第57話 温泉にて 2

「俺もう行きますと」

 付き合って居られない。再び湯から立った。今度は尻の穴を締めて。

 湯船から出て歩き始めると今度は引き留められなかった。しかしエジマは何かを語り始めている。

「ハルト君のお婆ちゃんとの出会いは戦場だった」

 え?戦場!背中に気になるワードが当たる。嘘だろう。そのまま歩を進める。

「俺が四十歳だったからタエさんが四十五位だったかな」

 声が少し遠くなったがまだ聞こえる。俺の知らない婆ちゃんの話・・・

 扉はもうすぐだ。

「タエさんは戦場調査員として戦地に派遣されて来たんだ」

 扉をあけた。何?戦場?戦場調査員?何する人?

 凄く気になる!

 エジマの声はまだ聞こえていたが、後ろ手で扉を閉めた。完全に扉を閉めると室内は静寂に包まれた。

 ペタ、ペタ、ペタ、三歩進む。

 ペタ。もう一歩、歩を進めた処で我慢できずに反転。

 ペッペッペッと浴室へ駆け込む。エジマの脇に飛び込み話を止めた。

「エジマさん戦場調査員の処からもう一回、もう一回お願いします」

 ハハハハハ良いよーとエジマは先ほどと変わらない笑顔で答えた。

 ハルトが浴室の気流を乱した為に湯気が暴れている。

 エジマは改めて語り出した。

 

「当時アメリカはイラクをテロ支援国家として名指しで非難し、大量破壊兵器保持を理由にイラクに進行した。正義の名の元に始めた戦争だが実際は原油の利権を巡ってアメリカが始めた利権戦争だよ。僕はそこに傭兵として参加していた」

「傭兵!エジマさん戦争に参加してたんですか?婆ちゃんも傭兵だったんですか?」

「色々思う処あってね、僕は傭兵としてあの戦争に参加していた。タエさんは日本から研究者として派遣されてきたんだ」

 ハルトは浴槽の淵へと腰を移し、エジマと並んで座った。

「戦争では沢山の物を壊し、奪ってしまうがその中で産まれるものも有る。それは、科学。サイエンスだよ。インターネットだって最初は戦場で産声を上げた。ティッシュなんてガスマスクのフィルターを民間で利用したのが始まりだ、それに原子炉だって言わずと知れた原爆研究の産物だし、数を上げればきりが無い。人の心理に対する研究も戦場では頻繁に行われる。非日常のパニック状態が頻繁に起こる格好のサンプルだからね、タエさんはその研究の為に日本から派遣されてきたんだ」

「そんな危険な場所にばあちゃんが派遣されたんですか?実際に殺し合いがされている場所ですよね?」

「派遣されたと言っても自分から志願して来たらしいけどね、僕も戦場の第一線に研究者が来るところを初めて見たくらいだから、流石に研究者一人で戦場をふらつかせる訳にも行かないから、アメリカ軍に混じって同郷の理由から僕もタエさんの護衛に参加することになったんだ。それが最初の出会いだったね」

「婆ちゃんは志願までして何の研究をしていたんですか?」

「僕らみたいな一介の兵士に細かい説明はされなかったけど、タエさんが教えてくれた感じだと専門は行動心理学だって言っていたね、戦場における行動心理を研究していたみたいだよ、ある条件下である状況に身を晒した場合の行動と心理を研究していたらしい」

「そんなもの研究して何になるんですか?」

「その研究で、戦場の状況によって相手のとる行動が分かる、常に先手を打てる、相手が行く先に罠を張れる。自分たちの場合であれば陥っては行けない状況がわかれば回避できるし、陥った場合のシュミレーションやマニュアルが作成できる。それができれば常に戦場では相手よりも優位に立てる。そんな現在の兵法書のようなものを作ろうとしていたんだ」

 ハルトはエジマの横顔を懐疑の念を持って改めて見つめた。初めて聞く婆ちゃんの過去、まったく聞いた事の無かった話。お調子者の狂言なのでは無いかと表情を覗く、けれどその顔にはさっきまでの悪戯な笑顔は無かった。

「初めて聞く話です。どうして婆ちゃんはその話を俺にしなかったんでしょう」

「言いたく無かったのかも知れないね、あえて子供に話したい事は何もなかったからね」

「研究のデータを集めてただけじゃないんですか」      

「データを集める為には実際の戦場に行って拾うんだよ。報告だけでは正確な情報を得られない。何が必要なデータで、何が不要なデータかは自分の目で見て状況と照らし合わせながらでなければ判断できないものらしいからね」

「なら危険なことも有ったんですか」

「沢山あったよ、データの収集の他にも今まで集めたデータから立てた仮説や推論が正しいのかを実践で検証しなければならなかった。その検証が正しい場合は良いよ、けどね誤っていた場合に何が起きるのか、それは沢山の仲間の死と自身の命も脅かす結果に繋がる危険な作業だった。それにタエさんは交戦状態であってもサンプルになりそうな状況だと逃げようとせずに観察を続けるんだよ、こっちは守るのに必死だった。良く襟首掴んで逃げたもんだよ、そんで後で怒られるんだ。後方基地に戻るとタエさんが本部に電話してさ、カイ二乗検定は行ったのか、p値の値は5%以下なのか、ランダム化比較試験の精度が疑わしいから計算をやり直せって難しいこと大声で怒鳴り散らしてたな」

「危険な仕事だったんですね、強情なところは婆ちゃんらしいけど怒鳴り散らすなんてらしくないですね、検証結果が上手く行かなかったことが悔しかったんですかね」

「悔しかったんだと思うよ、自分たちが導き出した結果が誤っていなければ救えた命だしね、タエさんが良く言っていたのはね『この研究は少ない犠牲で戦争を終わらせる為に必要なの、幾ら綺麗ごとを言って戦争に参加しなくてもそれは何もしなかっただけの卑怯者だし、私は戦争に参加して、モルモットの様に人の命を扱う、けれどそれはこの戦争を早く終わらせるため、だから戦場に消えて行く命から目を背けはしない、自分の罪を受け止める』ってね」

 ハルトの脳裏には時折見せる祖母の厳しい表情が浮かんだ。

 エジマは顔の汗を拭って天井を見上げると大きく息を抜いた。洗い場のオレンジ色の光を湯気が飽和している。

「ハルト君が産まれた夜のことをよく覚えているよ」

「僕が産まれたときですか?」  

「そう、あれは後方基地に居るときだった。タエさん宛てに衛星電話が来たんだよ、いつもなら検証実験の無理難題ばかりが司令部からおりてくるからタエさんもいつもの様に厳しい態度で電話に出た。皆、指令の中身が気になるから聞き耳を立てて聞いていたんだけどね、電話に出て暫くすると態度が一変した。その場で飛び跳ねて喜んでね、産まれた産まれたって大騒ぎしてたよ、いつもデータと向き合って厳しい顔している処しか見せなかったからチームの皆もビックリしてね、タエさんも何度も電話口に頭を下げてありがとうありがとうってベソまでかいてたよ。あれには笑わせてもらったな、ハルト君が産まれたのが相当嬉しそうだったよ」

 テントが幸せな祝福に包まれたのは一時だった。パラパラとマシンガンの機銃音が上空から聞こえたと同時にテントの屋根中に穴が開き仲間たちがその場で糸の切れた人形みたいに崩れ落ちた。どしゃどしゃと湿った音をたてて血しぶきと巻き上げられた砂でテントの中は煙った。

 武器を手にする暇も無くテントから逃げ出した。命令系統など無く隊としての統制は崩壊している。上空を伺うと無数の落下傘が地上に向かって降下している。肉眼で確認できる上空限界まで落下傘の姿が続いている。射程距離にまで降下した兵士が次々にマシンガンを逃げ惑う仲間達に向けて発射している。

 鉄の雨を避けながらまばらな木々の下に身を隠した。奴らの標的になるのは避けたかった、暫く行けば河がある。そこには物資運搬用の船がある、ここでは陸路を行くよりも河川を利用する方が早いからだ。それを利用して逃げよう。

 まるで爬虫類の様に地を這って、白い砂を被りながら木々の間を抜けた。河に近づくと敵兵が既に船を確保してニヤニヤとしている。冷静に考えてみればそうだろう、我々の後方基地の位置を把握しレーダーの範囲の外、相当の高度からの降下をしてきた周到な隊だ当然船の数や位置も把握しているだろう。十数メートル先の船の近くを警戒していた相手がこちらに銃口を向けているのが見えた。死を覚悟した直後、斜め後方から銃声が響いた。数秒間連射された弾丸は岸に並んでいた船の燃料タンクを打ち抜いた。突然目前で朝日が昇った様な光と熱が広がり、それは次々と連鎖して激しい音と共にニヤついていた兵士達を飲み込んで行った。銃声のした方向を伺ったが、あまりの光量に一時的に視力を奪われ、実像を捉える事が出来なかった。方向感覚さえ定かではない状態だ。自分の向いている方向が銃声のした方向であるのかさえ分からなかった。チカチカする視界の隅から腕が伸び手を引いた。

 身を固めて待つと、「目が見えないの?大丈夫?」聞きなれたタエさんの声がした。

「タエさんですか?今助けてくれたのは」

「私じゃないわ、スミスよ」

 ぼんやりとタエさんの後ろにマシンガンを構えた大柄な白人が見えた。

「スミス、お前も無事だったのか!」

 スミスはアメリカ軍人で共にタエさんの警護を担当している仲間だ。スミスは白い歯を見せて笑顔を向けると直ぐに周囲を警戒した。

「何にせよ助かりました。タエさん達が生きていてくれて嬉しいです。他の仲間は?」

「分からない、何人かはあの奇襲で死んでしまったと思うけど、私達みたいに逃げ延びている人もいるはず」

「とにかく、ここから離れましょう。敵がくる。目はどう?」

「大丈夫です。徐々に見えてきました」

 腕を引き上げられて立ち上がると、マシンガンを受け取った。タエさんはもう歩き始めている。さっきまで喜びに浮かれていた人とは思えない。その背は炎を投影して、中から生きる意志を強く感じた。

「エジマ君、もし私がここで死ぬことが有れば家族に伝言を頼みたい」

 タエさんは前方を警戒したままそう言った。

「止めましょうよ、縁起でもない」

「良いから今から言う事を覚えて」

「夫には愛していると、娘には貴方を誇りに思うと、義理の息子には後をしっかり頼むと、そして孫には産まれて来てくれてありがとう、あなたが産まれた今が最高の瞬間。今死んでも良いくらいと伝えて、もし生きて帰れれば残りの人生はあなたの為に使う。そう伝えて、あなたも誰かに残しておきたい言葉はある?」

「僕は大丈夫です、もしタエさんに何か有れば必ず伝えます。けれど、生きて帰って直接伝えましょうよ」

「もちろんそのつもりよ」

 タエさんは少し顔を向けて生きて帰ろうと二人に声を掛けた。

「一旦東の渓谷に出て、崖に沿って南下し、本部に向かいましょう」

「タエ、本部の位置は南西だそれじゃ向かう先が逆だ」

 スミスは先頭に立ち声を落して言った。

「ええ、遠回りにはなるわ、けれど落下傘の降下を考えると渓谷の読みにくい気流を嫌がって東にはきっと敵が降りて居ないはず、遠回りにはなるけど安全な道を選びましょう。日本には急がば回れって諺があるのよ」

「アメリカにはThe end justifies the means(終わりが良ければ手段は問わない)って諺がある。君に従うよ」

 三人は燃え盛る岸辺を背に闇に消えた。

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