第51話 レイとソウゴの出会い 1

 ハルトの運転する車は暫く山道を走り、開けた駐車場に止まった。

 入り口には看板があったが、この暗さでは読み取れない。エンジンが止まると微かに波の音が聞こえる。岸壁に打ちつけては散る、波のシンバル。

 運転席をラゲッジルームのレイはそろりと覗き込んだ。ハルトが闇の中でハンドルに突っ伏している。完全に出るタイミングを逸したレイは息を潜めて頭を下げた。

 まるでこの空間に一人で居るのかと思う程の静寂、定期的に波の音がしなければ時間が止まってしまったのかと錯覚してしまいそうだ。ソウゴにこの場所を連絡しなくてはと思うが、携帯の些細な音も光源もハルトに存在を気づかれる切っ掛けになりそうで使用を憚られた。徐々に室温が低下している。腰元の毛布を摘み上げて肩に掛けてくるまった。

 頭を出してハルトを覗き込む。先程と全く変わらぬ姿勢でいる、寒くは無いだろうか。

 レイは頭を下げると反転して腰を降ろし、シートに背を預けた。バックドアのウィンドウから外に目をやる。木々の合間から海が見えた。かなり下の方から海が地平線へと繋がる。

 崖の上にこの駐車場はあるようだ。月光が闇を掻き分けて海面に射す。波は光を振り払おうと身を捩る。光はその度に他の波へと移りながら留まる。安息の地では無くとも、そこ以外には頼る場所など無いかの如く。

 ハルトはどうしたのだろうか、何が有ったのかは分からなくとも、何かが有ったのは分かる。そして身も心も暗く冷たい場所に居るであろうことが雰囲気から知れる。同じ空気を纏っていた人間を知っている。

 それは、私だ。

 私だったから分かる。今のハルト君にかける言葉など無いことを、それでも一人にしてはいけないことを。どうしよう。

 レイは膝に顔を落とし、あの頃の自分を思い返した。自分の部屋に引き籠っていたあの頃を。

 

 ソウゴに出逢う前の自分ならこんな暗闇の中で誰かとジッとしている事など考えられなかった。昼夜を問わず灯りを灯して居なければ発狂してしまいそうだった。

 闇が嫌だ、怖い、恐ろしい、忌まわしい、憎らしい。人の持つ全ての負の感情が全てそこに詰まっている気がした。負の感情から闇が形成されていると思ってしまうほど、過剰に闇を避けていた。それに加え、一人で居る事も、誰かといる事も、どちらも耐えがたくその狭間で身動きが取れなくなっていた。一人で居れば孤独感に胸が圧迫されて呼吸が常に浅くなり、人と居ればどう思われているかが気になり、気になり出してしまえば最後は私を不潔なものとして見ている。厭らしい女だと思われていると脅迫観念に取り付かれ、歯が鳴る程に全身が震えた。一人で居る事が辛い、他人と居るのも苦しい。それは生きる事を我慢する日々。

 そんな生活にもささやかな救いの場は有った。

 それは浴槽の中、日が一番高くなる昼の時間に、優しく心地良い湯の中にゆっくりと沈み、浴槽の底に背を預け天井を仰ぐ。湯の中で屈折した光がユラユラと見える。その一時だけは安心できた。温かい羊水の中で母に守られている様な錯覚に浸れる。

 けれど肉体の限界が現実へと私を引き戻す。体内の酸素を消費した体は苦しみと言うシグナルを激しく送って来る。このまま死んでしまえば良い、今この苦しみに耐えれば心の苦しみから解放されるのだから絶対に顔を上げない。このまま死のう。そう決意していても酸素を奪われた脳は生きると言う本能にあっさりと屈服し、醜く追い詰められた獣のように浴槽の淵に体をもたれ、まんまと酸素を取り込まされてしまう、十分に酸素を取り込んで頭に浮かぶのはこんなにも死のうと思っていても、生きようとする本能の何て浅ましい事かと自己嫌悪に押しつぶされそうになる。いっそのこと押しつぶしてと泣いた。願った処で誰も押しつぶしてはくれない。殺してなどくれない。

 そんなことを繰り返していたある日、母の置き忘れたカミソリに目が留まった。その時の私の頭の中に母の声が聞こえて来た。

「何を毎日ちんたらとやっているの?これでサッサと死になさいよ」

 そう言ってカミソリを投げるように置き捨てる母の姿と冷たい視線が浮かんだ。

「うぅ、ごめんなさい。ごめんなさい。こんな私が生きていたら、居たら迷惑だよね」

 泣きながら震える手を伸ばした。掴み上げたカミソリは軽い、私の命と同じだと思った。

 手首に歯を当てて思い切って押し込んだ。皮膚に食い込むばかりで切れてはくれない。刃の形にV字にへこんだ皮膚を思い切り横に引いた。ツーと皮膚が簡単に割れた。ピンクの肉が開いて見せた。刹那鮮血が吹き上げ、続いてドロリドロリと腕を伝った。暫く浴槽に流れ込む鮮血を眺めてからいつもの様に浴槽に沈む。手から滑り落ちたカミソリが浴槽の底にフラフラと沈んで私に並ぶ。屈折した光がユルフラと揺蕩いながら色を帯びていくのを見た。

 次に目を覚ましたとき見知らぬ天井を見上げていた。ベッドの上、消毒液の匂い、手首には包帯が巻かれている。死ねなかった。顔を傾けると母の顔があった。

 泣いている。


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