第54話 ハルトの後を追う 2

 その悲痛な願いの声は口元を押さえたまま硬直するレイにもしっかりと聞こえた。ハルトが何故死の影を纏っているのかが断片的にではあるが分かった。しかし、レイが知っている事情ではハルトの妹を殺害したのは母親で刑務所に入っているはず、それが何故今になってこんな事態になっているのだろうか?現状を整理しようとしている間にハルトからまた震える声が聞こえた。

「婆ちゃん、俺を恨んでくれよ、憎んでくれよ、母さんが捕まっているのは俺の所為なんだ」

 月光に照らされるハルトの影は濃く、小さく伏したハルトの体は影との境が曖昧になるほどに闇に飲まれている。

「婆ちゃんの言った通りだった。母さんはサクラを殺してなんていないよ。殺したのは、、、、殺したのは俺だったんだよ!ずっとごめん、婆ちゃんの孫を奪ってごめん、娘を奪ってごめん、人生を奪ってごめん。全ての元凶だった俺なんかを何も知らずに育てさせられて悔しいよね?生きている時に分かれば俺を殴ったり、責めたりも出来たのに、、、婆ちゃんが居なくなってから思い出すなんて、俺は本当に狡いよね。サクラと一緒に出てきて俺を好きにしてくれるのが一番だけど」

 ハルトは暫く墓石に顔を向けて何かを待った。

「出て来てはくれないよね、ごめんね、最後まで頼ってばっかりで、やっぱりこうするしか無いよね。俺が行くね」

 そう言うと立ち上がり、墓石の列を囲む様に配された花壇の一つに向かって歩いていった。そこには花壇の立ち入りを防ぐ為のロープが張られている。ハルトはそれを解くと片側の末端に輪を作り、身近な太い枝へ投げた。ロープの輪が枝に掛って揺れている。その逆を別の木の幹に縛ると花壇の淵に登り輪を手繰り寄せた。レイがまさかと思った時にはハルトは花壇の淵を蹴って輪に頭を通して揺れた。ロープにハルトの体重が掛かると輪はギュウと締まり、親指程の太さのロープは容赦無くハルトの首に食い込んだ。

 レイは口元を押さえたまま悲鳴を上げた。周囲をバタバタと見渡すがもちろん誰も居ない。

「ダメダメダメだめー やめてっ」

 レイは墓石から飛び出してハルトへ走り出した。木の下でハルトが揺れている。その影が墓石の周りを行ったり来たりして跳ねまわっている。今にも腰が抜けそうな程恐ろしい光景だ。

 レイはハルトの足に取り付くと必死に持上げた。ハルトの首に掛かる力を少しでも和らげようと、しかし抱きかかえられるのを拒む幼児が普段よりも重い様に、死を覚悟した人間は砂を詰めた袋の様に無機質に重い。それでもレイは耐えた、歯を食いしばり全身の筋肉をハルトを持上げるのに使った。

「ハルトくんダメ!死んだらダメだよ!」

 レイの呼びかけに効果は無く、ハルトの体はどんどんと重くなった。瞼も歯も食いしばって耐えた。涙が流れ奥歯が鳴り顔面が歪む、力を絞り出してハルトの体を抱えた。

 ハルトを救わなければと必死になっている自分と何処か別の処では昔の自分をハルトに投影していた。自ら死を選び、そして向かって行ったあの日の自分。あの時の私がここに居たなら止めはしなかっただろう、当たり前の行動を見るように只黙って絶命を見届けたかも知れない。けれど今はそうは行かない一度自ら死を選んだ私だからこそ、ハルトの行為がいかに愚かなことなのか、命ある限り生きる事がどれだけ喜ばしいことなのかを身を持って学び、知っている。死は決して解決の方法に成り得ない。死んでしまった後に魂がどうなってしまうのかは分からないが、その人がしたこと、されたことは0にはならない。無くなりなどしない。いつまでも現実の世界に残り続ける。様々に形を変え、色を変え、場所を変え、立ち込める靄の様に実態は無くとも確かに残る。その靄を振り払い打ち消す事が出来るのは生きた人間、その本人だけなのだ、大きな問題が有っても、無かった事には出来なくても、小さくすることや折り合いをつけて、抱え引きずりながらでも生きて行ける。だからハルトをここで死なせてはいけない。人は流れ、変わってしまう生き物だが、自分の意思で変わって行ける生き物でもあるのだから。

 レイは瞼の裏に閃光が走る程精一杯ハルトの体を支えた。ハルトを救う強い決意とは裏腹に握力と腕力は低下し、膝が笑い始めた。ハルトの体がレイの腕の中でずるッと下がる。

「ハルト君生きてよ!死んだらダメだよ!自分で上へあがって!」

 ハルトの体は全く反応を示さず脱力したままだ。

「生きろよハルト!逃げんなっ!償いたいなら生きて悔い改めろ!」

 レイは思わず叫んでしまった。ハルトの体が少し反応した気がする。それでも自分でロープを取ろうとはしない。確実にハルトの位置は下がってきている。少しずつレイの腕の中のハルトは軽くなっていった。それはロープに括られた首に掛かる力が増していることを意味している。

 ハルトのズボンの裾に噛み付いて持上げる。なりふり構ってなどいられない。けれどこのままでは何時か耐え切れず、支えきれなくなってしまう。そうなったらと考えてしまうと気持ちが萎え力が急速に抜けた。ハルトの体が大きく下がる。

 ダメ!ダメだ!死なせちゃダメだ!自分を鼓舞し折れかけた心を叱咤する。そして持ち直そうとしたその時、ハルトの体がレイの上にどさりと落ち、レイはハルトを抱きかかえる格好で倒れ込んだ。濡れた落ち葉が顔に纏わりついて視界を塞ぐ。

『あぁ私が力を抜いたから頭が取れたんだ!救えなかった!ハルト君が、ハルト君が死んでしまった』レイはそう思った。

 落ち葉を拭い、瞼を開くとそこには首の引き千切れたハルトの遺体が私の上に乗っている!そう考えると恐ろしくて現実を見る事が出来ない。今にハルトの千切れた首元から鮮血が湯水の様に溢れて私に降り注いで来るだろうと身を固くした。しかし、一向にそれは訪れない。代わりに聞こえたのはハルトの激しく咳込む音だ。

『良かった!生きている!』

 レイはハルトをそのまま抱きしめ、悪夢から目覚め夢であったのを確認するように息を吐いて瞼を開いた。

「二人とも大丈夫?」

「わぁあっぁぁ」

 見知らぬおじさんが木の上から見下ろしている。その姿は自然と天狗を連想させた。良く通る渋い声だ、天狗のおじさんは中指と一指し指に何かを挟んでヒラヒラと振っている。月光に時折光るそれは何かの蓋の様だ。

 おじさんの足元には先程までハルトが首を吊っていたロープが短く切れて揺れている。

 レイは状況が呑み込めず、何も言えずに壊れた人形の様に上下に頭を何度も振った。

 天狗のおじさんは枝から飛び降りると軽い音をたてて着地した。

「嫌でも順番が来るんだから、努力してまで死ぬ必要はないだろ」

 手にはカップ酒が握られている。開けたばかりなのだろう、なみなみと酒が満ちている。あそこから飛び降りて零れた様子が無い、どういう人なのだろうか、まさか本当に天狗なのではとバカな考えがレイの頭をよぎる。

 君頑張ったねと言う天狗のおじさんの手にはカップ酒とその蓋が指先に掛かっているだけで、ロープを切れる様なものを持っていない。どうやってロープ切ったのだろうと伺っていると、呼吸の落ち着いたハルトがレイの腕を邪険に避け、一瞥もくれずに膝をついて立ち上がった。

「ハルト君か!」

 天狗のおじさんは初めて表情を硬くし、ハルトを見つめた。

「まさか君だとは思わなかった。何の因果かこれもまた人生の妙だな」

 虚ろな瞳で顔を上げたハルトもまた相手の名を呼んだ。

「エジマさん?」

 どうやら二人は知り合いのようだ、よかった。レイは心強く思い、ようやく立ち上がった。手足が極度の疲労からフルフルと痙攣している。

 ハルトはレイを認識すると初めて気づいたのだろう、驚きの表情を露わにした。

「レイちゃん?どうして」

 レイに尋ねていると言うよりも自問するような言い方だ。レイが答えようとしたがハルトは返答を待たずに視線を外して踵を返した。

 まだ膝が笑っていて追い縋ることも出来ない。呼び止めようと息を吸ったが、先に声を発したのは天狗のおじさんだった。

「ハルト君、風呂に行かないか?」

 思いもしない誘いにハルトは足を止めたが、背中で答えた。

「行きません」

「行こう」間髪入れずにおじさんが返した。

「二人で行ってください俺は行かない」

 そう言い残してハルトは歩き出した。

 二人の中間位置でそのやり取りを聞いていたレイは焦っていた。知りもしない天狗のおじさんと二人で風呂になど行けないし、ハルトがこのまま車で何処かに行ってしまえば帰る足を失い、結局はおじさんを頼らざる得なくなる。どうにかしてハルトを引き留めたかったが何を言えばその足を止められるのか、見当もつかずにオロオロフルフルしていると天狗のおじさんが声を掛けた。

「君のお婆さんから伝言を預かっている」

 ハルトは歩みを止め首だけでこちらを向いた。月の落とす影がハルトの表情を覆う。

「風呂で話す」

 天狗のおじさんはにこりと笑顔で言い放つと反応を待たずにハルトとは逆の方向に踵を返して歩きだした。

 私とハルト君はその背を黙って追った。



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