第36話 日本のママ 4

 一週間ほどこんな生活を続けた頃、ある人に声を掛けられた。そんな場合の対応は決めていた。所詮俺は外国人なのだ、御望み通りに装ってやるのだ。振り向きざまにポルトガル語でこちらから話返す。「o que e?(何ですか?)」

 そこには初老の女性が立っていた。長い髪を後ろで一本にまとめ、所々に白髪が混じっているがその白髪で初老だと感じる程度で、目じりと口元以外には目立った皺も無かった。

 ポルトガル語で返事をしてやれば日本人は窮して引き下がるのは日本で学んだ唯一の事象だ。

「Precisa de ajuda ou aluguma coisa, o pue e o?(何か困りごと?)」

 予想に反して初老の女性はポルトガル語で返して来た。それには逆にソウゴが戸惑い、同時にこの異国の地で母国語に出会えた喜びが胸に溢れた。

「Linguagem de Portugal voce pode falar?(ポルトガル語がはなせるの?)」

 追い払うつもりがソウゴから質問してしまった。

「Conversa de base diaria se(日常会話ならね)」

 そう言って初老の女性は優しく笑った。

 不思議な雰囲気を纏った人だった。深く追求して聞いてくる訳でも無いのに、一つ質問された事に対して次々に自分から話してしまう。他人に話す事でも無いと思っていた些細な事までなんでも話せてしまう人だった。気が付けばその人の家に上がり込み、昼食まで共にしていた。まるで以前からの知り合いであるかの様に不思議と同じ空間を共にすることに抵抗が無かった。

 日本茶飲める?と食後のお茶をソウゴの前に差し出すと初老の女性はちゃぶ台を挟んで向かいに座った。

「ソウゴの事情は分かったわ、答えを求める姿勢に幼いながら尊敬すら覚えるわ。けれど今あなたが抱える問題を解決する為には大人の力と知恵が必要ね。私で良ければ力になるわよ」

 初老の女性はソウゴに顔を寄せてあの笑顔でそう言った。

 泣き出したいほど嬉しかった。見えない重荷が心から降りるのをソウゴは感じた。何も目標を立てられていないけれど、目標を立てられるかも知れないと言う希望が持てた。涙を耐え、お願いしますと頭を下げた。

「意地を張らない賢い子ね」

 そう言って初老の女性は頭を撫でてくれた。

 ソウゴは少し恥ずかしくって、誤魔化す様に茶を啜った。初めて飲む日本のお茶は少し渋かったけれど美味しいと感じた。そして、久しぶりに自分はまだ子供なんだなと自覚した瞬間だった。

「ソウゴ、まずは目標を立てましょう。『自分の力で稼げるようになってブラジルの地を踏む』って言うこの抽象的な言葉に肉付けしていきましょう。何歳でブラジルに行きたい?」

「出来るだけ早く」ソウゴは即答した。

「そうね、日本なら中学卒業後から働くことは可能よ、けどねソウゴ日本は学歴社会なの学歴と収入は基本比例すると思って良いわ。早くから稼げる様になったとしても、受け取る賃金が安ければ長く働いて渡航資金を溜めなければならない。逆に時間を掛けても学業に励めば、社会に出るのは遅れても受け取る賃金は高い。渡航資金は直ぐに溜まるわ。生涯賃金って言って一生の間に受け取る金額も倍じゃ効かない位の差になるのよ。あなたならどちらを選ぶ?」

「賃金の高い方」ソウゴはまたも即答した。

「結構。なら目標は大学卒業後に就職。一年稼いで二十三歳でブラジルに渡航!日本の大学卒業と企業に就職、その二つを手土産に帰れば十分に故郷に錦を飾れるわ!」

 初老の女性はどう?と眉毛を上げてソウゴに問いかけた。

 二十三歳。今のソウゴには想像出来ないくらい遠い将来の像で途轍もなく大人になってからの自分を明確には想像出来なかったが、今はそれを目標に据えるのがベストだとも感じた。迷いを抱きながらも首を縦に振った。

「目標はその時々の状況によって変えても良いのよ、あなたがしっかりと考えてベストだと思う方向へ変更して行けばいい。頑なに一度立てた目標を完遂しょうと気張る必要は無いわ。目標はあなたの行動指標であって、あなたを縛る鎖では無いのだから。これからあなた達若者には沢山の物事が起こるでしょう。そのときに大切なのは結果よりも結論よ、起きた事象をポジティブに捉える結論が何よりも重要。目標の途中で思い通りに行かない時もあるでしょう。その時の結果は失敗や挫折かも知れないけれど、何かを挫折から学んだ、修正点を見つけられたと結論付けるように考えなさい。そして反省として生かしたうえで目標を修正すれば良い。けれどその修正が妥協であってはならない。あなたが自身で自身を貶める様な変更は私が許さない。あなたの両親があなたに許さないことは、これから私が代わって許しはしない」

 初老の女性が向ける強い視線に嘘の無い熱を感じ。強い口調に中に親愛を感じずにはいられなかった。ソウゴは表情を緩めて今度は強く頷いた。

「そうだ、ついでだからもう一つ高学歴の利点を教えておいてあげる。ソウゴは自由ってどういう事だと思う?」

 自由?きっと今の自分はどちらかと言えば自由に当てはまる状況にあるのだろう。なんだろうか、「何でもして良いってことかな」

 ブーッと初老の女性は唇を鳴らして笑った。

「それが自由だとしたら、あなたはこの国で将来犯罪者と呼ばれるわよ。仮に何でもして良いのが自由だとした場合、他者の自由と衝突してかえって不自由になるわ。例えば図書館に行って誰でも勝手に本を持ち出して、返却してもしなくても良い、なんてなったら借りたい本がいつまでも返って来ない。誰に貸したかも分からない。もしかしたらあなたの読んでいる本を誰かが貴方の部屋に上がり込んで取りに来るかもしれない。それが自由と言える?どちらかと言えば不自由だと思わない?」

 ソウゴは確かにと言う顔のまま首を振った。

「そうでしょ、束縛があって初めて自由が得られる。その束縛をルールと呼ぶの。本を借りる場合にはカードを掲示して誰が何時、何を借りて何時迄に返却するかを明確にする。そのルールを守って初めて本が自由に借りられる。つまり自由は何でもして良い事とは違うのよ。では改めて自由とは何か?」

 改めて問われると急に自由が難しいものの様に感じられた。何だろうか?暫く考えていると初老の女性は楽しそうに首を躍らせて、降参かなぁと繰り返している。答えをぶつけてやりたい!思いとは裏腹に明快な答えは浮かんで来ない。降参ですと口を尖らせた。

 初老の女性は少し不服だというソウゴの様子に気を良くした様子で、オホホでは教えて進ぜようとおどけた。

「自由とは選択する権利があること。それが自由よ。高学歴と低学歴の違いは職業選択の自由に大きな格差があるわ、中卒者がNASAで研究者として働きたいとしても応募資格に一致しない為に選択出来ないでしょ、中卒者が応募できる職業の中から選択しなくてはならない。選択の自由が限定されてしまうの。それに選択する権利を日常生活に言い換えると、自由に選択して買い物をする権利は誰にでもある。正し、物を買うにはお金を払って下さいと言うルールの基にその選択の自由はある。お金が無くては欲しくてもそれを選択する権利が無い。そこでさっきの話につながるの。一般的に高学歴の方が収入は高い。つまり選択の自由の幅が広いってことになるの。選択の自由を得る為には勉強しなくてならないと話はまとまるのだ」

 初老の女性は両手を腰に当てて胸を張った。ソウゴはその姿に小さく拍手を送った。

「よしソウゴ、分かったら明日からはしっかり学校に通いなさい。調べたいことがあるのなら放課後を利用して図書館に行くこと」

 自然とソウゴの口から「はい」と大きな返事が出た。

「それから、あなたのクラスに私の孫が居るから明日からは一緒に通いなさい。お目付け役として付けるからね。少し貧弱だけど、優しくて真の強い子だよ。きっと気が合うからね」

 今日一番の笑顔で初老の女性が笑った。ソウゴはその笑顔に若干の嫉妬と明日の登校への初めての期待感を覚えた。


「それがお婆ちゃんと俺の最初の出会い。俺が日本に来て初めて出来た友達であり、母であり、祖母だった。ハルトの今の辛さは身を持って感じているから、共に乗り越えて行こう。大切なのは結果じゃなくて結論だ。俺たちの婆ちゃんの言葉を今ハルトに送るよ」

 ソウゴはそう言って横たわる婆ちゃんに手を置きながら言った。

 二人の祖母は優しい顔でその話を聞きながら横たわっている。


              〇

 祖母の葬儀は祖母の兄が取り仕切った。生前の意向によって親族だけでしめやかに執り行われた。

 ハルトの父へは祖母の兄から連絡を入れ、[急いで向かいます]との返答だったが結局式には間に合わなかった。葬儀が終わり祖母は焼かれその遺体は小さなツボへ納められた。死に顔を見たとき既にハルトは祖母は居なくなってしまったのだと感じ、骨壺を見たところでなんの機微すらも生まれなかった。祖母が納められているとは到底思えなかった。けれど、納骨時に開けた墓からサクラの小さな小さな骨壺を見たときには胸が締め付けられ、婆ちゃんが来てくれたよと語りかけたときには胸が潰れる思いがした。

 祖母の兄はハルトの父が帰って来るまでは家に来るように勧めたがハルトは断った。祖母の居なくなったこの世界では何処に行っても一人と変わらないからだ。せめて思い出の残る場所に戻りたかった。

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