第41話 サクラはなぜ、死んだのか 1

 正直、ものをあまり知らない子供の僕から見てもサクラの行動は奇妙に映った。人形の並び方や色分けに異常な程にこだわったり、他の子供と一切一緒に遊ばない姿はやはり何処か他の子供とは一線を画すものがあった。しかしそれもサクラの個性で自然な事なんだと僕はそう思っていた。そう思い込もうとしていた。

 ある日、涙を浮かべた母さんが

「ハルト、サクラは少し普通の子とは違うの。自分の気持ちを上手く表現出来なかったり、お友達の気持ちを汲み取ったりすることが苦手な病気なの。だからねハルト、きっとこの先それが原因でサクラが辛い目に会うことがあると思うの、その時にハルトが近くに居たならサクラを守ってあげてね。サクラを救ってあげてね」

 そう請われ、その頬を伝うものを見て、サクラを否定出来ない。させはしないと心に熱いものが宿るのを感じた。

 婆ちゃんは言っていた。女の涙には男の行いや態度を自省させる効力があるのだと、それが母ともなれば習慣と思想を変えてしまう位のことは容易い。ニュートンが木からリンゴが落ちるのを見て、万有引力の存在を理解したように、僕は母さんの涙が頬を落ちるのを見て自身の存在理由とサクラの社会的立場を理解した。

 それは頭で理解したと言うよりも感覚的な理解だ。理論や理屈なんて知らなくても低いところよりも、高いところから飛ぼうとすれば痛そうだと分かるのと同じだ。

 母さんが言わんとするサクラを待ち受けるネガティブな未来が想像できてしまった。少なからずサクラは、この社会で健常者達と生活を共にすれば疎まれ、蔑まれ、時には暴力に晒されることがあるかも知れないと言うことを。

 僕がサクラを守ることが、母さんが笑顔で居られる方法なんだ。それが僕に与えられた使命なんだ。この世に生を受けた理由なのだ。

 けれど、生まれた強い使命感とは裏腹にどうしたらサクラを守れるのか、何から守ってやれば良いのか、守らなければならない場面に出くわしたときに、どう対処すれば良いのか、それらを模索することはまず、さくらがどんな場面で疎まれ、蔑まれ、暴力に晒されるのかを想像する行為だった。

『世界』の概念は人によって様々だ。僕ら小学生にだって世界は存在する。クラスメート、教師、教室、小さな世界だと思うかもしれない。けれど僕らには立派な世界だ。僕らの世界の中だって、大人の世界同様に様々なことが起こる。その全てにサクラだったらと想定して生活をしてみた。するとこんな小さな世界にも悲しみが溢れていることに気付く。

 昨日まで仲の良かった女子グループから一人、理由も明かされず省かれ、対話の機会すら与えられない子。

 配布物をいつも投げ渡される子。

 触れるとうつると感染症でもあるかの様に避けられる子。

 人の荷まで負わされる子。

 いつも一人の子。

 教師の付けた心無いあだ名。それを笑うクラスメート。

 喜びの渦中にだって哀しみはある。

 クラスメートが皆喜びを共有する中、サクラはその理由が分からないかも知れない。一人歓喜の輪に入れずに戸惑うかも知れない。そんなとき、どんな顔をしてこの教室にいるの?孤独は一人で居るときよりも、大勢で居るときの方が強く感じるものだ。こんなにも哀しみで世界は溢れている。

 視界に入っているはずなのに、誰もその現実にピントを合わせて見ようとしない。自分の振る舞いが哀しみの影を落としていることに気付かない。笑っている彼等が人間なら哀しみを受ける側はまるで地を這う虫だ。誰だって歩くときに地を這う虫の存在なんて配慮しない。それと同じだ、例え虫に言葉があるのだとしても人間には届かない。視線と言語が違うのだ。

 つまり、世界は平等になど作られていない。届かない声も、気づかれない弱者も、彼らにとっては無いに等しいのだ。

『この現実からサクラを守りたい。守らなくちゃ』と思いだけは強く、強く、強くなっていく。けれど、方法が分からない、手立てが無い。分かったことは一つだけ。


 僕は無力で、サクラを守れない。


 目にする哀しみの場面をサクラだったらと置き換えて想定してみたが、常にサクラと行動を共にしていなければ、サクラに降りかかる哀しみの飛礫は払えない。常に一緒に居る事は・・・無理だ。誰か僕に代わってサクラを守ってくれる人は・・・現れないだろう。サクラを家から出さないことは・・・幸せなことなのだろうか。

 少ない知識で思案してみるが、浅はかなアイディアしか浮かんで来ない。僕が思いつく様なことは、僕自身で上手くは行かないと否定出来てしまう事ばかりだ。

 この小さな世界の中にあってすら、尚小さな存在の僕は机に俯せ、頭を抱えこんでいた。最早サクラを守る方法など微塵も浮かばなくなっていた。只々、サクラが哀しみに耐える表情ばかりが脳裏にちらついている。


 その時だった。教室の後ろで机がぶつかり倒れる音と、呻き声、それに下卑た歓声が同時に聞こえた。思わず振り返ると、数人の男子生徒に囲まれ、その中心で倒れた机に折り重なるようにしてヒカルがいた。起き上がろうとしたその背中を男子の一人が蹴り飛ばした。

「気持ち悪いんだよ、このおかま!」そう言いながら、立ち上がろうとするヒカルの背をその度に蹴り飛ばす。

 ヒカルは目を赤くして唇を震わせながらも、泣かないように必死で耐えている。

 蹴り飛ばしたのとは別の男子がヒカルの髪を鷲掴みにした。

「何で女みたいに髪を伸ばしてるんだ、俺が男らしくなるように切ってやるよ」

 床に落ちている鋏の位置へヒカルを引きずりながら向かって行く。すると野次馬の女子が鋏を蹴って寄越した。鋏は床を滑ってヒカルを引きずる男子の足元で止まった。鋏を拾い上げると、周囲に見せつけるようにゆっくりとヒカルへ向けた。

 自分へ近づく鋏を目の前にすると、先程まで健気に耐えていたヒカルはいよいよ耐え切れずに泣き出した。大粒の涙をこぼしながら、何度も何度もごめんなさいと訴えている。

 ヒカルを囲む男子生徒達はそれが面白くて仕方がないと腹を抱えて笑っている。その笑い声に助長され、ヒカルの髪を鷲掴みにした男子生徒はクラス中に聞こえる声量で叫んだ。

「これからこいつをボーズにしてパンツ脱がすけど、どんなチンチンが付いているか見たい奴いるかー」

 ごめんなさい、許してくださいとヒカルは許しを請い続けているが、そんな言葉に彼らを抑制する効力は全く無く、逆にヒカルを支配する立場にあると彼らを勘違いさせただけだった。

 他の生徒達は傍観に徹したり、便乗して嘲り笑っている。

 子供は敏感で残酷だ。どんなに汎用を装い、どんなに一般のふりをしていても微妙な差異を見分け、普通で無い者の匂いを嗅ぎ分ける。どれだけ上手く隠れていても優秀な麻薬犬の様に見つけ出し、噛み付いて引きずり出す。そして新しい常識をその場で作り出してしまうのだ。引きずり出されたこいつは皆の共通の敵であると、共通の敵を得た仲間意識から絆を強め、共通の敵をお互いに責め、同じ罪を背負う事で自分が敵として標的にされるのを避け、身を守って行くのだ。

 今、僕の目の前で繰り広げられているのはその瞬間だ。僕にこの世界の常識を変える力など無い。現実に目を背けて自分に火の粉が飛ばないように身を屈めるだけの卑怯者だ。そんな僕にサクラを守れる筈がない。

 横目に鋏を向けられて、泣きながら倒れた机にしがみ付くヒカルを盗み見た。鋏を入れようとするのを必死に抵抗するが振り払われ、数人に取り押さえられた。頭を振って抵抗するが鋏を持った男子生徒は構わずに鋏を閉じた。目の前を落ちてゆく自分の髪の毛にヒカルは顔をクシャクシャにして泣いている。頬の涙に切り取られた髪の毛が張付いている。

 見るに耐え兼ね、視線を逸らそうとした刹那、乱れた髪の隙間から助けを求める視線が僕を射抜いた。僕は動けなくなり、時間はスローモーションのように流れた。

「もうやめて下さい。ごめんなさい、ごめんなさい」と泣きながら懇願するその顔はサクラだった。

 サクラの口がゆっくりとうごく「ハルゥ」

 僕を呼んでいる。サクラがお兄ちゃんを呼んでいる!僕が守らなきゃいけなかったのに!僕じゃなきゃダメだったなに!母さんとの約束だったのに!

 僕は叫びながら走り出していた。

「サクラになにしてんだーーーーー」

 鋏を持った男子生徒に突進し、揃って床に激しく倒れた。その拍子に男子生徒の持っていた鋏がハルトの左頬をえぐって抜けた。白い肉が見えた次の瞬間、鮮血が汗の粒の様に膨れ、直ぐに表面張力の限界と同時に傷口からなだれ落ちた。

 突然の事態に茫然とする男子生徒に構わず、ハルトは馬乗りになると場所など構わずに拳を振り下ろした。目が有ろうが、鼻が有ろうが、手で防いでいようが関係なかった。構わずに殴り続けた。拳に痛みなど感じない。

「なんでサクラがお前に謝らなければならない!なんでサクラがお前に許しを請わなければならない!サクラが何をした!お前等は何様だ!」

 異常な光景に周囲がハルトを引き剥がそうと掴んだが、ハルトは邪魔をする相手も殴り飛ばして止めなかった。

 僕は止めない!こいつが、こいつが、こいつが動かなくなるまで殴り続けてやる!こいつなんて死ねばいい!

「ソウゴこっちこっちー」ミズキが教室の入口で廊下を走ってくるソウゴに向かって両手で手招きした。

 猛スピードで走って来たソウゴがミズキの手前でドリフトしながら直角に曲がるとハルトの暴れる教室へと駆け込んだ。勢いそのままにハルトを引き剥がそうとする取り巻きの一人にドロップキックをお見舞いする。相手は教室の中央から隅のロッカーまで跳ね飛んでぶつかった。ソウゴは何事も無かったように着地した。別の取り巻きがソウゴに飛び掛ったが、袖を取ると楽々と背負い、床に叩きつけた。ソウゴが数人の取り巻きを蹴り散らすとミズキが駆けて来て言った。

「さすが外人は強いわ、まぁソウゴを呼んだのは私だから偉いのは私だけど」

 言い方に遠慮が無く、威張ってさえいる。

 ソウゴとミズキはハルトに視線を移した。引き剥がそうとする取り巻きが居なくなり、遮られることなく拳を振り下ろし続けていた。その表情はまるで鬼だ。殴られる男子生徒は顔を腕で覆って何とか防御しているが、その顔は赤く腫れあがり大量の鼻血が頬を伝っている。それでもハルトはその手を休めようとしない。

 その背に駆け寄ったのはヒカルだった。ハルトに縋ると、腰に腕をまわして引き剝がした。ハルトは抵抗しながら蹴りを入れ続けている。

「ハルト君もういいよ!もう止めて!それ以上やったら死んじゃうよー」

 その声をハルトは何処か遠くのことのように聞いていた。

(あぁ、サクラが泣いている。僕が守れなかったから泣いている。)



 この日の記憶を僕はいつの間にか自分の中に封印してしまった。サクラを守れないと言う現実の敗北感と、それに抗おうとする気持ちから生まれる焦燥感へとすり替えて。

 次々と封印していた過去が記憶として蘇り、長いデジャビュとして再現されて行く。答えは全て自分の中にある。しかしまだ、核心へは到達していない。


 それはこの歩を進める度に一歩づつ蘇るのだろう。

 俺は玄関に足を踏み入れた。

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