第39話 数時間前の出来事と真実

 長かった。


 この家に帰ってくるまでの日々がとても長く感じていた。しかし、帰って来て振り返ると婆ちゃんが死んでもう一週間が過ぎてしまっていた。

 時間は過ぎれども死を受け入れ、区切りなどと言った気持ちの整理を付けられない。葬儀などの儀式的な慣習で故人を送って区切りを付けられるのは他人だけだ。残された遺族には何時までも喪失感が付き纏う。時間が滴り、喪失感を薄めては行くが完全には無くならない。パレットにこびり付いた絵の具のように、洗い流しても何時までも痕跡として存在し続ける。パレットそのものが無くなるその日まで。

 婆ちゃんの病院で使用していた荷物と俺が無駄に買って行ったゴミ同然の子供用品を食卓に投げ出して腰を降ろした。

 叱られないとはこんなにも空しい事かと気づく。婆ちゃんが居たらこんな荷物の置き方は許されない。必ず怒声が飛んできたのに、俺は何を試しているのかと輪をかけて寂しくなる。

 いつも向かい合って食事をとった食卓に一人。

 嫌だなと思う。家は家族を内包し、家具と家電と雑貨がその家族の形を形成している。俺と婆ちゃんが居るべくして用意し、整えたものだ。だからそこに居ない人をハッキリと空いた空間が浮き彫りにしてしまう。その空間が涙を誘う。堪らず席を立つと自室へと逃げ込んだ。

 敷いたままの湿った布団に潜り込むと久しぶりにゆっくり眠れる気がした。

 ハルトは頭まで布団を被って目を閉じた。

「婆ちゃん俺疲れたよ」呟いて眠りに落ちた。


 眠りから覚めると雨の音に気付く。大分強く降っているようだ。薄目で伺うと室内は暗い。暫く寝て居たようで夜が来ていた。

 家の中の気配を伺うが誰の気配も無い。だろうなと思うけど正直がっかりする。頭上の読書灯を灯すと目を細めた。畳の上に投げ出した封筒がある。父さんの遺書。

 そうだ、これが有ったのだ。この遺書について何も答えを出せていなかった。

 相談しようとした婆ちゃんは逝ってしまった。書いた当人は一向に帰って来ない。婆ちゃんの居なくなってしまったこのタイミングで何故俺だけこんなものに悩ませられなくてはならないのか、なぜこんなタイミングに俺は一人なのか。考えだすと思考は一線に定まらず拡散してしまう。自身でも心のベクトルを何方へ向ければ良いのかも分からない。悲しいのか、憤っているのか、淋しいのか、不安なのか、その全てであるような、その全てが当てはまらないような気持だ。言い表そうと観察した瞬間に手を摺り抜けて別のものへと変質してしまっている。ただし、一つだけそのどれもに共通しているのは陰鬱なものであるということだ。


 気が付けば瞬間の衝動に任せて遺書を握りつぶしてタンスへ叩きつけていた。そして布団に俯せに潜り込み、拳は強く握りしめ、両足をバタバタと布団に蹴りつけて暴れた。まるで布団の中で溺れているかのようだ。そうやって考えた。この遺書を自分の中でどう捉え解釈するべきか、心のベクトルを何方へ向けるべきか。考えて考えて考えて考えて考えて。そしてハルトは考えるのを止めた。

 沸き起こる感情を抑えるのを止めた。感情を制御しようとするのを止めた。実際は止めるなどと自主的な行為では無く、諦めたと言う表現の方が正しい。もう限界だった。

 沈む下などはもう無い。深く暗くヌメヌメと嫌なものが体積した底に背が触れた。底に留まると次第に照度が低下してゆく。暗く、暗く、真っ暗く。視界を塞いで行く。入り込もうとする光を吸収する闇だ。心底に横たわるハルトに沢山の闇の粒が降り注ぎ堆積してゆく。闇の密度を上げる。圧縮された闇はタールのように粘度を持ち液化し、そして発火した。周りの闇を延焼させながら激しく燃える。燃やし尽くすことの出来ない圧倒的な闇の堆積。心の入れ物自身をも焼き尽くす程の勢いで。


 そのとき玄関を開く物音が室内に響いた。扉が開かれ、靴を脱ぐ音がする。足音が近づき居間に入った。

 ただいまと呟く程小さな声が響く。父さんの声だ。

 闇の粒は大きくなって降り続いている。布団に俯せたまま息を殺した。

 居間の隣がハルトの部屋だ、居間からは自然とハルトの布団が見える。ハルトの布団へ足音が近づく。タンスの辺りで足音が止まる。紙を拾い上げ広げる音。

 あの遺書だ。

 刹那焦る気持ちが沸き上がるが思い直す。俺が慌てる必要など無い。俺が遺書を見たことが父さんに知れたって、そんなことは構わない。隠す必要など無いんだ。逆に聞いてやらなくてはならない。この遺書は何なのかを、俺には真実を知る権利がある。罪を償っている母さんや働いている父さんだけじゃなく、俺にだって二人の知らない苦労があった。口に出せない我慢だって沢山して来た。せめて真実を知ることだけは我慢したくない。

「父さん」

 体制を変えずに布団の中から呼びかけた。

 直ぐに返事が無い。その間に父さんの動揺を感じる。

「ハルト、ただいま。起こしたか」

 直ぐにでも愚痴、誹謗、讒謗ざんぼう、とにかく思いつく全ての言葉で罵りたい気持ちを抑えて返事をした。

「起きてた」

「そうか、お婆ちゃんの葬儀に間に合わなくて悪かったな。腹減ってないか?なにか」

 言葉を遮ってハルトが布団を剥いだ。

「父さん!」

 起き上がると父の顔を見据えた。また少し痩せただろうか。会うたびに小さくなっていく。俺を見る父さんの目は何だか悲しそうな瞳をしている。しかし俺はそんな事ではほだされない。悲しそうな瞳をねめつける。

「それは父さんが書いたんだよね。一体何」

 父の手の中で草臥れている紙を視線で指す。

 悲しそうな瞳を逸らすと只、すまんと言った。

「すまんって何だよ!説明になってないだろ!」

 鋭い語気を逸らした横顔へぶつける。

「本当なのか、これに書いてあることが真実なのか」

 距離を詰め、父の肩を掴んでタンスに叩きつけた。その体に抵抗の力は無く、されるがままだ。骨ばった細い肩を強かに打ち付けても父は瞳を伏せたまま声すら上げない。

「ねぇ父さん。父さんが殺したの?サクラを父さんが殺したのかよ!」

 問い掛ける度にタンスに打ち付けるが父は何も言おうとしない。

「何か言えよ、言ってくれよ、ちゃんと説明してくれよ!」そう怒鳴っていた。

 また、すまんっとだけ言った。

「何でちゃんと説明してくれないんだよ、書いてあることが真実だから謝ることしか出来ないのかよ!」

 両手で襟首を掴み、更に強い力で叩きつけた。 何度も何度も繰り返し叩きつけた。

「書いてあることが真実なら、何で父さんは生きているんだよ・・」

 襟首の両手が父の首に回る。やっと正面を向いた父とハルトの視線が交わるが、ハルトの視線は父を捉えずあらぬ中空を彷徨っている。

「書いてある通り死ねよ、父さんも死ねよ」

 ハルトの両手に徐々に力が籠る。父の顔に青筋が浮かぶ、赤く潤んだ悲しげな瞳がゆっくりとハルトの顔を記録するように上から下へと動き、そして静かに閉じた。

 ----あぁ、穏やかな顔だ。まるで眠っているように穏やかな顔----

 そう思った刹那、脳を頭蓋から引き剥がそうとするかのような激しい痛みが襲う。厳重に密閉された管をバールのような道具で乱暴に無理やりに抉じ開けられているようだ。脳のあちこちにバールを差し込まれる。激痛に耐え切れず締めていた両の手を放して頭を抱えた。後ずさり、足元に目をやると、そこにサクラが寝ている。いいや、死んでいる。自分でも何故そうと分かるのか知れないが、サクラは眠る様に死んでいる。

 現実と抉じ開けられた脳管の中に厳重に閉じ込められていた記憶の風景が重なる。

「ああああああああああぁあぁあああぁああああああああ」

 何なんだ、何が見えているんだ、俺はどうなっている!両の手はブルブルと震え言うことを聞かない。視線の先のサクラは消えている。目の前では父さんが激しく咳込んでいる。

 父さんを殺そうとしてしまった。両の手の震えは激しさを増して行く。

 父さんを・・・サクラを・・・

 手の震えは全身に及んでいた。

「あああ・・俺なのか・・あぁぁ・・・俺が・・」

 走り出し、逃げた。靴を引掛けると、どこをどう走ったのか分からない。開け放たれ、滴り落ちて纏わりついてくる記憶を振り払う為に全力で逃げた。俺の知りたいことは全て俺はもう知っていたのだ。全ては既に頭の中にあり、厳重に封をされていた。開けてはならないそれは、今開かれた。それは引き裂かれた管の中にある。全容を知るためには中身をぶちまけるきっかけさえ有ればいいことを俺は理解してしまった。



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