第42話 サクラはなぜ、死んだのか 2

 玄関を上がると母さんの背中が見えた。夕食の支度をしている。

 母さんの手の動きに合わせて包丁がまな板を叩く小気味よい音が続く。どうしてだか、暫く聞いていたくて声を掛けずにその背中を見つめて耳を傾けた。表情は伺えないが機嫌が良さそうだ。

 そう言えば、いつもなら人形を並べたりして遊んでいるサクラの姿が今日は見えない。

「ただいま」

 驚かせてやろうと言う気勢の乗った声はいつもより自然と大きくなった。

 あっと驚いた表情の母さんが振り返った。直ぐに表情は優しい笑顔に変わり、しーっと言って口の前で人差し指を立てた。その表情がまた嬉しそうなこと。

 エプロンで手を拭いながら僕に近づき、母さんは声量を落して言った。

「おかえり、何時の間に帰って来てたの」

「さっき」

「全然気が付かなかった。今ね、サクラが珍しくお昼寝してるのよ凄いでしょ」

 和室を指差している。

「昼間暑かったからビニールプール出したの、そしたらサクラ気に入ったみたいでね、ずーっと水遊びしててね、夢中になって遊んでるから終わりにするの大変かなって思ったんだけどね素直に止めてくれてさ、気づいたら一人でお昼寝しちゃってて、お母さんビックリ!」

 母さんは本当に嬉しそうにまるで少女のように身振り手振りを交えて、僕に今日の出来事を話してくれた。

 母さんが嬉しそうにしていると僕もうれしい。ずっとずっとこんな毎日が続けばいい。僕が守り、維持しなければならないのはこんな時間だ。

「静かにしてあげてね」と言って母さんは夕飯の準備に戻った。

 僕はランドセルを降ろすとサクラを見に行った。そっと和室を覗き込む。夕日の差し込み始めたこの部屋は、優しいオレンジの光に包まれている。蒸された畳の匂いが香しい。

 母さんがあんなに喜ぶのも無理はない。サクラは最近、昼寝どころか夜もなかなか寝付かない。何時までだって遊んでいようとする。僕と父さんには先に寝るように勧め、いつも母さんがその相手をしている。けれど母さんの心労の元は自身の睡眠不足には無く、只々サクラの体調を心配している。幼少の極端に少ない睡眠時間。それがサクラに与える負担のことを。だから昼寝をするサクラは喜ばしい事と感じるのは共感するが、昼寝をしてしまっては夜は更に寝ないのではと僕なら打算的に考えてしまう。さっきの母さんの表情にそんな考えは一抹も無く、サクラが眠っている事実に純粋に喜んでいた。

 サクラが寝て居る。忍び足で寄るとサクラの横に腰を降ろした。柔らかく握った両手。ぽかりと開けたままの口。安心しきっている。可愛い僕の妹。サクラが産まれて、初めて病室で会ったときと寝方は変わっていないなと当時を思い出した。あの時もこんな感じで穏やかで、幸せが光と共にあった。

 けれどサクラはまだ何も知らない、この世界は悪意で満ちている。この家から出れば、いつかこの世界がサクラに牙を向ける、爪を立てる、そして身も心も切り付けるだろう。そのときに僕はサクラを身を挺して守ってやれない。その場に居てやれない。

 サクラの胸にそっと左手を乗せた。小さな胸が僕の手を乗せて小さく上下する。薄い衣服を通して温もりが手の平をのぼる。手の甲にそよ風のような鼻息が胸の動きに合わせて当たる。


 ハルトの表情がその場に不釣り合いに不安に陰った。


 そんな世界を知らずに居て欲しい。何時までもこの安らかな顔のままで居て欲しい。


 乗せた左手の上に右手を重ねる。


 僕がサクラを守りたい。サクラが哀しみを知り、この世界に翻弄され絶望する姿を見たく無い。


 重ねた両手の上に身を乗り出す。


 世界を変える力は僕には無い。世界も勝手に変わってはくれない。


 サクラの胸の動きに合わせて体重を加える。     

     

 このまま、幸せな時間のまま時を止めてしまいたい。


 前の呼吸よりも今、今の呼吸よりも次、徐々に体重を乗せていく。サクラの表情は変わらない。


「サクラ、安心して寝て居てね。誰にもサクラを傷つけさせやしないから、お兄ちゃんが守るから」




 そして、何時の頃か重ねた両手はもう上がっては来なくなった。小さな寝息も、もう聞こえない。サクラの表情は先ほどまでと何も変わらないのに。ハルトはサクラの胸に手を乗せたままいつまでも、いつまでもその顔を見ていた。じっと動かない二人の横顔を西日がなめて行く。

 どれだけ息をつめていたか、ハルトはあぁっと息を吐いた。

「サクラ、これで安心だよ」

 ハルトの下で安心した表情のサクラに呟いた。サクラに反応はない。

「夕飯の用意が出来ましたよぉー、ハルトーサクラ起こしてくれる」言いながら母さんの声が近づいてくる。

「ハルト?なにしてるの?」

 ハルトが振り返ると、母が恐る恐るこちらを見ていた。

「母さんもう大丈夫。何も心配いらないよ」

 そう言って微笑むハルトとは対称に母の顔は凍り付いてゆく。

 ハルトの態勢をみて二人に駆け寄った。

「ハルト早く降りなさい!何をしているの!」

 ハルトを突き飛ばすように降ろした。

 母はサクラが呼吸をしていないことを知ると青ざめた。

「ああ、何てことを!どうしてなの、どうして」

 一心不乱に人工呼吸を始めた。

「サクラ戻ってきて、お願い!お願い戻って!」

 泣きながら髪を上下に振り乱して心臓マッサージを繰り返す。

「止めなよ母さん、サクラが起きちゃうよ、安心して寝て居るのに」

「何を言っているのハルト!自分が何をしたか分かっているの!」

 止めようと出したハルトの腕を母は振り払った。ハルトはそのまま尻餅をつくと母を茫然と見つめた。

「母さんどうして、もう泣かなくても良いのに、泣かなくてもいいのに、それなのにどうして泣いているの?」

 母の耳には届いていない。

 サクラは目を覚まさなかった。僕は安心した。けれど母さんは泣いている。サクラを胸に抱いて頬を摺り寄せて何度も何度も頭を撫でて泣いている。サクラは母さんの腕の中で穏やかな顔をしている。僕は尻餅をついたまま混乱してそれを見ていた。どうして母さんは泣いているのだろうかと。

「母さん、どうして泣いているの?サクラは安心して寝てるよ、ずっと安心したまま寝てられるよ、誰もサクラを傷つけないよ、これからは母さんもサクラのことで隠れて泣かなくて良いんだよ。僕がサクラを守ったんだよ。約束したよね母さん。僕がサクラを守るって」

 母は切実に訴えかけるハルトの言葉にハッと手を止め顔を上げると、息子の表情から全てを悟った。ハルトの愛と苦悩を、この行為の意味を。ここに居るのはただ純粋に優しい息子と弱い母。一時でもハルトに憎しみを向けた自分を恥じた。ハルトに手を伸ばすと強く抱き寄せ、頬を合わせた。

「ごめんねハルト、お母さんが弱かったからだね、だからあなた達がこんなことに・・・お母さんのせいだね」

 大粒の涙を溢しながら、何度もあやまり、ハルトとサクラに頬を摺り寄せて泣いた。

 僕は母さんに抱かれ、サクラと同じように安心して瞳を閉じた。母さんの声はもう耳に入らない。何も考えずに眠りに落ちた。もう心配無いよ母さん。何も、何も・・・

 暫くすると怒気を孕んだ声に目を覚ました。目を向けると部屋の前で母さんと父さんが口論している。身を起こしてその様子を傍観していると、サクラを抱いた父さんが僕の前に腰を降ろした。父さんは怖い顔をして何かを言っている。けれど僕は、まだ夢の中にでもいるような感覚で、父さんの声が耳の中で反響してぼわぼわと音に成らない。何かを言われているが、何を言われているのか分からずにいると突然頬を張られた。今まで一度だって手を上げられたことなど無かったのに突然向けられる暴力と権幕に鬼に出会ったかのように怯えた。原因を探ろうと肩を竦めて周囲を観察するが見当たらない。家の中は至っていつもと変わらない。父さんの腕の中のサクラは安心した表情で眠っている。僕は何を怒られているのだろうか。何も悪い事などしていないのに。

 母さんは何で泣いているの?父さんは何を怒鳴っているの?

 僕は耳の中でぼわぼわと反響して、ただの無駄なノイズになってしまう声が嫌で両手で強く耳をふさぎ、目の前の不可解な事態が呑み込めず目を瞑った。塞いだ手を引き剥がそうとする父さんを振り払って床に突っ伏した。僕が何をしたの!何が起きているの!

 身を固くして耐え、どれだけの時間が過ぎて行ったのか。

 

 

 全身が湿っている。耳を塞いでいた両手を降ろすと何も聞こえない、冷たい静寂が漂っている。瞼を開けど光は無い。畳から額を放し、中空を睨むが何処にも光は無い。降ろした指先にじっとりと重たい畳の感覚が触れる。不意に室内の黴臭さに気付く。俺は、俺たちの住んでいた部屋に一人膝を落していた。

「ううぅううぁぁああぁ」

 悔恨の念が食いしばった歯の隙間から情けない声と共に漏れる。

「全部、全部俺がしたんじゃないか、何でこんなこと忘れてたんだよ、うぅう何でこんなこと忘れられるんだよ!ぐぁあーー」

 自己を否定し消し飛ばす勢いで叫んだ。畳に何度も額を叩きつけ不具な頭を呪った。

「俺がサクラを殺した!俺が母さんを囚人にした!俺が父さんも殺そうとした!俺が婆ちゃんを騙し続けた!俺が家族をばらばらにしたぁぁぁあ」

 額を打ち付ける重たく湿った音が真っ暗な室内に響いては吸い込まれる。自己防衛の為か都合の悪い事実を隠匿し今日まで家族全員を犠牲にして生きてきてしまった。意義のある時間であればまだしも、無為に生き、時には自分が犠牲にした家族を、自分を犠牲にしたと恨みすらした。そんな原因を作った不具な頭などどうにかなってしまえと強かに打ち付けるがその行為を物ともせず機能を止めず、自身の意思に関わらず次々と過去の日々を脈絡無くフラッシュバックさせる。

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