第28話 父の手紙

 母さんの日記はこのページで終わっていた。気になる部分だけを読んだが、この日記には母さんが言葉にしなかった俺たちへの苦悩と葛藤が、そして何より愛が詰まっていた。

 読むべきでは無かったのでは。

 今更ながらに後悔に近い様な疑問が浮かんだ。

 人に言えない事もある。それでも自分の心にとどめて置けないこともある。信仰を持たない多くの人達は神に懺悔するなどの精神の擁護処置の代わりに、紙に書留め罪の意識を預けるのだ。母さんの日記も類に漏れずその役目を果たしている。

 それを覗き見るのだ、自ずと同じ枷を負うことになる。それは家族であれば事実他人事では無い。

 サクラに手を上げた母。その日の日記は何よりもショックだった。どれ程母さんが追い詰められて一人で悩んでいたのか、いかに当時の自分が無力だったのかを思い知らされた。                 

 活かす場の無い反省は後悔と呼ぶ他ない。反省を活かす相手も慰める相手も居ないのだから。

 母さんが日記に残した自責の念をも流れ込むに任せて取り込み、五臓六腑が負の感情で満杯になった。そいつを排出する術を知らない俺はそれが自然と気化減退していくのを待つ以外にない。

 負の入れ物は既に表面張力によって辛うじて零れずにある状態だ。魚眼の様に膨れた哀しみは空虚な中空を見つめている。

 今日、これ以上何事も受け入れられない。

 枕に顔を埋めて、上方に日記を投げ出すと紙の擦れる乾いた音がした。音の方向に目をやると脱ぎ捨てたジンズのポケットから白い封筒が飛び出し、放った日記に押しつぶされている。

 もう見たく無い。何も。目を逸らして布団に顔を再度沈めた。

 ・・・

 毟る様に封筒を引っ手繰った。このまま寝むれる訳がなかった。

 乱暴に二つ織の便箋を引っ張り出して広げた。数行の文章が書かれているだけだ。しかし、その文章の一行目から目が離せなくなった。


『娘を殺したのは私です』そう手紙は始まっていた。

『妻は私を庇っています』

 高鳴る鼓動は全身から動きを奪った。意識は文章を追う眼球に限定された。文章はこう続く。

『今になるまで打ち明けることが出来ず、この様な形で責任を取ることを申し訳なく思います』

 見慣れた字体で。これは

『無理なお願いだとは思いますが残された家族をどうかそっとしておいてください』

 たった数行で手紙は終わった。

 これは、これは何だ。短い手紙の文章を何度も読み返した。

 娘を殺したと書いてある。

 妻は私を庇っていると書いてある。

 残された家族をと書いてある。

 そして最後に父さんの署名が記してある。父さんの字で書いてある。手紙も署名も。

 冷静にみてこれが何であるか分からない筈も無い。

 血の気が引いた。特急列車が通過する様なリズムで胸が鼓動し、血液を送り続けているのに、頭にだけは血液が流れ込まないかの様に顔面は蒼白だ。

 遺書だ。父さんがサクラを殺したことを認め、死をもってこの罪を償うと、そう書いてある。

「あの子が本当に殺したのかしら・・・」

 婆ちゃんが病室で口にした疑念の言葉がハルトの頭で反芻と反響を起こしていた。

 この遺書は、ばあちゃんが疑念に思って居たことが現実だったことの証拠?母さんは父さんを庇うために刑務所に収監されている?サクラを殺したのは本当は父さんで、真実はこんな薄っぺらな紙に託されて白日の下に晒されるのをまっていたのか。

 けれどそれではおかしい。辻褄が合わない。

 これが真実なら、なぜ母さんが今刑務所に居て、なぜ父さんはまだ生きているのか一つもこの遺書に書かれていることと辻褄が合わない。

 この遺書が語る通りのことが事実なら、この世界には父さんは居ない。そして母さんはこの家で俺と共に過ごしているのだろう。だが今はそのどちらでもない。

 この遺書の意味は、目的は何なんだ。父さんは何の為にこの遺書を書いたのか。

 悪戯にこんなものを書くとは思えない。

 もしかしたら書かれていることは事実であるのかも知れない。

 もしかしたら、母さんを庇おうと書いた遺書なのかも知れない。

 憶測は様々浮かぶ、では実際に何をしたらいい?

 ソウゴ達に相談してみようか。そんなこと他人に相談してどうする。こんな相談してもあいつらを困らせるだけだ。

 父さんに電話でこれは何だと聞いてみようか。電話で済ますには話の内容が重すぎる。直接会って話して、父さんの表情や反応を見ながら話をするべきでは無いか?

 母さんに面会して見たことがあるか尋ねようか。もし、母さんが何も知らなかったらどうしよう?余計な混乱を与えるかも知れない。なら逆に全てを知っていて、遺書の通りになるのを待っていたとしたら?俺は見なかったことにするべきなのでは。いや、そんな馬鹿なことは止めろと父さんを説得するべきか?大体父さんは何時帰って来るんだ。

 ハルトは遺書を封筒に収めると、畳の上に投げ出した。布団の上にドカッと腰を降ろすと遺書について考えるのを止めた。分かっていたことだ。結論など出せないことは。

 今までの人生で悩んだり助言の必要なときに誰に助けを求め、誰がそれに答えてくれていたか、婆ちゃんだ。婆ちゃんが病気で入院しているから自分で答えを出さなくてはと足掻いてはみたものの、人生最大の苦悩とも言える判断を一人で背負える訳などない。婆ちゃん無くして是非もなしといったところだ。昔、婆ちゃんと絶食実験をして普段食べている当たり前だと思っていた食事の尊さを教わった。今は当たり前だと思っていた婆ちゃんと共に過ごすことの尊さを実感している。いちいち失わなければ心得る事の出来ない自分の愚鈍さに嫌気がさす。その反面、婆ちゃんに相談すれば何とでもなる。そんな信頼からくる予感を超えた決定に近い確信が心を強くした。婆ちゃんに相談しようと結論付けてしまえば気が楽になれた。

 どうしようとあれこれと悩むのは止めた。けれど、なぜ父さんはあの遺書を書いたのか、その一点だけは意識せずとも自然に頭に浮かび、とても睡眠が得られる気がしなかった。もし、父さんが今日帰って来たなら直接話を聞こう。そう決意して布団へ潜り込んだ。

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