第56話 温泉にて 1

 天狗のおじさん。エジマさんの言う風呂とは温泉の事だった。

 龍宮楼の中には源泉かけ流しの温泉があった。脱衣所の壁には効能が書かれたプレートも貼ってある。

 レイは広い浴場に一人、湯につかっていた。

 湯につかった手足がジンジンと痺れた。それが過ぎると誰に気兼ねすること無く手足を伸ばして湯に浮き、大の字になった。温泉は始めてでは無いけど、こんな夜中に入浴するのは初めて、白く塗られた天井の木枠の明り取りからは、月と星が湯気を透かしてぼんやりと見える。

 天井に向かって蒸気の粒が立ち昇って行く、揺蕩いながら、ときに渦を巻きながら。

 レイは昼間と今はまた違った雰囲気を見せていのだろうと檜の香りを嗅ぎながら思った。湯に身を預け、頭を空っぽにすると人の生の不思議さが頭に浮かんできた。

 人生は何が起こるか分からないものなのか、人が生きれば何をしでかすか分からない生き物なのか?自らの命を過去に絶とうとしていた自分が、ハルトの命を救う事になろうとは夢にも思わなかった。命を絶とうとした湯の中で今度は命あることを感謝する。なんと神妙なことか。しかし、ハルトの自殺を止めはしたものの、中止に出来たと言うよりも延期させただけなのだろう、このまま放っておけばハルトはまた繰り返す。

 私が死のうとしていた時に、私はどうされたかったのだろう?どうしたら自殺などと言う愚かな行いを思いとどまれただろうか?自殺の原因になったこと、起きてしまったこを無かった事には出来ない。その出来事を受け入れ、生きていく糧に替える事が出来れば、今までより強く生きていくことも出来る思う、けれどそんな方法があるのだろうか?

 ・・・まったく思いつかない。私の自殺は偶々未遂で終わり、偶々ソウゴに出逢った。人の命などは人の持つ運で決まってしまうものなのかも知れない、運が良ければ生き、悪ければ死ぬ、だとしたら他人に出来る事など無くなってしまう。

 レイはバシャバシャと湯船の中で手足をバタつかせて頭の中をリセットした。手足を止めると男湯から声が聞こえてきた。


「ハルト君いいよ、いいよ、体なんて洗わなくて、寒いからさっさと湯船に入っちゃおう、豚みたいに汚れている訳でも無いから洗って無くてもさほど変わらないから」

 そう言いながらエジマは風呂の入口から湯船へ直行し、盛大な吐息を伴って湯に体を沈めた。

「本当に気にしなくていいよ、他に入る客も居ない、二人だけの貸し切りだから」

 ハルトは浅く頷くと湯に入り、エジマと距離を開けて腰をおろした。

「ハルト君、アンテキヌネスって袋ネズミを知っているかい?」

「いいえ」

 抑揚の無い返事だ。エジマはそれに構わずに話を進めた。

「アンテキヌネスのオスはね、最初に交尾で死んでしまうんだよ面白いだろ!まぁ人間にとっては面白いけどあいつらは本気だからな、一度始めたら死ぬまで止めないんだ。射精の瞬間に果てる奴や次のメスを探している間に力尽きる奴もいる。死んだアンテキヌネスは、毛は抜け落ちて痩せ細り、まさに精も根も使い果たした状態になっているんだって、交尾に全てをかけてるよな、人生のピークがエンドな訳だからそれまでの生なんて準備期間だよな、けどさ、あいつら一心不乱に交尾をしている最中に子供の事を考えたりするのかな?産まれてくるのは男の子かな?女の子かな?産まれた子供を愛でてやりたいなとかさ、きっと思わないんだろうなぁもしかしたら交尾自体の行為が生殖活動である事も知らないのかもなぁ、どう思うハルト君」

 エジマがハルトの返答を待つ間、天井からしたたる滴が湯を打つ音だけが数回浴室に反響した。

「わかりません。エジマさんは婆ちゃんと知り合いなんですか?」

「なら、人間とアンテキヌネスどちらの人生が幸せだと思う?」

「エジマさん、婆ちゃんは俺に何を言い残したんですか?」

「どちらの人生が幸せだと思う?」

 エジマは前を向いたまま視線を合わさずにやや強調して言った。

 ハルトは暫く黙った後、投げるように言った。

「アンテキヌネスじゃないですか?」

「どうして?」

「やりたいこと目一杯して、好きな事して死ねるなんて幸せじゃないですか」

 そうかもなぁとエジマは気の抜けた返事をした。

「なぁハルト君、人間は贅沢で欲張りだよな、いつか来るかも知れない最高の瞬間の為に今の幸せに満足しようとしないものな、幸せだと感じた時に死んでしまえるのが最も幸せなことなのかも知れないな」

「何が言いたいんですか?ばあちゃんのこと教えて下さいよ」

「何か言いたいことが有る訳じゃないんだ、只思った事を口にしているだけだよ、少しくらい年寄りの暇つぶしに付き合ってくれよ、どうせこの後は死ぬだけなんだろ」

 ハルトはエジマから視線を外した。

「ハルト君のお婆さんの話だって、そう長い話じゃないさ、もう死んだ人間の言葉だ、続きがある訳でも無い。急ぐ理由なんて無いじゃないか、そうだろ?」

 エジマは器用に重ねた手の内から湯をとばした。

 ハルトは顔を拭って大きく息を吐くと肩の力を抜いた。

「さっきの続きだけどな、アンテキヌネスの生き方が人間よりも幸せな一生だとしよう、幸福の絶頂で死ぬ、そんな生き方がだ。だとすると俺とハルト君は死にそびれて今日まできてしまった事になる。ハルト君はもう成人だろ?今までに幸せだと感じた瞬間は有っただろ?死ぬべきだった瞬間がさ、それはどんな時だった?」

 人の出入りの無い浴室は湯気が立ち込めるに任せ、何時の間にかお互いの表情も朧にしか分からない。

 ハルトにも確かに有った。意地を張って、無かった。そう言ってエジマの話を終わらせたかった、けれど確かに有った。幸せだと感じ時が止まれば良いと思った瞬間が、それを例え嘘であったとしても、無かったとは言えなかった。あの時、幸せの絶頂。エジマの言う通り、あの時に死んでいれば、死ねれていれば、俺の人生は幸せなままで終われたのに、けれど死んだのはサクラだけだ。

「ありましたよ・・・・」

 エジマは黙って続きを待った。

「妹を殺したときです」

 エジマは眉の中央を上げた。

「何の例えだい?」

「例えなんかじゃありません。俺が妹を殺した。そのままの意味です」

 キリスト教には懺悔と言う行為がある、司祭を通して神に罪を告白し許しを請うものだ、神に許しを請うのなら、天や地に向かってその罪を告白すれば良いようにも思うが、それではきっと人は救われないのだ、胸に抱えた後悔や自責の念を他人と言うフィルターを通して外に放出しなくては己の口から出て同じ形で元の戻るただそれだけの作業になってしまう。

 死を決意し、死ぬことで罪を償おうとしていたハルトにとって罪の告白の意味は違う。許しなど求めていない、寧ろ苦しみと言う名の罰を求めている。罪を告白し、罵られ蔑まれて当たり前なのだから。

「タエさんが気にしていたあの事件のことだね、実はさっき君がタエさんの墓の前で告白していたのを聞いていたんだ、この旅館から丁度駐車場が見える、こんな時間に墓地を訪れる奴は不逞の輩と相場が決まっている。そんな奴らは俺が懲らしめると決めている。だから様子を見ていたら聞こえてしまったんだ、まさかタエさんの孫が来るとは思わなった。盗み聞きに悪気はないから許せよ、しかしその後の首吊りにはビックリさせられたなぁしかも顔見たらハルト君だし」

「放っておいてくれればよかったのに」

「墓場は死にに来るところじゃない。死んでから来るとこだぞ、それに君は死ぬには若すぎる!横入りするな、ちゃんと年寄りの列の後ろに並べ!」

 エジマは妹を殺したと言う告白には触れず軽口をたたいた。

「エジマさんは婆ちゃんとどういう知り合いなんですか?そんな空気の重くなるような話を誰にでもする人じゃないのに、親しかったんですか?」

「確かにね、そんな弱い所を見せる人じゃ無かった、病気との闘いでタエさんも相当気が弱っていたんだろうね、見舞に言ったときにそんな話をしてくれたよ、君の事も心配していたよ。それに僕らは特別な関係だったからね」

 エジマは湯気をくぐりながら顔からグッと距離を詰め、輪郭がハッキリと見える位置に来た。その表情は真剣そのものだ。

「ハルト君、少しでも運命が僕に味方したのなら僕が君のおじいちゃんになっていたかもしれない」

 エジマの示唆するそれは親しいどころか、深い仲であったことを言っているのではないか?ハルトは男女の仲が分からない程幼くは無いし、世の中の男女が結婚にいたるまでの幾人の相手と関係を持つことも常識の範疇だと思っている。だからばあちゃんにそういう相手がいたとしても不思議では無い、けれどハルトの中のばあちゃんとは何時の間にか聖人君子を超えて神格化に近い域である。清廉潔白で清らかで清々しく知性に溢れる人、まるで聖母マリアの様に思っている。自分の前で祖母であり母であった婆ちゃんが、男の前で女として振る舞う姿など想像しようとする行為にさえ嫌悪感が湧いてくる。自然とエジマに向ける視線が鋭くなった。

 その視線を受けてエジマははははと豪快に笑った。

「そんな怖い目をするなよ、ちょっとそう言いうことを行ってみた方がドラマチックかと思った、只の演出だよ」

 エジマは手からまた湯を飛ばした。

「エジマさんが婆ちゃんと結婚してくれていれば、きっと俺も産まれては無かったでしょうね、エジマさんが、俺が産まれるのを止めてくれれば良かったのに」

 苛立ちから恨めしい言葉を発した。ハルトにとって性別は男・女・婆ちゃんに分かれる程隔絶した括りである、『女であった頃の婆ちゃん』と言うこの言葉の矛盾を想起させるエジマの発言は上半身が人間で下半身は馬のケンタウロスの話と変わらない。空想上の生き物だ、真面目に話に付き合う気になれない。

 ハルトは立ち上がると風呂から出る為に二、三歩進むと尻の割れ目に勢いよく手刀が射しこまれた。

「うあぁっ」と情けない声が漏れ、仰け反りながら湯に沈んだ。

 キッとエジマを睨むと子供みたいに足をバタつかせて笑っている。

「ははは落ち着けって、冗談だからさハハハハハは~腹痛い、まぁ話を聞けよハハハハハ「うあぁっ」か、ハハハハハ面白いよぉ」

 エジマはハルトの視線を物ともせずにたっぷりと笑った。湯船の淵に腰かけると息を整えながら言った。

「あまり年寄りを笑わせないでくれよ、苦しいよ、ハルト君の婆ちゃんとそう歳は変わらないんだから死んだらどうすんだよ」

 まったくデリカシーの無い人だと思った。自分がやったことで勝手にゲラゲラと笑って、死んだらどうするんだもないものだ、それは全部自分のせいだろうに。

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