第34話 日本のママ 2

 ソウゴはレストランに向かって走った。一刻も早く両親にリュウジから日本行の権利を譲り受けたことを伝えたかった。

 とても帰ってくるまで待ちきれなかった。暗い街路をいくつも走り過ぎた。景色は後方へと流れ飛び、星達は両手を広げて送り出してくれる。

 街を抜けた少し先にレストランの灯りが見えた。この距離からみるレストランが好きだ。暗闇に佇む光のオアシスへ向けて足を速める。既に日本へ向かって走り出している気分だ。

 光のゴールへ走り込むと何事かと母が駆け寄って来た。

「どうしたのソウゴ!」

「はぁはぁ大変だ、はぁ俺が、はぁ俺が、俺が日本に行くことになった!」

「はぁ?話が見えない。とにかく座って少し休みなさい」

 母はソウゴに椅子を進め、水を取りに調理場へ向かい父に声を掛けた。

「パーイ、ソウゴが来ちゃった。何か話があるみたい」

 ポルトガル語では父をパイ、母をマイと呼ぶ。ソウゴの両親もお互いをそう呼び合っている。店内に客の姿は無く、時計を見て初めて気づいたが既に21時を過ぎている。閉店後の片付けの時間帯だ。コップを持って調理場から母が戻ると、父がその後ろのカウンタから腰を屈めてこちらへ顔を出した。四角い顔、口の周りには硬そうな茶色い髭が張り付いている。一見強面だが青い瞳がその印象を和らげている。

「どうしたソウゴ、こんな時間に店にまで来て」

「パイ、俺が日本に行くことになった。リュウジには了解をもらっている」

 父はソウゴの顔をマジマジと見つめ、その外見に傷や痣の無い事を確認し、その瞳から嘘の無い事を確認した。父は話し合いで決めて来たみたいだなと状況を理解した。しかし俺はお前を行かせるとは言っていないと続けた。

 リュウジさえ説得すれば日本に行けるものだと決めつけていたソウゴは見る間に表情を曇らせ、瞳に溢れんばかりの涙が溜まった。

 それをみた母が口添えした。

「パイ、ソウゴの話を聞いてあげましょう」

 次にソウゴに顔を戻すと

「ソウゴ、そんなに簡単に泣くような男が異国で生活できるとは私は思えない。その涙を一滴でも流したら話も聞かないからね」

 ソウゴは慌てて瞳の涙を両手で顔に塗り広げ、強く口を結んで耐えた。

 ソウゴは父に促され、何故日本に行きたいのかを一つずつ説明した。祖父の夢を叶えたいと思っていたこと、その一念がいつの間にか日本への興味に変わり、自分自身の夢へと変化していたこと、思いの丈を全て父と母に話した。二人はその間、口を挟まずに聞き、終わると父が口を開いた。

「ソウゴ、お前の気持ちは分かった。けれどお前に日本に行ってこいとは言えない」

 口を挟もうとするソウゴの口元を母の人差し指が塞いだ。

「お前はまだ幼い、持っているのは日本への憧れだけだ、実際の日本での生活が想定できていない。理想と幻想で日本を想像しているだろ、ネガティブな側面を知って初めてその国を理解出来る。お前が行こうとしているのは日本への観光じゃないんだぞ、日本への定住なんだぞ、全くお前に合わない国かも知れない、だとしても行ってからでは遅いんだぞ、帰りたいと泣いて帰れる場所じゃない。ソウゴ、お前はどれ位日本に行くと想像しているか分からないけど、俺はなリュウジを日本に帰化させようと思っていたんだ。帰化ってわかるか?日本の国籍を取得して日本人になるってことだ。お父さんを産んだ国にお父さんの血を引く男を一人返そうと思っていたんだ。日本に行ったら自分の力で金を稼げるようになって、自分の力でこの国の土を踏めるようになるまでは帰って来れないんだぞ。それでも行きたいのか」

 父の言っていることが正に正論だった。憧れしか無かった。日本での生活をビジョンとして想像したことが無かった。

 ネガティブな側面、そのワードには事実心が少し重くなるのを感じた。そして日本への帰化。指摘された通り、ソウゴの中で観光に行く感覚で居たのは事実だった。自分の力でこの地に帰ってくるまで帰れない。一体何年掛かるのだろう?自分が日本の地でそんな男になれるのだろうか?初めて日本に対する具体的な不安がソウゴの頭の中で大きくなるのを感じた。

 そんなソウゴの様子を見て、父はカウンタを出てソウゴの傍に行き、ソウゴを抱きしめた。そして言った。

「お前はまだ幼い、七歳の私達の可愛い息子だ。近くでお前の成長を見ていたい。可愛い時期を共に過ごしたい。その気持ちが日本にソウゴ行かせたくない一番の理由だ」

 抱き寄せられた父の体はとても大きい。ソウゴの耳が父の腹の辺りに収まり、父の体を通して言葉が伝わる。目を閉じて温もりを感じると、温かい体温と共に沢山の料理の匂いがする。家族の糧を得る為に今日作った沢山の料理の匂い。あぁ良い匂いで心地良い。どうして自分はこんなにも心地の良い場所を自ら離れようなどとしていたのだろうか、本当にバカだ、父と母の言う通りこの国で家族で今まで通りに暮らそう。日本には大きくなってから観光で行けば良いじゃないか。今日は疲れた、もう帰って寝よう。そうだ、そうしよう。

「ソウゴ、どうするの?」目を開けると母がこちらを見ていた。

 母の後ろに目をやると先程父の居たカウンタがある。ウォッカやリキュールのボトルが並び、その上にブラジルの国旗が掲げられている。どうするってマイ、考えたら分かるじゃないか、何で心地よいこの場所を捨てて日本になんか・・国旗は緑の地に黄色の菱形、その中に地球を模した球体が描かれている。球体を横切る帯の中にはポルトガル語で『秩序と進歩』と書かれている。

 考えたら分かる。怯むには十分な不安と準備不足、未熟な肉体と精神。どうして自分のような者が日本に行けよう事があるのか・・もう一度国旗に目をやる。『秩序と進歩』頭で考えれば正しい道は明白だ。秩序とは物事の道理。正しい道のこと。そう、日本に行かない選択は正しいのだ、考えれば分かることだ。なら心は?心は何を感じている?そう考えた刹那大きく高鳴る胸の鼓動に合わせ、勝手に体が反応した。父の体から腕で距離を取り、見上げて発していた。

「パイ!日本に行きたい!心はそう言ってる」

 父と母は顔を見合わせてしょうがない奴と言う顔で笑った。

 父は再度ソウゴを抱き寄せて、そっかそっかと言いながら笑った。

「ソウゴ、お前もいつの間にか立派な男になっていたんだな。さすが俺の息子だ、お前を誇らしく思う。最後に聞くぞ」

 父はソウゴの頬を両手で包み自分の方へ向けた。

「お前を日本に行かせようと思う。行ってくれるか?」

 様々な感情が入り交じり、ソウゴの瞳に涙を溜めたが、それを溢さないように「行ってきます」と返事をした。父は嬉しそうに笑ったが、青い瞳が濡れている。

 父と母に挟まれて抱かれ、この家に産まれて幸福だと当たり前の事に初めて気づき、ここを出て行こうと決めた自分の決断を改めて不思議にも思った。

 店の片付けを続ける父を残し、母とソウゴは先に店を出た。

 見送りに店先に出た父にソウゴはしつこくも日本行き約束だよと念を押した。

「ソウゴ、パイは冗談は言っても嘘は言わない男だ。お前こそやっぱり行きたくないって明日の朝に泣くなよ」

「パイ、ソウゴは反省は口にするけど、後悔は口にしない男だよ。決めたら次にするのは実行だけ」

 父は白い歯をみせてニッと笑い親指を立てた。ソウゴも同じ仕草で返し、母と手を繋いで家路へ向かった。振り返ると父が店先でいつまでも手を振っていて、ソウゴも見える限り手を振り返した。

 光の溢れる店先で手を振る父の後方の空には月が浮かび、稲妻が挑むように走っていた。

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