第32話 喪失 2

 婆ちゃんの使っていたベッドは婆ちゃんが運びだされたままの状態で乱れている。温もりを求めて手を差し入れてみるが期待は儚く、冷気で既に満ちている。

 片付けを続けようと作業に戻ろうとするが、病室の入口に自然と視線が止まってしまう。お婆ちゃんが餅でも持ってひょっこりと顔を出すのでは無いか?まだそんな気持ちでいる。

 暫くは入口を見つめていたが、流れる涙が伝い始めるのと同時に顔を逸らした。受け入れなくとも現実は形を変えず確かに目の前にある。目を逸らそうが、瞑ろうが、触れずにいなくともそこに確かにある。もう居ないのだと言う事実が。そして戻らないという事実が。

 サイドテーブルにはえんぴつが以前より小さくなって転がっている。横のメモ用紙には《ありがとう》と丁寧な筆跡で残されている。すでに婆ちゃんの字に懐かしさを感じる。また、涙が伝う。渡せなかった鉛筆をジャンバーのポケットから取り出しサイドテーブルに放る。一度軽く跳ねて転がり、小さくなった鉛筆に並んで止まった。

 メモに書かれたありがとうの文字は誰に宛てたものだろう。そういえば俺、最後に婆ちゃんにありがとう言ったのいつだろう。いつもちゃんとありがとうって言えてたかな。

 婆ちゃんに対して、してこなかった事ばかりが浮かんでしまう。泣かないようにと片付けに集中しようとはするが手に取る物全てが生前の婆ちゃんを想起させる。何かをしていても、いなくても、涙だけは止めど無く伝い落ちる。

 荷物をまとめ、ベッドを仕切るカーテンを開けると隣のベッドが目に入った。空のベッドから引きちぎるように目を背けるとハルトは部屋を出た。

 病院の中庭に出るとポケットから携帯を取り出した。

 ソウゴには連絡してやらないと、鼻で深呼吸を一つしてからダイヤルした。

 青い空を鳩が旋回している。

 コール音が鳴り始めるとすぐにソウゴが出た。

 明るくいつも通りの声を装って話を始めた。

「ああソウゴ、俺ぇ、婆ちゃんがさー、さっき死んじゃったんだー」

「え?」早口で聞き取れなかったのかソウゴは聞き返した。

「だからさ、婆ちゃんがさ、ばぁちゃんがぁ・・・」言葉に詰まる。

「ばぁちゃんが死んじゃったんだよぉー、ソウゴぉぉ、ばあちゃん死んじゃったよぉぉ」

 言い切る前に堪え切れずその場に泣崩れた。散歩中の患者達がその光景を不安そうに見つめている。

「直ぐに行く」

 それだけを伝えて携帯は無音に変わってしまった。暫く何も語らない携帯を耳に当てたままで地に涙をおとした。

 ロビーにて暫く待つとソウゴは現れた。周囲の人よりも頭一つ大きなソウゴはすぐに発見できる。周囲を見渡していたソウゴもすぐにこちらに気付いた。

「よっソウゴ」小走りに駆け寄るソウゴに弱々しく手を上げて声を掛けた。さっきの電話でのことが何だか気恥ずかしかった。目も腫れている。

「ハルト、大丈夫か?」ソウゴは逸らしたこちらの目を躊躇なく真っ直ぐに見つめる。

「もう大丈夫だよ。悪かったな、突然。わざわざ来てもらわなくても良かったにの、一応知らせておこうと思って電話しただけだったから」

「いや、知らせてくれてありがとう。お婆ちゃんに会いたい。今は何処に?」

 ソウゴを先導して病室に入った。おじさんの姿は無い。婆ちゃんは変わらずそこに寝て居る。温かい光が射しこんでいるのに冷たい肌感だ。

 ソウゴは婆ちゃんの横に立つと、胸の前で十字を切って手を組んで祈った。カトリックの祈りの所作だろう。俺はその隣に腰を降ろした。

 ソウゴの口から囁き、静かにレクイエムが捧げられる。ポルトガル語だろう、言葉の意味が分からないからなのか何だか川のせせらぎを耳にしている様な気になる。

 ソウゴはボロボロと涙を流しながら祈った。ソウゴみたいな強い男も悲しいときは泣くんだなとその横顔を眺めた。

 祈りの最後に「ありがとう日本のママ」と言ってもう一度胸の前で十字を切った。

 俺にとっても婆ちゃんは母の代わりだったけど、ソウゴにとっても俺と同じ様な存在として婆ちゃんは頼られていたのかと初めてソウゴの心の内を垣間見た。

ソウゴは俺の隣に腰を降ろすと大きな両手で涙を拭った。もう泣いては居ない。

 ソウゴは何も語らずに婆ちゃんを見つめている。

 婆ちゃんの事なら俺が一番知っている。それは自負しているが自分の知らない婆ちゃんが生きた時間を知りたかった。

 どんな小さなことでも良いから聞いてみたかった。

「ソウゴにとって婆ちゃんはどんな存在だったの?」

 本旨を達成するには曖昧な質問をしてしまったが、ソウゴは暫く熟考した後に。

「日本語にもポルトガル語にもそれを表現出来る言葉が無い」

 そう言ってソウゴは首を振った。これで返答としていつもなら終わってしまうところだが、ソウゴは俺の本旨を理解してくれていたのだろう意外な事を語り始めた。

「少し話をしてもいいか?」そう前置をして。

「婆ちゃんとの出会いは日本に来て暫くしてからだったな、ブラジルにいる家族の事とか将来の事とかその時の自分ではどうしようも無い事に悩んでいた時期だった」

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