第52話 レイとソウゴの出会い 2

 泣いている母を、あぁ私がちゃんと死んであげられなかったから泣いているんだ。そう思った。けれど母は私の顔を見て意外な事を言った。生きていて良かったと死ななくて良かったとそして私に御免なさいと泣いて詫びた。

「ウソだ」思っただけのつもりが音として口から出ていた。母の表情が険しく変わる。

「何が嘘なのよ!母親が子供の心配をするのに嘘が有る訳ないでしょ!今あなたが辛い事は分かるわよ、けれどそんな貴方を見ている私達だって辛いのよ!それなのに自殺未遂までして心配しない親が居ると思うの?何も感じないと思うの?」

 母は顔を覆って嗚咽を上げている。私はそれを見ても間違った事を言った気がしなかった。私が死ななかった事の何が良かったのか?こんな私を見ているのが辛いのであれば矢張り死ぬべきだったじゃないか、娘の死は確かに辛い事なのだろうけれど死の哀しみなど日々薄れて行き、そしていつか忘れる。一時的なことだ、私が生きていたら母は毎日私を見なければならない、その度に胸を痛める。その痛みは日々蓄積されてまるでゴムを焼いた黒煙の様に母の心を満たして光も届かないようにしてしまう。私が生きていれば私だけでなく、周りまで不幸にして行く。私だって母をどんな形でも傷つけるのは辛い。どうせ傷つけてしまうのなら一度で終わらせてあげたい。やはり死ななくて良かったとは思えない。

 病室へ母の取り乱した声を聞いた父が入って来た。

「レイ、目を覚ましたか」

 父は一度母の肩に手を置いて表情を伺い、直ぐに私に目を戻した。その表情には憤りが滲んでいた。

「何てバカな事をしたんだ、二度とするな!お前が死ぬ必要なんて無いだろうが!死ななきゃならない人間が居るのだとしたら、それはお前じゃないだろ!あいつらだろうが!」

 私は父の顔をしっかり見るのは久しぶりだなと的外れな事を考えていた。何一つ感情的なことなど胸に去来してきてなど居ないはずなのに、何故か涙が頬を伝っている。あれ、何だろうこれ。

 父の暖かく太い指が頬の涙を拭う、そして先程までと違うゆっくりとした口調で言った。

「レイだって本当は死にたくなんて無かったんだろ?見つけて止めて貰いたかったんだろ?だからあんな処で死のうとしたんじゃないのか、自分の気持ちに正直になって考えろ本当は死にたくなんて無い筈だろ?お前は生きていいんだぞ」

 父の横で母は祈るような格好で潤んだ瞳で私を見ている。父は続けた。

「きっと昔と同じには戻れない。レイも私達もだ、だからそんな事はもう望まない。だけど一つだけ、これだけは約束してくれ。レイ、生きてくれ!どんな生き方でも良い、何をしていても、何処にいても良い、ただ生きてくれ!生きていてくれ!自分の為に生きられないのなら、私達の為に行きろ、私達にはレイを見送るなんて役はとても耐えられない」そう言いながら父も泣いている。

 涙には不思議な力がある。悲しくて涙が出ることに科学的理由はまだ解明されていないらしい。私は、涙は心理的な作用に大きな役割を果たしているのでは無いかと思う。心に溜まった哀しみ・苦しみ・恨み・恐れ、そんな負の感情はタールの様に堆積して、決して自然には蒸発してゆかない。負のタールを唯一蒸留して体外へ排出して気化させる方法が泣くと言う行為なのだ。

 あの事件以来、思えば心から泣くのは初めてだった。なんでなんだろうと今の状況に照らして考えてみる。そっか、泣くには眠るのと同じ様にある程度の安心が必要なんだ。事件以来、毎日肩を強張らせて、歯を食いしばり必死で見えない敵と戦って来た。だから安心して心のままに泣くことが出来なかった。今は違う、忘れていた、私には家族がいるじゃん。今この瞬間皆がお互いを思って涙している。心のタールは涙に形を変えて頬を伝った、止めどなく。

『あぁそうか生きていもいいんだ、生きていたいんだ私』

 そんな当たり前の事が何時の間にかごちゃごちゃと考えなくては理解できないようになっていた。「もうしません」今言えること、今約束できる精一杯のことを約束した。

 退院の日、沢山の人が少しずつ距離を開けて座るロビーを両親の後ろに続いて抜けた。大きなガラス扉が左右に自動で開くと、湿った熱気が待ち構えて居たように纏わりつく。私はそこで初めて季節が夏なのだと気付く、陽の光の下に立つのは久しぶりだった。手を目元にかざして目を細める。沢山の見知らぬ人々が行き来している。もう怖いとは感じなかった。此処には戻らないと誓った。

 ジリジリと焼かれるアスファルトを踏んで進むと数十段の階段がある。淵に立って見下ろすと父と母の背中が随分と先に見えた。遠い所為なのか二人の背中はとても小さく見えた。小さな背中の二人は同じタイミングでこちらに振り返り、夏の日差しに目を細めながら同じ様な表情で私に微笑んだ。こんなに二人の顔って似ていたかなって思う。あの人達の為にも立ち直らなくちゃ、今はそんな風に前向きに思える様になっていた。

 足を踏み出す。二人の小さな背中を追って階段を駆け下りた。しかし体は自分が思っているよりもずっと鈍っている。イメージの体重移動と異なる足の動きの緩慢なこと。軽やかに階段を踏み進める筈の足は僅か三段目で躓き、勢いそのままに体が前空へと飛んだ。体が地面へと向かい下降を始めたそのとき、何かが服の背を掴み圧倒的に力で後方へと引き戻された。目で追いきれない程の勢いで景色が回る、気が付けば大きな男の人に抱かれていた。

 日焼けと言うには自然な褐色の肌、深い堀の奥で茶色い二つの瞳が見据えている。大きな肩に大きな腕、まるで子供の様に抱きかかえられている。背負った太陽が良く似合う人、そう思った。立ち直りかけているとは言え、本来肌を接する程人に接近すれば嫌悪感を覚え、それが男性であれば恐怖すら感じる筈なのに、不思議と冷静に観察している自分がいる。落下寸前の出来事に動転しているからなのか、自分が思っている以上に精神的に回復しているのか、それともこの男性が特別なのか、怖い・恐ろしいとは微塵も感じなかった。男は手首の包帯に目をやると、私の視線を捉えて「わざとか」と聞いた。

 見上げた男の表情は影になり、窺い知ることはできない、けれど目だけが深い影の中で優しく光っている。男の質問に答えられずにいると、男は癒えた動物を放つ様にゆっくりと私を地におろした。

「わざわざ死のうとするなんて馬鹿だな」そう決めつけて男は言った。

「生きる理由なんて考える奴は他にすることの無いよっぽどの暇人だ、今を必死に生きている人間はそんな無駄なことは考えない。生きるって事は、生きているってことだ」

 私には良く分からない事を言って男は背を向けた。その背は更に続けた。

「一生懸命に生きている人達が居る。その人たちの前で命を粗末にする様な事はするな。それは努力に唾する行為と一緒だ。理由なんて関係ない」

 そんなつもりは無いとその背中に言いたかった。けれどその大きな背は意外な事を言った。

「死ぬくらいなら、俺と来てみるか?」

 男は誰に言うでも無く、その場でそう呟くと返答も待たずに歩き出した。

 私は男の急な提案に困惑した。常識で考えれば付いて行く訳がない、見ず知らずの男、名前さえ知らない、知っているのは私を助けた事実とあの優しい瞳の光だけ。当然私は父と母の方へと足を向ける。しかし、一歩が踏み出せなかった、あの小さな背中にこの先の未来を想像してみる。あの家に帰り、あの部屋に籠り今までのような生活で私は本当に立ち直れるのだろうか、同じ過ちを繰り返しはしないだろうか、同じ環境に身を置き、立ち直り、何時か自立することが出来るのだろうか、何時か・・いつかって何時だろう、そのタイミングは誰が決めてくれるのだろう、時が来ても明確な合図なんてないのだろう、なら私は何時自分の足で立って歩き始めるの?

 急に今がこの先の人生を決めてしまう大切な岐路のような気がして来た。私はこの道を誤ればまた自ら死を選んでしまうかも知れない、もし次に自ら死を選ぶ選択をしたのなら、今度は誰の所為にもしたくない、私の為に擦り減り、小さくなった背中にこれ以上迷惑を掛けたくない、両親の所為にして死を選ぶことをしたくは無い。せめて今日の私を恨める選択をしよう、そう決意した私の足は九十度向きを変え名も知らない男の背を追っていた。それがソウゴとの初めての出会いだった。



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