第49話 父の語る事実

 あの日は久々に早く仕事を切り上げて家路についた。この時間なら久々に家族で食事が出来る、子供達と風呂に入れる。そんな事を考えていたのを覚えている。

 玄関を開くと夕食の匂いがしたよ、もう食べ始めているのだろうと思ったけど、いつもなら食卓から聞こえる話し声が一切しない。妙な違和感を感じた。玄関を上がると食卓には料理も並んでいない。まだコンロの上に鍋やフライパンに作られたままの状態で料理が残されている。不思議に思いながら皆の姿を探して寝室を覗くと三人は部屋の隅で蹲っていた。子供達はユキの膝の上に抱きかかえられている。

 近づいても誰もこちらに顔を向けなくて、どうやら子供達は寝て居るようだった。ユキの傍で腰を降ろすとユキは泣いていた。顔を歪めて滔滔と涙を流している。

「どうしたユキ?何があった」

 ユキは顔を上げるとごめんなさいと言って震える声で謝ったんだ。頬を濡らし、苦悶に満ちた表情。尋常ではないことが起きたのは明らかだった。

 子供達に何か?

 目をやると二人とも安らかな表情で寝て居る。

 ホッと胸を降ろす。

「何を謝っている?どうしたんだ」

 ユキは答えなかった。子供達を自分の胸に強く抱き直すと顔を沈めて呻くように泣いた。

「とにかく、こんなところに居ないであっちで話そう。皆寒いだろ」

 昼間の温かな空気はとうに夜気に奪われてしまっている。この部屋は酷く寒い。

 ユキの様子とは反して安心しきった顔で寝て居るハルトをユキの胸から抱き上げた。ハルトを抱く瞬間、ユキはビクリと大きく肩を上下させた。

 眠っている子供は本当に暖かい。まるで小さな春の分身を胸に抱いているようだ。

 ハルトを左胸に抱え右手をサクラに伸ばし、差し入れた。抱えようと腕を上げた瞬間。視界が霞む程胸が脈打った。

 サクラ?サクラに触れたのに、サクラに触れたのに、サクラの感覚がしなかった。まるでサクラの形をした何か別のものに触れた気になった。

 そのときの私は酷い顔をしていたと思う。目を見開きサクラを隅々まで観察したがそれは、サクラ以外の何物でも無かった。私が今触れているのは、私達の愛する娘。サクラそのものだった。けれど、この感覚は、この感触は、何だ。この手に触れるのは春の分身であり、暖かく柔らかいはずのサクラが、これじゃまるで、これじゃまるで。

 ・・・死んでいるみたいじゃないか。

 触れる者を拒絶するような冷たさ、硬さ、質感。

 もう一度サクラの表情を注視する。穏やかな顔だ。けれどその頬には朱はささず透ける程に白い。サクラの頬に手を添えると同時に私の頬に涙が伝った。

 刹那ユキに向かって叫んでいた。

「ユキ!何が有った!」

 ユキは私の右腕に縋ってごめんなさいと繰り返して泣いた。

 左の胸で寝て居たハルトが目を覚まし、スッと畳へ降りた。

「お父さん!お母さんを苛めないで!もう安心だから、皆で笑って暮らしていけるんだから」

 そう言って微笑した。

 はっ?何を言っている?何を笑っている?私は無性に腹が立った。この場にそぐわぬ態度に対し。その苛立ちはユキへと向いた。ただ泣き続けるばかりのユキの肩を両手で揺すり問いただした。

「何が有ったのかを説明しろ」

 ユキは曇った瞳に涙を湛え、私を見つめてやっとごめんなさい以外の言葉を口にした。

「あなた、ハルトが、ハルトがサクラを・・・」うわ言のように同じことを繰り返した。

 ユキの肩を掴んだ右手の甲にサクラの冷たい頬が触れた。左手の手の甲に温かな小さい手が置かれた。その手の主はお父さん大丈夫だよと、また微笑している。

 私は正直ゾッとしてしまった。その手を振り払いハルトの頬を張った。

「お前は何をした!何を笑っている!」

 怒りに任せて何度も腕を振り下ろした。ハルトは何故殴られるのか?そんな表情で怯えている。私はもう一度その頬を張った。

「何をしたのか分からいのか!」

 私はハルトが怖かった。まるでハルトの事が分からなかった。人間は分からないものが怖い。ハルトの皮を被った邪悪なものと対峙している。

 怖くて、怖くて、恐ろしくて何度も殴った。

 何度目だろうか、振り下ろした腕にユキがしがみ付いて止めた。

「もう止めて下さい。ハルトは悪くないの、私が・・・私が悪いんです」

 ユキは泣きはらした顔で懇願した。私の高ぶりが収まるまでそうして腕にしがみ付いていた。

『私が全てを背負って生きてゆきます。ハルトを許してあげてください』

 涙の後ろから強固な意志を持った瞳が私をみていた。

 私はもう、何も出来ずに熱く火照った右の掌を握って、ハルトを睨んでいた。

 ユキはゆるゆると立ち上がると電話に向かい受話器を上げた。

 電話をかけると「娘を殺しました」と告げた。

 私は何も出来なかった。夫としても父としてもその時の私は何も出来なかった。冷静に考えることが出来るようになった頃には全てが手遅れだった。


 「ユキは連行され、二人で話し合う時間もハルトの話を聞いてやる時間も無かった。私があのとき冷静であれば今、私達家族はもっと違う形で居られたんじゃないかと考える度に後悔するよ」

 ハルトの父は額に握った両手をぶつけ、その音は車内に鈍く響いた。

 ミズキもヒカルもソウゴも、ハルトの父の真実の告白に軽々しく口を挟むことは出来なかった。単なる親子喧嘩の理由では無い。ハルトの人生を変えてしまう真実だ。いや、もしかしたら終わりにしてしまうかも知れない程の事実だ。


「暫くしてから私は遺書を書いたんだ。その頃は今のお婆ちゃんの家で世話になり始めていた。二階の部屋を間借りしてね。私は迷っていた、流れのままにユキは罪を被って自首し、警察では育児に疲れて殺したのだと自供していた。小さな町で起こった子殺しの事件は大きく取り上げられて報道もされた。私は常に迷い苦しんでいた。

 これで良かったのだろうか、これが最良の方法なのだろうか、私はこれで良いのか、ここに居て良いのか、ハルトと居てやるのが私で良いのかとね。もちろん全てを公にすることも考えたんだ。けれどそんな事をしたらユキは私を許さかっただろう。それにハルトだってただでは済まない。既にユキの名前は報道された後だ、その後に実は息子が犯人であったと知れれば実名報道と変わらない」

 ハルトの父は痛みを耐えるように瞼をきつく閉じた。

「それでも、もし仮にハルトが罪の意識に苦しんでいるのなら、いっそのこと真実を世間に告げてその罪を償わせるのも良かったけれど、不思議とハルトはあの日の事を何も覚えていなかったんだよ、本気でユキがサクラを殺したのだと信じていたんだ。もしあの状態のハルトが社会の裁きを受ける事になっていたら、精神鑑定を受け責任能力、行為能力、証言能力を問われ最悪は精神疾病として強制隔離入院させられるかも知れない。そうなったら私達は同時に子供を二人も奪われることになる。そんなことを考えていると益々何が正しい事なのか分からなくなった。それどころか私がハルトを遠ざけようとする卑しい気持ちがあるのでは無いかと思える様になってきてね、ハルトを遠ざけるくらいなら私が遠くに行けば良い。私が犠牲になれば良いんだとその時は結論を出したんだ。だから私は死のうと思った、そして遺書を書いたんだ。娘を殺したのは私です。死んで償いますって内容だったと思うよ。ハルトはこれを見つけて読んだんだ。額面通りに受け取ったのだろうね」

 誰も口を開かない。

 ミズキ達三人の中に共通してハルトの家でハルトの父が犯人である証拠を探した日の事が想起された。もしかしたらあの日、ハルトは遺書を見つけたのかも知れない。私達がその切っ掛けを作ってしまったのかも知れない。

 沈黙を破ってミズキが尋ねた。誰に向けるべきか分からない怒りが含まれている。

「どうして遺書を処分しなかったんですか」

 ハルトの父は項垂れ、肩を縮めた。

「あの遺書は私の戒めなんだ。浅はかで軽薄な私がもう一度同じ考えを起こした時の抑止力としてのね。私があの遺書の内容を実行しなかった理由もそこにある」

 私はこの遺書を書いた後に妻に面会に行ったんだと語った。

 刑務官立ち合いの上での面会だ、私の考えを全てその場で話すことは出来ない。ただ、ユキに最後にさよならを言いたかった。こんな結果を迎えてしまったけれど、それまでの幸せな日々は彼女が居たからこそで、紛れもなく彼女が守ってくれていたものだった。ありがとうと言いたかった。

 ガラスを挟んで座り、ユキの瞳を見たよ。取り乱した様子も無く、ユキは何も言わずに私の瞳を見返していた。その瞳には一片の曇りも無く強い決意を湛える母の目をしていた。私をそれを見返すことが出来ずに視線を逸らして目を伏せた。私はそのまま別れの言葉を口にしようとしたが、押しとどめるように家族の思い出が喉を塞いだ。

 ユキとよく待ち合わせた駅のロータリーを

 ハルトが産まれた日の夜を

 サクラが産まれた日の朝を

 小さな手を繋いで歩いた夕焼けを

 食卓の賑わいを

 テーマパークでの歓声を

 思い出と呼ぶには余りにも些細な記憶達が取り留めも無く思い出された。

 玄関口で見送る三人の笑顔を

 布団を掛けた小さな肩を

 撫でた子供達の寝顔を

 風呂場から聞こえる歌声を

 ハルトが教えてくれたヒーローの名を

 サクラが並べていた人形を

 海にはしゃぐ三人を

 どんな過去にも戻れない。戻れないのなら過去など忘れてしまえれば良いのに。覚えてなどいるから残酷なのだ。何時の間にか視線を逸らしたまま、涙で震えていた。私は最後までダメな夫で、ダメな父のままだった。最後の別れの言葉すらまともに伝えることが出来ない。

「あなた」

 頭上で私を呼ぶ声がした。

 顔を上げると先程と変わらぬ真っ直ぐなユキの瞳があった。

「あなた、ハルトをお願いしますね」

 それだけ言ってユキは私をジッと見た。

 私達は暫く互いの目を見合ったまま何も語らなかった。いや、周囲にはそう見えていたのだろうが、私達はその時間の中で多くを感じ取り共有した。

 ときに沈黙は言葉よりも多くを語る。ユキの瞳はハルトに代わりここで罪を償いハルトを守ると言う確固たる信念と、あなたはあなたのやり方でハルトを守って行って欲しいと私に訴えた。

「私はあの日決意したんだ、ハルトのこれから選ぶ道、その全てを選択できるようにだけはしてやろうと、私が現実に打ちひしがれ人生に失望して立ち止まっていてはハルトも歩き出せない。私は言葉なんて上手くは無いから背中でハルトに示して行くしかないと思った。一生懸命に生きていく姿を見せて行こうと、そしてハルトがどんな進路を選択してもその金が用意できるようにはしておいてやろうとね。私はそうやってハルトを守って行こうと決意したんだ」

 

 「それからの私は仕事に没頭した。寝る間も惜しんで同僚の誰よりも尽力した。周りから見れば異常な程だったろう。誰よりも優秀であることを目指し、誰よりも仕事にひたむきに取り組んだ。

 そうやって社会的な地位を獲得して認められ、一目置かれることが、私がハルトに示せる唯一の父の姿だと思ってがむしゃらに働いてきた。

 けどね、私だって只の人間だ。少しずつ気持ちがすり減り、萎え、疲弊してゆく事もある。そんなときにあの遺書を開いてあのときの気持ちを思い返すんだ。そうやって自分自身を鼓舞して奮い立たせ初心に返り、また仕事に向き合うんだ。けれどそれこそが独りよがりで身勝手な行動だったのかも知れない、仕事に打ち込めば打ち込む程ハルトに前向きな影響を与えていると思っていた。父の背中を見せようと必死だった。けれどバカな私は後ろを振り返らずに走ったせいで何時の間にかハルトとの距離が声も届かない程に開いてしまっていた。私の方法は間違っていたのかも知れない。只ハルトに寂しい思いをさせて我慢を強いていただけなのかもしれない。何より私はハルトの為と言いながら仕事に逃げ、ハルトと距離を置く理由にして避けていたのかもしれない。そう思うとあの遺書はハルトから逃げる口実の為に手元に置いていた様なものだね、私はつくづく自分が情けない。しまいにはハルトに事件の真相を思い出させる切っ掛けになってしまった」

「ハルトは事件の事思い出しちゃったの!」

 思わずヒカルは叫んでいた。敬語も忘れて。

「あぁ、帰ってきたらあの遺書が転がっていたよ。ハルトにこれは何だって問い詰められた。私は答えられなかった。どう説明するべきか、何も言えずに居ると激昂したハルトの腕が私の首に延びた。ハルトになら・・・そう思ったよ、私の罪に対する罰を与えるのがハルトなら一番の適任だろうって、覚悟を決めて目を閉じた。しかし、ハルトの手は緩み、そして聞こえたんだよ『俺なのか、サクラを殺したのは』とね。その先は君たちの知っている通りだよ」

 

 誰も二の句を継げられなかった。

 何時の間にかまた雨が降り出している。

 タイヤがアスファルトの継ぎ目を乗り越える音が鼓動の様に車内に響く。窓ガラスの雨粒は拭っても、拭っても鳥肌の様に粟立つ。外闇はしんしんと纏わり付き空気を重くする。誰もが視線を外して黙っている。車は山間を進んで行く。裾野の先には闇がうねっている。海だ、車内からは見えない、それでもあるのだ、気配がする。

 ミズキは考えていた。私達はこれから何をするのかを、自ら命を絶つ恐れのあるハルトを止める。そんなことは分かっていたけれど、それがハルトを救うことに成り得るのか、何が出来るのか、ハルトの背負っている物の大きさを知り、その重さは想像を絶する。私達が行った処でその重荷を下ろしてあげられるのか、せめて少しでも軽くしてあげることが出来るのか。


 自然とアクセルを踏む足が鈍る。

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