第31話 喪失 1

 この世は儘ならない。生を受けてからこの方、多くを望んだことなど無かったんだ。ただ、今身の回りに有る大切なものを失いたくない。大切にして生きたいと願った。ただそれだけなのに。それすらも姿の見えない大きな力が勝手に奪い去って行ってしまう。それは断りも、承諾を得る事もしない。それはとても静かに日常の一部として行われる。


 月は美しく藍色の空はその有り余る腕の中に薄い雲をいくつも棚引かせて遊んでいる。

 木々は月光を受けて身を捩り、足元の影は姿を変えるのに忙しい。こんなにも良く晴れた日は夜であっても眩しい。何度か見かけた事のある猫が大きな歩幅で道路を渡り、ゆっくりと伸びをして寝ころんだ。身を寄せ合うカップルがその脇を通り過ぎる。

 いつもと変わらない何気ない風景に雰囲気だ。ハルトは病院の正門を抜けた。

 混乱していた。こんな普通の日常に?ありえない。そう思う。けれど先程の病院からの電話は最悪の報告を告げた。

「御愁傷様です。先程お婆様が亡くなられました。直ぐに来られますか」

 聞いた直後には胸が裂っする程に高鳴ったが、まるでそれが夢の中での出来事で有ったかの様に心は今、胸騒ぎ程度にざわついている。例えそうだとしても、俺が行けばどうにかなる。あの婆ちゃんが俺を置いて?俺に何も言わずに?行ってしまう訳など無いのだからと、根拠の無い自信に何処かで楽観視すらしていた。

 病室のエントランス。いつもなら順番待ちの患者で賑わっている。今は薄暗く、心もとない照明でなんとか外闇に抗っている。

 ハルトはコートのポケットに手を突っ込んだままエントランスのソファに腰かけた。大袈裟な音が響いたが直ぐに周囲の闇に吸い込まれた。昼間なら呼出し番号の表示されるディスプレイを眺めた。自身が真っ暗な画面に反射している。こうしていたら何時か婆ちゃんがトコトコと歩いて来て、肩を叩いてくれる気がした。瞬きも忘れて画面を注視していた。

 暫く経ってから深く目を閉じてディスプレイから顔を背けた。

 もたげた頭を振り上げて席を立った。一つの希望が消滅し、少しの現実を受け入れて。

 三階へ、いつもならエレベータで向かう。今日は階段を選んでしまう。早く行かなくてはいけないのに、足が進んで行かない。階段の踊り場で毎回立ち止まり目指す上階を見上げる度に眩暈がする。そんな頭で願う。

【お願いだ。お願いします。目を開けていて。笑って話しかけて嘘だよと言って】

 俺が行けば大丈夫。大丈夫なのだと虚勢の様な励ましを自分自身にして、再度歩みを進める。

 三階の踊り場を抜けて婆ちゃんの病室へ向かうと背後から何度か見かけたことのある看護師に呼び止められた。

 こちらへと看護師は多くを語らずにハルトを先導した。きっと電話を掛けて来た看護師だろう。

 連れて行かれたのは廊下の端にある一室だった。どうしていつもと違う部屋なのだろうと思っていると看護師がその扉を開けた。

 部屋は小さい。ベッドが一つ置かれ医療機器がその横に配置されている。その器機の電源は入っているが機能していない。その機能を果たすときを静かに待っている。その状態を疑問に思う。

 病人が居るのに?すぐそこに居るのに?ベッドの上に居るのに?俺の婆ちゃんなのに?何故動かさないの?動かさなくちゃ。

 ハルトは看護師の肩を揺すって言った。

「ねぇ看護師さん何で機械止めているの?」

 早くしなくてはとハルトの瞳には涙が浮かび焦燥が表れている。

「早く動かさないと!婆ちゃんに何かあったら俺許さないよ。ねぇ、早く動かしてよ」

 懇願と怒りの籠るハルトが握る肩は痛いだろうに、看護師はそれに耐え、先生が間もなく来ますのでと言って目を伏せた。

「どうして今動かしてくれないのさ、いつも使っていたじゃない!もういいよ自分でやるよ!どうすればいいか教えてくれよ!」

 看護師の肩を投げ捨てる様に放し、機器に向かおうとした背後で喝を入れる様な調子で医師に呼ばれた。

「高神さん!お婆さんは、お亡くなりになりました」

 その場でハルトは動けなくなった。医師は言葉を続けた。

「お辛いでしょうが。御愁傷様です」

 機器の前まで進むとハルトは崩れ落ち天を仰いで咆哮のように叫んだ。

「嘘だ!嘘だ!嘘だ!嘘だ!そんな言葉をかけるな!まだお別れも言っていない。今までのお礼だって言ってない。俺は行っても良いって許してない」ハルトは体面も気にせず声を上げて涙を流した。まるで駄々をこねる子供だ。

 医師が近づきハルトの肩へそっと手を置いた。

「高神さん。お婆さんは頑張られましたよ。最後まで生きる事を諦めませんでした。あなたの名前を呼んでいましたよ。とても会いたかったのでしょうね」

 ハルトは騒ぐのを止め、拳を握って肩を震わしている。

「顔を見てあげて下さい。お別れを言ってあげて下さい。あなたの事を待っていましたよ。まだお会いしていないでしょう」

 この医師の言う通りだった。ハルトはこの部屋でベットに寝て居るのは祖母と認識しながらも意図して焦点を合わせる事をせず、視界の隅にだけ捉えて現実から逃げていた。向き合うことを避けていた。死を受け入れず生のあるものとして遣り過していただけに過ぎない。したがって、医師の言う通りまだ会ってすら居ないのだ。

 医師たちは暫くしてからまた来ますと言って退出して行った。

 一人になったハルトは暫くその場所にへたり込んだまま動けなかった。全身の血流が止まってしまったかのように体が冷たく、頭が回らなかった。

 ハルトは待っていた。布団の衣擦れの音、咳払い、呼気の音、生きている反応なら何だって良かった。その全てを聞き逃さない為に自身が死んだ様に無機質にそこに居た。何処かで秒針の音だけが規則的に刻まれる。幾つその音を数えただろう。ハルトはゆっくりと起き上った。

「婆ちゃんに会わなくちゃ、俺が直してあげなくちゃ、俺なら何とかできるんだから」

 浮かされた様に呟いて初めて祖母の横にハルトは立った。横たわる祖母の顔を初めて直視して焦点を合わせた。

 祖母が寝ていた。イヤ、祖母が入っていた祖母の形をした入れ物が横たわっていた。

 居なくなってしまったのだと感じた。同じ顔をしている。ただそれだけだ。蝉の抜け殻と同じだ。形は同様に保とうとも中身は既にどこかに行ってしまった後なのだ。

 ベット脇の椅子に腰を下ろし布団の中の祖母の手を取った。冷たかった。

「ただいま、遅くなってごめんね。おばあちゃん寒かったんだね。待たせちゃったね」

 両手で祖母の手を包み温める。ゆっくりと揉みながら摩る。

「大丈夫。大丈夫。大丈夫だよ。俺が来たからね。安心してね。ハルトが来たよ」

 ハルトの頬を伝う涙は勢いを増した。大丈夫、大丈夫と祖母に語り掛けながら自分自身にもその言葉を向けていた。こうしていれば何時かこの冷たい手も暖まり、全身に温もりが戻り良く寝たわと言って目をあけるはずさ。

「おばあちゃん、俺今日沢山買い物してきたよ。おばあちゃんが病院での不自由が大分解決出来ると思うんだ。早く見せたいからさ、目を開けてよ。鉛筆も買って来たよ。小さくなってたもんね。直ぐに使えるように削っておこうか?それにね・・・それに」

 ハルトは祖母の胸に顔を埋めて泣いた。

「うぅぅぅっ婆ちゃん目を開けてよ。寂しいよ、行かないでぅぅ、まだまだおばあちゃんと一緒に居たいよ。また一緒に暮らしたいよ。また話がしたいよぉぉ」

 幾ら祖母の胸に縋って弱音を吐き懇願を繰り返そうとも流れた雲を引き戻すことが出来ないように、死者の魂もまた戻らない。

 ハルトはその涙で潤んだ瞳で祖母の胸元からその穏やかな顔を伺い、歪んだ視界の奥でぼんやりと考えていた。

 もしも俺が本当の大人であるのなら、今やるべきことを見つけ、あるいは頼られ、その忙しさに相殺されながら哀しみを乗り越えて行くのだろう。しかし今の自分は哀しみに絡め取られ身動きすら出来ない。あの日婆ちゃんがその小さな体で俺を必ず守ると誓ってくれた。あの時から俺の精神の成長は止まったままなのだろう。全てを婆ちゃんに任せ、甘え、依存して生きてきた。思えば自分の足で人生を歩んだことなんて無かったんだ。その気になっていただけで、本当は自身の足で歩くどころか逃げ回っていただけだ。ときに父さんの背に逃げ込み、時に婆ちゃんの懐に隠れた。そうやっていつも誰かに守られていた。その小さな体で俺の盾となってくれていた婆ちゃんが、死んでしまった。何もしてあげられなかった。一つとして恩を返すことも出来なかった。喜んで貰える、病院での生活が楽になると買い込んで来たものも全てが無駄だった。俺はいったい何をしていたんだろうか。早く病院に来ていれば最後に会えたかもしれない。もっと以前から時間を作って来れば良かった。そうやって反省と後悔ばかりが浮かぶ。

 婆ちゃんの表情はとても穏やかだ。以前のように苦痛に顔を歪めることも無い。痛みの苦しみから解放されて健やかに眠っているようにさえ見える。治ったんだねとバカな問い掛けを懲りずにしてみる。目を開けて「来てくれたのね」と優しく微笑み掛けてくれる気がする。しかし何も返答してはくれない。一向に手の温もりも戻らない冷たいままだ。その冷たさはかじかむ様な表面的なものでは無く、まるで手の形の無機質なゴムを温めている様だ。どれだけ強く握っても、握り返してはくれない。熱の出た日に額に当ててくれた手。お腹をさすってくれた手。毎日料理をしてくれた手。守ると言って抱き包んでくれた手。死はその全てを奪い去ってこんな冷たいものに変えてしまった。

「婆ちゃん。行っちゃったんだね」

 ハルトは口に出したこの一言で祖母の死を現実だと認めて受け入れてしまったのだと思った。そしてまた祖母の遺体に縋って泣いた。祖母と暮らし始めた最初の日のように。ただ、その日とは違うのは、祖母はもう二度とハルトを抱きしめ、その温もりを持って守るとは言ってくれない事だ。

 ハルトは祖母の胸からぐっしょりと濡れた頬を離すと改めて祖母の顔を覗きこんだ。自分の気持ちばかりで泣いていたが、あらためてこの穏やかな顔をみているとやっと痛みから解放されて楽になれたんだねとようやく祖母を慮る事ができた。そうしていると再び反省ばかりが浮かぶ。

 まだ時間は残されているのだと自分に言い聞かせ、ごまかし、決めつけて日々を過ごして今日を迎えてしまった。心の準備など出来ていようはずもない。例えどれだけの時間を与えられたとしても出来なかっただろう。見舞に行った帰りには当たり前に明日も婆ちゃんに会える。話が出来ると心の何処かで現実から目を背けていた。確実に弱って行く婆ちゃんを目にしながらも、心の何処かで起きるはずの無い奇跡を拠り所に楽観視していた。奇跡など訪れはしないのに。どんな弱者にも、どんな状況の者にもタイミングなど見計らって悲劇は訪れてはくれない。強くなるまで待ってなどくれない。

 そんな当たり前にいまさら気が付くなんて、一番大切な人の死を持ってしか気づけないなんて。不甲斐なくて、悔しくて、情けなく愚かしかった。婆ちゃんに頼まれた事の報告もしてあげれてない。何か婆ちゃんの安心するような答えを伝えてあげたかった。それどころか安物の鉛筆一本渡せてやれていない。何もしてあげられなかったし、何も返す事が出来なかった。俺は分かっているんだ。婆ちゃんの一番の心配事。気懸りは俺だ。残して行く俺の事をどれだけ心配しながら逝ったのか。せめて婆ちゃんに一人でも大丈夫だから安心してねと伝える事だけでもできれば良かったのに。

 そう考えているといかに自身が無力であるかを顧みるばかりになり、次第に哀しみは怒りに転換されて行った。

 今まで一人で何も出来なかった俺が、一人で大丈夫だから安心してくれなどと虚言が吐ける訳も無く、これから何かが成せるはずも無い。婆ちゃんさえも居なくなってしまったのに。

 握っていた祖母の手を放してしまうと、自身を責め苛む言葉に憑り付かれた。祖母の布団から手を引き抜くと体の中央から熱い怒りが込み上げて来た。


 ほらな、お前は奇跡さえも諦めてしまったよ。こんなに大切な婆ちゃんの事を諦めたよ。自分なら治せたのでは無かったのか?ひとしきり自分の為に泣いたらもう満足なのか?薄情な奴め!結局は自分の事ばかりだ!そうやってお前が不甲斐ないから婆ちゃんは苦労して苦労して苦労して苦労して死んだんだ。お前が苦労を掛けたから死んだんだ。お前が居なければ、お前が来なければこんな苦労をして、こんなに苦しんで死ぬことも無かっただろうに。あんなに袋いっぱいにガラクタ買い込んで、自分の無能を物で補おうと?婆ちゃんの不自由は物に補助を任せて自身は責任を果たした気にでもなるつもりだったのか?本当はもうすぐ別れが来ることも分かっていただろ。分かって居ながら目の前で婆ちゃんが苦しんで死んで行くのを見たく無かったんだろ?だからお前は居合わせ無い様に逃げていたんだろ?分かっていただろう時間の無い事を!もう一度なんて願っても叶わないことも!理解しながら無知を装って逃げたんだろ!


 ハルトは叫んでいた。

「そうだよ!全部俺がわりーんだよ!俺だって我慢して来たよ!足りない部分だって自覚してたよ!けど一人だったんだよ!ばあちゃんが居ないと独りぼっちなんだよ!何でばあちゃんが居ないと俺は一人なんだよ!皆何処に行ったんだよ!父さんは何やってるんだよ!母さんは何であんな事したんだよ!どうしてこんな時に一人なんだよ!ばあちゃん」

 またハルトは祖母の胸に縋って泣いた。そのまま子供のように祖母の胸でいつの間にか眠った。

 肩を揺する手で起きた。目線の先には祖母の顔が見えた。穏やかにやはり死んでいる。肩を揺する手の先を見ると婆ちゃんの兄さんが居た。俺にとっての大おじだ。難しい顔をしている。

「ハルト。遅くなって悪かったな。大変だったな。大丈夫か?」ハルトは質問に答えず朝になったのかと室内の明るさにそう感じた。

 伯父さんは婆ちゃんの横に腰を降ろすと、頑張ったなと言って子供を褒める様に婆ちゃんの頭を撫でた。

「ハルトは最後に立ち会えたのか?」そう言った伯父さんの目には涙が浮かんでいる。

 ハルトは何も答えられず歯を食いしばって涙を落とした。

「そうか、今は泣けば良い。泣いて送ってやれ」そう言って俺の肩に手を置いた。大きな大人の手だった。

 おじさんはまた婆ちゃんの横に腰を降ろすと、子供みたいにポロポロ涙を流して泣いた。大人からただの兄に戻って泣いている。

 朝の陽ざしを取り込む室内は死を取り込みながらも穏やかで、この部屋の中央で婆ちゃんが眠っているかのように死んでいる。・・・この光景をどこかで・・とフッと脳裏をよぎるが刹那、強い頭痛が襲う。

 俺は二人にさせてあげた方が良い気がして部屋を出た。

 婆ちゃんの荷物を片付ける位の事しか思い浮かばず、使っていたベッドへ向かった。ナースステーションを通るとナース達が朝の雑事に忙しそうにしている。人が一人死んだ。俺の婆ちゃんだぞ。それでもここでは些細な事なんだ。死ぬまでの容態の変化の方がよっぽどの大事。死んでしまえば何をする訳でもない。次の仕事にかかるだけだ。異常だ。死がここでは日常なのだから。ここは人の死ぬ処では無い。

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