五章 愛と言う凶器

第37話 ハルトの元へ

ヒカルの携帯が鳴った。耳に当てるとミズキの声が聞こえた。どこか元気が無い。

「もしもし、今何かしてる?」沈んだ声だ。

「別に。暇してたよ、やることが無くて」

 事実ヒカルは暇を持て余し、化粧ポーチをひっくり返しては入れ直したりと無為に時間を消費していた。

「ハルトのところ、行ってみない?」

ミズキの寂しそうな声の原因はこれかっとヒカルは察した。

「ハルトには連絡取れたの?」

窓の外に目を向けると冷たい雨が窓ガラスを伝っている。今日は朝からの雨だ。朝から気温も下がり続けている。この分だと夜には雪に変わるかもしれない。

「まだ、お婆ちゃんが亡くなってからメール入れたけど返事がない」

ミズキの声がもう一つ小さくなった。

「そっか、私も電話してみたけど出なかったから、まだ忙しいのかも知れないよ」

ミズキからの返答が無いのでヒカルは続けた。

「お婆ちゃんが亡くなってからもう五日も経つから、もう家には帰って来てるかもしれないね」

うん。っと今度はミズキの小さな相槌が聞こえた。暫く沈黙が続く。

お婆ちゃんを失ったハルトの哀しみとは比べるべきも無いが、ミズキとヒカルもハルトの祖母が亡くなった喪失感に囚われている。ハルトを励ます程の心の余裕がまだ無い。

二人共ハルトの祖母への思い入れは深く他人事では無かった。

話の判る数少ない大人だった。何でも話をしたし、してしまう不思議な雰囲気を持った人だった。大好きだった。それ故にハルトの哀しみの深さは想像に難しくなかった。ハルトの元へ行って励まし、慰めてあげなくてはと思えども、与えて施す心のゆとりがそれぞれ取り戻せずにいた。

 闘病中も何度も病室に足を運んだ、その度にハルトの祖母はいつもと変わらぬ大らかさで明るく二人を迎えたが、その笑顔が徐々に小さくなるのを感じていた。数日前にヒカルの祖母がハルトのお婆ちゃんの兄から他界の連絡を受けた為に訃報を知った。その後何度かハルトに連絡を試みたが、応答のないまま今日に至っていた。

ヒカルは電話の向こうのミズキが自分と同じ混沌とした感情と友人としての使命感との葛藤に踏み出す一歩への後押しを望んでいることを察した。自分もまた、ミズキの背を押すことで共に同じ一歩を踏み出す決意ができる事を知っている。まずはハルトに会わなくちゃ。

声のトーンを上げ、出来るだけ明るい声でヒカルは沈黙を破った。

「よっしゃ行こう!決まり!ハルトの家に押し掛けよう!押し倒そう!二人で体で慰めよう!みっちゃん直ぐに迎えに来て!」

 受話器の向こうでミズキの小さな笑い声が聞こえ、続けてミズキは言った。

「慰め方は相談しようよ。体でって・・もう居るよ」

「へぇ?」

「家の前に居る」

 ヒカルは驚き、へぇの口のままカーテンを除けて窓から道路を伺った。

見慣れたミニクーパーが雨に打たれている。その運転席からミズキがひらひらと手を振って見上げている。


 乗り込んだ車内は温かく静かで、ルーフを叩く雨の音だけが響いている。

 遅いよとミズキが対向車のライトに目を細めながら言った。

「アポイントの前に家の前に居るなんて変態的だよ」

「もっと他に表現する言葉があるでしょうが、阿吽の呼吸とかシンクロニックとかさ」

「ストーカーをそう呼んでりゃ警察いらないわ」

「はい!暫く走ってこの雨の中に置き去り決定!」

 ミズキは車を走らせた。濡れた路面をタイヤが切る音が車内のBGMに加わる。

「はぁ、みっちゃん、ハルト落ち込んでるよね」

「絶対にね。他人のあたし達がこんなに落ち込んでる位なんだから、ハルトの哀しみなんて想像もつかないくらいにだよ。お婆ちゃんがお母さんの代わりでもあった訳だし・・・親を亡くすってどんな気持ちなんだろう」

 ヒカルが窓ガラスを指で突きながら口を開いた。

「うちのお婆ちゃんが前に言ってたんだけどね。お婆ちゃんのお母さんが亡くなってからもう四十年経つけど未だに逢いたくなって時々泣くんだって。心に開いた穴に雨水みたいに哀しみが溜まって、それを時々目から出すんだって。雨水は心に溜まるから出さないとどんどん心が重くなって行くんだってさ、心にはやまない雨もあるんだって」

「流石ヒカルのお婆ちゃんだけあって表現が詞的だね」

ウィンドウの滴をワイパーが払ったそばから元に戻すように雨粒が打ち付けている。

「ならハルトの心の中も今はこの雨のみたいにバシャバシャ哀しみが降って来てるんだろうね」

「そうだね・・・止まない雨かぁ」

 ヒカルはサイドウィンドウを流れる雨粒を目で追った。

「私達じゃ止ませること出来ないよね」

 諦めるようにつぶやくヒカルを脇目にミズキは決意した強い口調で言った。

「止ませることは出来ない。無理。けどねヒカル、私今思ったんだけどこんなにも大粒の雨が打ち付けていようと、私達は今、車の中にいるから濡れもしないし、寒くもない。会話してたら外が雨であることすら忘れてしまいそうなくらい。この雨はきっとハルトが降らしている哀しみの雨なんだよ。ハルトはこの雨の中で一人で冷たい雨粒に打たれて立ちすくんでいるんだよ。だから私達と言う車が駆けつけて、引き込んで、滴を払い、雨を拭って温めてあげようよ。一時でも良い、束の間だって構わない、私達がハルトの心の中の雨風を凌げるのなら行ってあげよう!」

いつも通りに振る舞っているつもりでも口を噤むと、うら悲しい空気が体に沁みこんでくるようだ。ヒカルが沈黙をそっと押しのけて口を開いた。

「みっちゃんは覚えてるかな?高校の入学式の後にさ、ハルトの家でのこと」

 ミズキはぷっと吹き出して笑い声をあげた。

「覚えてる!お婆ちゃんがくれた入学祝いのコンドームね」

 ヒカルはハルトの祖母の声色を真似て当時の台詞を再現した。

『ミズキ、ヒカル。これからは男との付き合いも出てくるだろう。お前達が自分で選んでこの人ならって相手なら体を許してもいい。ただし、SEXするなら必ずこれを付けさせな!あんた達は体は大人になりつつある。けれどもまだまだ子供だ。子供は大人の決めたルールの中でのみ許された、制限された自由の中で生きていかなければならない。そのルールの一つがガキのSEXには常にコンドームを付けろだ!そのルールを守れない男なら付き合うなよ!バイト代の半分はコンドームに消えますって位誠実な男を選びな』

 ミズキは似てる、似てると笑った。

「そう言えばさコンドームをヒカルにも渡してたよね、あのときお婆ちゃんがヒカルに何か耳打ちしてたじゃん。あれ何って言われたの?」

「あぁあれ、アナルセックスはHIVの感染率が高いから必ず装着させろってさ」

 ブッとミズキが噴き出してまた笑った。ヒカルも笑いながら続けた。

「うけるよね。私ね、当時確かに男の子が好きだったけどアナルSEXとか知らなかったからさ真面目に、はい。って元気に返事しちゃったもん。親切にありがとうございますってさ。お婆ちゃん笑ってたなぁ」

「それであの時お婆ちゃん爆笑してたのかー、私が理由聞いても教えてくれなくてさぁ、何かと思ってたんだよね。その後も変な話してたよね。アンテキヌネスだっけかな、そのネズミみたいな動物は初めてのSEXで死ぬって話始めちゃったよね」

「してたねぇ、何でだっけ?」

「忘れたなぁ、けどそのまま動物の雑学的な話にそれて、ハルトは小さいときに馬の股間が怖いって泣いた話で終わったよね」

 二人は調子を合わせた様に同時に笑った。ヒカルは腹を押さえて目頭の滴を払って言った。

「コンドームって言えばさ、レオンが妊娠したときにお婆ちゃんに相談しに行ったときはビックリしたよね?」

「うん、ビックリしたね、二人が産もうと思って悩んでるって言ったらさ、カズキに初対面なのにガキが思い上がるんじゃないよ!っていきなり怒鳴ったもんね」

 レオンとカズキはヒカルとミズキの当時の同級生で交際をしていた。二人の間に妊娠が発覚し相談できる大人ならとヒカルがハルトの祖母を紹介した。

「だよね、ヒカルもお婆ちゃんなら頑張れって背中を押してくれると思ってたからビックリした」


 二人は当時のことを思い出していた。目の前に当時のハルトの祖母の怒った顔がある。声を張り上げて怒鳴っている。

『ガキが思い上がるんじゃないよ!全員良く聞きな。自立もしてないガキに子供が出来たからって生むことが、産ませてやることが責任の取り方だなんて考えは質の悪い思い上がりだよ。簡単に考え過ぎ。授かった命をこの世に出してやることが正義で、正しく格好の良い事だと思っているのかも知れないけどね、そりゃ間違った道徳感だ。命の尊さを履き違えてる。』

 その場の全員が想像と違うアドバイスの内容と権幕に固唾を飲んで膠着している。

ハルトの祖母は少し声量を抑えて続けた。

『妊婦雑誌の表紙みたいな未来を想像してんなら御門違い甚だしい。想像力の欠如。あんた達が向かう未来を想像するなら、江戸時代の長屋に住んでる浪人夫婦現代版みたいなもんを想像しておきな』

 何かを言おうとカズキが口を開きかけた。がハルトの祖母は、黙れと一指し指を突き付けて制止し話を続けた。

『今あんた達二人が絶対だと思ってる愛って奴はね、宵越しの銭みたいなもんで何時の間にか無くなって行ってしまうものなのよ、悲しいかな。その空の財布の隅に最後に残るのが情って小銭で、その情を大切に貯めて行くと愛情って札束に変わるのさ、愛情の札束が貯まる頃には現実でも多少の銭が貯まってる。その両方が貯まって初めて結婚の資格を得るの。愛さえあれば金なんてなくても大丈夫なんて話しているのだろうけでさ』

 二人は床に視線を落とした。

『その愛が無くなってしまったら何に縋るのさ、縋るものの無い状態、生まれる後悔。その時にもう一つ産まれるものがある。それは、あなた達の子供だよ。そんな状況に産まれた子供が希望の光になるのかい?事態は好転する?子供の出産を契機に仕事も頑張れる?甘いね。人間そん位の事じゃそうそう変われやしない。もって三日だよ。その子はいずれ若い二人の重荷や枷になる。愛情の無限の受け皿であるべき乳飲み子に二人は疎ましさを感じ、憎しみを注ぎ始める。その子の気に入らない点をいちいち相手の欠点と重ねて子供を愛せないのを相手の所為にする。手を上げる事もあるかも知れない、一度手を上げてしまえば回を重ねる毎に罪の意識は薄れ日常化する。その内に食事の世話も止める。小さな子供を一人残して夜の街へ口笛を吹きながら出かける。空腹に耐えかねた子供は何でも口に入れる。卵の殻や最悪はアルミホイルまでも。そんな一人の夜をあなた達は想像もしない。そして何日も家を空け、着替えを取りに戻ったときには小さな命の灯は消えている。バナナの皮のようにくたびれて変色し、汚れ物の山に埋もれて動かない。哀れなその子をまた一人残し、動かなくなった我が子を横目にまたあなた達は部屋を出る。汚いものを見る目で顔を顰めながら』

 一息に話きるとハルトの祖母は涙を浮かべていた。

『そんな事にならない。そんな酷い事をする筈が無いと思うだろ。けどね、今話した例え話は全て現実に起きたことだよ。特別に無責任で子供嫌いな親で特殊な環境に産まれた子供じゃないんだよ。一般的な何処にでもある家庭に生まれたのに。ただそこに無かったのは愛情だけだよ。愛情の欠乏は命を奪うんだよ!赤ん坊が身を守る為の唯一の魔法がある。何か解るかい?』

 ハルトの祖母は優しく尋ねた。二人は頬を拭いながら頭を振った。

『子供が可愛いってことだよ。自分で何も出来ない。会話も成立しない。直ぐに体調も崩す。夜も何度も泣いて寝かしてやくれない。オムツは汚すし、服にはご飯をこぼす。何ゆえにその全てが許せて受け入れられるのか?可愛い。ただその一言に尽きるの。その所作、ふるまいのいちいちが全て愛おしい。そう感じさせることだけが赤ん坊が唯一身に着けて産まれてくる魔法なんだよ。愛情で慕った相手の間にできた子はその魔法が使える。けどね、魔法も使えない、自身で身を守る術を持たない赤ん坊の末路は地獄だよ。地獄ってのはあの世にあるんじゃ無い。まだあんた達の知らない現実の一部にあるんだよ。この世にはね、死ぬことよりも辛いことが幾らでも溢れている。あなた達はまだ知らないし、知らない事が多すぎる。産むって選択が正しい事だと思い込まないで欲しい。カズキ君だよね?本当に責任を取る気があるなら、今回はおろしてあんたの一生を彼女の為に使いな。そんでさっき言った資格を得たなら、指輪を買って素敵なレストランで彼女に堂々とコテコテのプロポーズしな!それが正しい責任の取り方よ。でも、振られたらウケるわね』

 その場の一同が笑いながらも泣いていた。

 その後カズキとレオンは子供をおろした。二人は大学に進学し、その間も交際を続けて来年には結婚をするそうだ。あの時二人も心の何処かではおろせと言われたかったのかも知れない。

 いつの間にかヒカルの瞳は濡れている。唇は小さく震えている。

 ミズキはそんなヒカルに目線を向けた。

「ごめんみっちゃん。悲しい話なんてしてなかったのにね」

 ヒカルはきれぎれになりながら言った。

「こんなんじゃハルト慰めに行く処じゃないよね。だって、、私、、またお婆ちゃんに、、、逢いたいよぉぉ」

 運転席のミズキはきつく口を結んで前方を睨んでいた。おもむろに路肩に車を止めるとその口を開いた。前方を向いたまま。

「そうだね、こんな気分じゃ逆にハルトに気を遣わせちゃうね」

 ヒカルに向き直り決意した口調でミズキは言った。

「よし、ヒカル一回泣こう」

 二人は手を握り合い、迷子の子供の様に車内で声を上げて泣いた。この通過儀礼を済ませなければハルトに会いに行けないとばかりに思い切りに。

 体裁を気にせずに付き合えるミズキとだから出来る事だとヒカルは常々感じている。

 人は酸素を吸い、二酸化炭素を吐く。食物を食べ、排泄する。体に入ったものは形を変えて出てゆく。人の細胞すら排泄物となり新しいものと入れ替わりに古いものは出てゆく。入った物は全て出てゆく、一定の場所に留める事などできない。それが自然の摂理。

それは感情に対しても同様であり法則を無視できない。喜びを感じれば笑みが漏れる。哀しみを感じれば涙が零れる。そうして体も心も代謝している。受け入れるばかりで出すことをしなければ、どこかで無理が生じる。

だけれど私達はオムツを履いた子供では無い。何時でも何処でも出したいときに出せる訳じゃない。時と場所を選びながら出す。時には出したふりで済ます。そんな面倒を重ねるうちに出さないでいたものたちが、出せないものへと変わってしまった。気が付くと溜めているのでは無く溜まってしまっている。大人になって器用に振る舞っていたつもりでも、いつの間にか心の表現方法を忘れ、上手く笑ったり泣いたり出来なくなっている自分に気づく。

そんな時に昔の私、自然な状態の私に引き戻してくれるのがミズキなんだ。ときに叱咤し、激昂して諭し、時には優しく包みこむように寄り添い、時にはこうして手を取って一緒に泣いてくれる。そんなミズキが居るから私は幾らだって変わって行ける。私がどんなに変わってしまってもミズキは、ミズキだけは変わらない私として受け入れてくれるから。そんなミズキが相手だから素直に泣いた。羞恥心などサラサラない。

涙も鼻水も涎も垂れるに任して構わずにダラダラと泣いた。泣き崩れ合った。子供どころかまるで幼児二人だ。溜まっていたものや堪えていたもの全てを流してしまい、二人でもう大丈夫だと確認し合って手を解いた。

 クシャクシャの顔を見合わせて笑い合った。

 二人の乗った車はまた雨の街を走りだす。

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