではないです。他者の意見も聞いてみましょう。周りを一度見てみましょう。何かを決めるのはそれからでも遅く無いですよ」

 レイの独白でハルトの頭にソウゴが病室で伝えてくれた祖母の生前の言葉が蘇った。

『大切なのは結果じゃなくて、結論だ』

 結論か、ハルトの中で改めて現状を考えようと思考が働いた。自分が犯した罪とこれから犯そうとしている罪について、サクラを殺してしまった。

 それは消えない罪。

 償わなければならない。

 必ず罰を受けなければならない。

 その受けるべき罰が見つからない為に短絡的に死を選んだ、レイが言う様に周りが見えていない状態で結果だけを求めて行動してしまった。

 冷静に考えてみれば良い、何故父さんは事実を俺に伝えなかったのか、何故母さんは無実であるのに黙って投獄され続けているか、簡単だ。一番責められて然るべき二人に俺は既に許されている。両親にとってもどれだけの苦渋だったのだろうか、愛する者が愛する者を殺す、どう思考し、どう許容したのか、考えの末端に触れるだけで眩暈がする。その二人が許したのに、自ら死を選び身勝手にもこの世を去る行為は償いどころか、新たなる罪を産む行為ではないのか、償わなければならない二人は俺にそんな罰を求めていない。

 罪と罰は等価交換ではない。一つの罪に対して、どんな罰が適当であるかを判断するそんなマトリックスは存在しない。例え司法によって正当な手段で刑罰を与えられたとしても所詮それは社会的に適当であるだけだ。ならどうするべきか、罪を罰で償う方法は同じことを自分に科す以外に方法は無い。人の物を盗れば自分の物を盗られ、人を傷つければ自分も傷つけられる。人を殺せば自分も殺される。そう思い、本来の償いの意味や償うべき相手の願いなど無視して身勝手にも死と言う結論を急いでいた。死は償いにならないかも知れない。何処かでそれにも気が付いていた。しかし、他の方法を見いだせずに死を選んでいた。だがそれは現実と罪の意識から逃げ出し、自分を楽にするためだけの利己的な考えだった。

 レイに目をやると、只でさえ小さな肩を折りたためてしまう程に小さく寄せて震わせている。

 あの無口なレイに思い出すことさえ憚られる凌辱りょうじょくの過去を語らせ、煩悶はんもんを伴う苦痛に耐えながらも励まされ、命まで救われた。改めて考える時間を与えてもらったのだ、もう一度、もう一度考えてみよう、償いの方法を、それがレイに対する誠実な謝意になるのだから。俯いて黙考するハルトにレイが呼びかけた。

「ハルト君、今が全てだと思わないで下さい。人生は良くも悪くも何が起こるか分かりません。今より良くなるかもしれない。今より酷い人生が待っているのかも知れません。どれも生きて進んで行かなければ分かりません。生きた人間にしか分かりません。ハルト君がもしも、自分の為に生きられないのなら、私の為に生きて下さい。ハルト君がもしも今死んでしまって、私の人生にこれから今まで以上に辛い事が起きたら、私はきっと死んだハルト君が正解だったんだって、死ななかった私を、生きる事を選択した私を後悔します。だから私が今後の人生を後悔するようなことが有ったら、ハルト君が慰めて下さい。人生は楽しいよって、生きていて良かったよって、死ななくて良かったよって、心で泣いていても、苦しくても、嘘でも良いから私を慰めて下さい。生きる理由が必要ならそうやって自分に嘘を付いてでも苦しんで生きて下さいよ、苦しみで罪を償ってください。サクラちゃんの人生を奪った罪を生きて苦しんで償って下さい。でも、でも、出来るなら・・出来るなら・・・できるなら本気で笑って、心から笑って生きてくださいよぉ」

 レイは勝手なこと言ってごめんなさぁいと顔をくしゃくしゃにして泣いた。

 大粒の涙が強くカップ酒を握って赤くなった手に次々に零れ落ちた。

 ハルトの頭に病室の祖母の声が響いていた。

『私は泣きながら逝くけれど、あなたは笑って生きなさい』

 ハルトの苦悩していた脳裏に微光が射した。陽光などにはとても及ばない弱々しい光、瞼の裏で微かに感じる程度の光だ、暗く黒かったハルトの心にはそんな光で十分だった。ハルトは眼下に眠る祖母とサクラに、励ましてくれたレイに、助けてくれたエジマに、そして自分自身に向けて顔を上げて言った。

「ありがとう。笑って生きなきゃいけないね、楽しく生きなきゃいけないね、楽しく笑って生きて、この瞬間、この場に母さんが居たらって、サクラが生きていたらって、俺の犯した罪を悔やんで後悔して、その度に心を痛めて罰を受け続けて生きて行かなきゃね」

 風が窓を叩いて揺らした。

 ハルトはカタカタと鳴る窓に今後の生き方を重ねた。温かな部屋に居ながらも常に冷たい外気に接している窓ガラスに手を触れて、その冷気を感じて居るようなそんな生き方をしていかなければならないと。

「良かった。今、命が有って良かった。レイちゃん嫌な話をさせてごめん。ありがとう」

 レイは手の甲で涙を拭いながらはいっと言って泣き笑い。

「エジマさん助けてくれてありがとう。この命が続く限り俺は罪を償い続けながら生きていくことが出来ます。本当にありがとう」

 エジマは微笑の横にカップ酒を掲げて乾杯。

 飲み干したカップを勢いよく置くと立ち上がり、大きな声で言った。

「さぁ紡ぐかぁ」

 きょとんとする二人をエジマは急かした。

「なにをぼんやりしている!生きると決まったら急ぐんだ!人生はいつまで続くか分からないのだから、若者よ若さに自惚れるな!」

 そう言って踵を返すとクローゼットからコートを二枚引っ張り出すと、二人に投げてよこした。

「今日がハルト君の新しい人生のスタートだ、その最初の1ページ目に朝日を見に行こう。墓地から見る朝日は絶景だ。外は寒いそれを羽織り給え、さぁ行くぞ、陽が昇る」

 二人は言われるままにコートを羽織るとエジマに続いた。


 苔生した石段を下りながら海を望むと水平線に光を宿した橙色の光の帯が伸び始めている。相変わらず冷たい風は強く、三人はコートの襟を寄せた。

 墓地の間を抜けながら岸壁へと向かった。途中ハルトは祖母とサクラの墓石の前で立ち止まった。

 エジマとレイは少し先でその様子を見守る。

「ばあちゃん、サクラ、ごめんね。俺生きるよ、精一杯生きて笑って、そして毎日後悔して生きるからね、結婚もするかも知れない。子供も出来るかも知れない。そしたら・・」

 ハルトは涙を溜めて最高の笑顔で二人に言った。

「二人共俺のところに産まれてきてよ、また会いたい。家族全員で笑いたい」

 そう告げると向きを変え、岸壁の光の方へ歩を進め、風が止んだ。

 三人は岸壁のフェンスに思い思いに寄りかかり、その目を水平線へ向けた。

 大きな岩に挑む様に波が打ち付けては散ってを繰り返している。その上を海鳥達が冷やかす様に飛んでいる。

 準備が整い舞台の幕が上がるかの如く海の彼方から陽光が昇る。

 橙色の帯は限界まで水平線に広がり、飽和し、太陽が頭を出すのに合わせてこちらに向かって海上へ転がり出て来た。その様はまるでカップの淵にまで満ちた水が表面張力の限界を迎え零れ落ちるかの様にスーッと海面を滑り暖かな光と共に温もりを運んだ。

「暖かい」

 三人は目を細め同時に口にした。

 ハルトは眩しくとも、陽を真っ直ぐに見つめていた。

 太陽の様に笑う母。

 流れる雲をバックに立つ祖母。

 ハルゥと僕を呼ぶサクラ。

 仕事に向かう父の後ろ姿。

 皆の姿を思い浮かべた。

 この美しい情景の中、ハルトは自分の罪を最も深く後悔した。

 今この場に皆が居たならと。

 これで良い。

 こうやって俺は生きていく。そう改めて決意した。まずは父さんと母さんに謝ろう。直接会って謝れる相手がいる事に幸せを覚えた。


 太陽が台頭し、白い月は頭上でそのなりを静かに潜めて行く。

 誰もが未来の事は分からない。一秒の先であっても何が起こるか分からない。

 それを知るには進むしか他に方法が無い。

 けれど進んだ先の結果には自分で結論を付けられる。

 進む未来には誰もが不安を抱える。

 止まない雨も有るのかも知れない。明けない夜も来るのかも知れない。

 けれど今日も雨は止み、夜は明けた。

 だから人は歩み続ける。どれだけ傷つき疲れていても。

 こう言いながら


「それでもさ」


 


               了

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