第58話 温泉にて 3

 それはまるで映画の中の物語のような話だった。

 エジマ話終えるとは浴槽の淵から立ち上がってハルトを見下げて言った。

「長くなるから戦場での話はこれ位にして上がろうか、じゃないと折角生きて帰って来たのにのぼせて死んでしまうよ」

 ハルトはさっきまでとは別の人を見る様な気持ちでエジマを見上げた。

「ハルト君、人の生は只有る訳じゃない。人は誰でも大なり、小なりの生きる努力をして今を迎えている。そして命を伝えて行く、君の命も君が獲得したものじゃない。君に与えられたものだ、その命は誰かが努力して生きた証だ、その誰かは紛れも無く君が良く知る最も大切な人達のことだ。君が妹にしたことも、君がこれからしようとしていることもどちらも間違っている。ならどうしたら良いか、タエさんに代わって僕が一緒に考えてあげるよ」

 ハルトは顔を伏せて聞き、湯で顔を盛大に洗った。

「さぁ上がろう、あぁ言い忘れたけどタエさんからの伝言はさっきの僕の話の中にあったのがそれだ、死んだら伝えてと言われていたから約束は果たしたな、他の家族にはハルト君から伝えてくれよ」

「はい」ハルトはかすれた声で返事をすると、口をきつく結んでまた顔を湯に晒した。

「レイちゃん大丈夫?のぼせてない?」

 エジマが男女の仕切り壁に向かって叫んだ声が浴室内でボアボアと反響した。

 レイは急な呼びかけに盛大に湯の中で跳ねた。暫くまごまごした後、か細い声で大丈夫ですぅーと返した。

「レイちゃんも自殺なんて賢い方法じゃないと思うよね」

 エジマはまた仕切りに向かって言った。

 レイは先ほどよりも返答にまごついて、倍の間を取って返した。

「そう思います。けど私もやりました。自殺未遂」

 思いがけない返答にエジマもハルトも大いに驚き同時に仕切り壁に視線をぶつけた。

 エジマは暫くまごまごした後、か細い声でどうしてぇーと返した。

 しかし、女風呂からの返答はいくら待ってもない。

 エジマは焦って質問を変えた。

「レイちゃんごめんごめん、質問がわるかった。今はどうして生きて行けるの?」

 間を開けてレイの声が聞こえ、エジマはようやく息を吐いた。

「一度、死んでも良い、どうなっても良いって思い切り思えたからだと思います。だから初めて会ったソウゴ君に付いて行って、後は私の努力じゃないです。周りの人達が今に導いてくれて生きられています。運が良かっただけです」

 エジマにはソウゴ君と言うのが誰で、二人にどの様な邂逅が有ったのか分からないが聞くべきは違う点に有るので触れずに話を続けた。

「レイちゃん、運は準備が出来た者にしか訪れない、その運はレイちゃんが積み上げた日々によって用意されたものだよ、運と実力を合わせたものが結果だ。努力の日々も我慢の日々も、積み上げた日々の種類は違えども頭上を通り過ぎて行こうとする運を、十分な高さに積み上げた日々達が捕まえるんだよ」

「日々を積み上げてくれたのは周りの皆です。私は自分が積み上げた日々を一度自ら崩し去ってしまいました。今の日々があるのは全て皆の積み上げてくれたものです。あの日私は手首を切りました。けど死ねなかった。今は死ななくて良かったと思っています。何が出来た訳でもないけど、あの日死んでいたらここにはいなかった。ハルト君が死のうとするのを止められなかった」

 暫く言葉が途切れる。

「いえ、あの、私がハルト君を救っただなんて厚かましい事を考えている訳じゃないんです。私がハルト君を死なせなかった助けになった。その事実が私の救いになったんです。死を決意して死ねなかった人の気持ちだって分かります。分かるからこそ、そこから立ち上がれる事も知っています。私が皆にしてもらった様に、これからハルト君の日々を積み上げるお手伝いをして行きたい。人生を諦めないで欲しい、絶対にまた笑える日が来ますハルト君」

 レイの声は震えていた。泣いているのかもしれない。

「どうだいハルト君、現状を、死を持って解決しようとする君に対して、死んで欲しく無いと思っているのが僕とレイちゃんとタエさんの三人、三対一だ。どうだ死ぬの止めないかね!」

 仕切りの向こうから慌てた声でレイが続いた。

「三対一じゃありません。ソウゴ君や、ミズキさんや、ヒカルさんもきっとここにハルト君の為に向かっています。ハルト君のお父さんやお母さんだって死なんて望んで無いです絶対に誰も救われません」

 震える声で訴えるレイの脳裏に病室での両親の泣きはらした顔が浮かんだ。

 ハルトは顔をしかめて俯いた。

「なら教えて下さい。死ぬ以外の方法を、死ぬ以外に俺はどうやって罪を償えばいいのかを」

 湯船から湧いた湯気は天井で大いに水滴に変わり、あちらこちらで滴り、水音を立てている。

「その問いの答えを模索する前に二人共風呂から上がろう、生きる為の議論の間にのぼせて死ぬ。まるで落語だ」

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