第30話 優しいなんて嫌い

 当然バイトには遅れた。偉そうな大人にも怒られた。「だから何だ」そう思っている。

 俺はこの数十分の間にこの世の本質を掴んだ。それは、誰かが望むものを提供し、与えることで報酬を得るということだ。会社であれば社会に必要なものを提供することで金を得る。個人であれば人に施すことで幸福感や存在意義を得るのだ。そこには等価交換が成り立っていると言う当たり前の事を身を持って認識した。そう心得ると人に何かを贈ることや他者の為に行う自己犠牲を清々しい気持ちで受け入れ実行出来る。

 バイトと言う契約はあれど甘んじて安い時給で搾取されているのも、特にすることも無いからであって、金に換算できない重要な行いにかける時間とどちらに費やすかの選択を迫られれば間違いなく今回同様の選択をする。その選択を他者に如何に責められようと自分の正信に則った行動を改めたり、悔いたりはしない。しかし、バイトを完全にすっぽかして病院に向かわない処が自分らしいなと思う。

 バイトに遅刻し、大人に怒られ、傍から見ればだらしの無い無気力な若者のように完全に見えていただろうが、裏腹にハルト自身は婆ちゃんの助けになるのは自分しかいないと言う使命感と信念が全身に活力としてみなぎっていた。

 事務所からバイトの待機テントへ移動して意気揚々とシートを掻き分けて入った。誰もいない。荷物を隅に置きコンビニの袋から仕掛け付のカップ酒を取り出してパイプ椅子に腰かけた。ここまで遅刻したのだ、今更少し急いだところで大して変わりはしないだろう。

 カップ酒の底の『強く押す』と書かれた部分を指示の通りに押すと、「ジュッ」っと音がしてカップが徐々に温かくなった。

「おおっ凄い!」と一人歓声を上げて、カップの蓋をめくった。日本酒の温かな芳香が鼻孔に猫のように身を摺り寄せてじゃれてくる。カップの淵に柔らかく口付け、芳香と共に酒を口に招き入れる。

 美味い!最適な温度加減!天才だ。これを作った人は天才だ。顔も知らない他人を称賛した。二口目を迎えに行くと背後から「こらっ」と声がした。

 ビックリして肩を上げた為、カップの酒が淵ギリギリを踊っている。零れたらもったいない。酒が落ち着くのを待って声の方へ向いた。江島さんが立っていた。

「こら。何を一人で楽しんでいるんだ。外まで良い匂いがしたから思わず持ち場を離れて来てしまった、私の分はあるんだろうな?」

 本当だとしたら犬以上の嗅覚だ。

「あぁ江島さん、いつの間にそこに。お疲れさまです、ビックリしましたよ。全然気配が無かったから気が付かなかった」

 江島がハルトの横に腰を降ろした。

「美味そうに酒を啜って楽しんでいるね。酒ってのはね、ただ飲んで美味いってもんじゃないんだ。その時の感情を誇張して高揚させてくれる。そんな興奮剤の様な一面があるからそれを求め、習慣化し、止められなくなる。つまりハルト君に何か良い事が起こった。更にその感情を高ぶらせる為に吞んでいると見たがどうだい?」

「御見それしました。さすが江島さんです。その通りです」

「何があったんだい?差支えなければ教えてくれないか?」

「何もありません。特別なことは何も無かったんです。ただ気が付いただけなんですよ」

「何を?」

「自分のなすべきこと、イヤ、自分に出来る事をですかね。例えば大切なものが目の前にあるとしましょう。とても大切なものなので、常に自分で持っておきたい。そう思うのですが、どう持って良いか分からない。だから仕方が無くその周りをどうしよう、どうしようってオロオロしながら回っていた。けれど急にその大切なものの抱え方が解った。しかもそれは僕にしか出来ないことだと同時に解った。みたいな感じです」

 興奮気味にハルトは語った。

「それは良かったね、何の事だか分からなけど。わざわざ例え話で説明するその回りくどさ、君はB型かい?」

「分かります?あまり言われないですけど」

「分かるよ、私もB型だ。しかし、凄いじゃないか若くして大切な事に気が付くなんて。さっきの例えは、何か大切な人にしてあげられる事と方法が解ったって事の例えなのかな?」

「敬服いたしました。正にその通りです。病床の祖母がいまして、その祖母に何がしてあげられるのかと日々悩んでいたんです」

「そうか、ハルト君は優しいね。そうやって孫に慮って貰えるだけでも幸せな婆さんだと私は思うね」

 他に取り柄もないですからとハルトは照れた。

「優しいってことは口先で思いやる言葉を軽々しく発する奴の事じゃない。心の在り方、構え方の問題なんだ。自分が他者にどの様な扱いを受けようとも、同様の報復を望まず、他者に対して変わらぬ姿勢で接することを心に持ち、貫ける人間こそが優しい人間なんだよ。その決意によって産まれた信念は自分を助けることもあれば、自分を苦しめることもある。曲げる事が出来ないからね。ただし、心を括った人間は強い。君は若くしてそこに至ったのだから素晴らしい。その説明を軽薄で汎用な言葉を使わずに自分の感覚による例えを用いた事がハルト君が信に優しい人間だと言うことの証明だね」

「あぁこれ、渡すの忘れていました。先日助けていただいたお礼です。エジマさんの分のお酒です」

 ハルトはコンビニ袋をガサゴソと掻きまわした。

「ハルト君聞いてた?結構良い事言ってたよ!僕」

「聞いてました。まずは飲みましょう」

 疑いの表情を浮かべる江島にカップ酒を手渡した。

「聞いていたならいいけど。改まってお礼なんて要らなかったのに、けど物が物だけに頂いておこう」

 江島は拝むように両手で受け取って頭上に掲げた。

「これ凄い仕掛けがあるんです。カップの裏を押してください」

 江島は言われるままにカップの底を押し込んだ。仕掛けが作動し、ジュッと鳴ると忽ちカップが温もりを帯びた。

 江島は口元を押さえて絶句し、目を見開いてカップを見つめている。

「ハルト君!まさか管の底を押しただけで熱燗が出来てしまったと言うのか?そんな時代が来てしまったのか?この私が只々老いぼれてゆくだけの日々を過ごしていた中、この様な偉業を達成している人間がいたなんて」

 江島の興奮が口調から伺えた。

「イヤ、まて。まだ称えるには早すぎる。問題は味だ、こんな温め方をしたんだ、アルコールが飛んで香りや風味が損なわれているかもしれない」

 カップの蓋を激しく開けた。江島のそんな様子をニヤニヤしながらハルトが見ている。江島はカップに鼻を近づけて香りを深く吸い込んだ。

「あぁいいぞ!香りも問題ない!ならいよいよ味だ」

 江島のカップを握る手に力が入る。酒はまるで止水されていた水が田畑へ流れ込む様に江島の口に吸い込まれた。

「美味い。ケチの付けようが無い」

 江島は何故か項垂れている。コーナーポストに帰ってきたボクサーのようだ。

「凄くないですか?」

「凄いよ、これ凄すぎるよ。浅間山荘事件のTV中継で見たカップラーメン以来の衝撃だよ。ありがとうハルト君」

 そう言うと顔を上げた江島の横顔は、心なしかつい先ほどよりも老けて見えた。

「長生きはするものだね。ところでハルト君、あと何本あるんだね?」

 六本です。とハルトが答えると同時に二人はカップを掲げて杯を重ねた。

 江島の表情は今度は少年の様に見えた。

「江島さん、僕は優しいって言葉嫌いです」唐突にハルトがしみじみと言った。

「ん、何?さっきの話?聞いてたの?なんで?」

 ハルトは二本目のカップ酒の仕掛けを作動させた。

「僕は優しいって言葉が嫌いです」

「さっき聞いたよ。突然だなぁ。B型って絶対言われるでしょ」

 ハルトはカップの酒を煽った。

「優しいって誰にでも当てはまる言葉じゃないですか。誰かの良いところを十個上げろって言われたら万人に必ず該当する項目ですよ。ビンゴカードの真ん中みたいな。だから優しいって言葉で個人の人格を表現するのは何も言ってないのと一緒だと思います。あいつは優しい奴なんだよと、あいつ飯食ったらうんこする奴なんだよは、同じことですよね?どちらも当たり前であります。みたいな」

「ハルト君って酔うと絡むタイプ?」少しハルトから身を離した。

「違います。思っていることを言っているだけです」江島に椅子を寄せた。

「私はね優しいって表現は個人の人間性を十分表現できる言葉だと思うよ」

 何でですかと更に椅子を寄せた。

「近いなぁ、まぁ正確には人間性と言うより、関係性を表す表現かな優しいって。優しいって言葉を具体的に言い換えると、自分の都合の良いように取り計う他人の行為に対して評する言葉だと僕は個人的に思う。仮にその行為が評する本人では無く第三者に向けられたものだとしても、それを見ていた評する者は、人は私の定めた道徳感に準ずるべきと言う都合に一致する為、優しいと評す。つまり、優しい人って表現はこの人は私や私の周りに尽くしてくれる関係性を築いた深い間柄の人間ですよと宣言する意味を含んだ言葉だと思う。だから優しいって言葉は誰にでも使う汎用的な言葉ではなくてお互いを良く知っている同士が関係性を表す素敵な言葉だと思うよ。僕はハルト君のお婆ちゃんが優しいかどうかは知らない。けど、君が優しい事は知っている。その君がお婆ちゃんを優しいと表現するならそれだけで僕は君のお婆ちゃんの人間性を無条件に疑う気が無くなる。それが優しいって言葉の効能だと思う」

「俺、江島さんのこと婆ちゃんに優しい人だって紹介してもいいですか?」

「ははは、良いよ。私も優しい人として腹を括らなくちゃいけないな。ハルト君、君は優しい人間だ、君が優しくある為に決めたルールにきっとこの先君を苦しめる事があるだろう。負けちゃいけないよ、僕はいつでも優しい人として君の力になろう」

「ありがとうございます!今日は飲みましょう!俺外で焼き鳥でも買ってきます」

 立ちあがったハルトのポケットで携帯が鳴った。

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