第27話 母の日記と 3

 今日が久々に晴れ。溜まった洗濯物が全て片付いてスッキリです。

 予定も無かったので、サクラに合わせて時間を使うことができました。サクラは放っておくといつまでも人形を並べています。ルールは分からないけれど何度も並び替えて同じことを繰り返していました。サクラに強制する予定が無ければ手もかからず、一人で遊んでくれて、こんなに楽なこともないのかなぁと少し前向きに考えられる様になりました。それにしてもいい天気。もうすぐ春です。


 昼頃小学校からハルトが喧嘩をしてクラスメート三人に怪我をさせたと連絡があったので学校へ行った。職員室のなかには喧嘩相手の子とその親御さんがすでに来ていて先生へ物凄い剣獏で散々抗議していた。その脇で子供が二人顔を腫らせて泣いていた。その怪我じゃ抗議も当たり前かと思う程顔が腫れていた。もう一人は歯を折って病院へ行ったとのこと。これをハルトがしたことだなんて信じられなかった。理由も無く人に手を上げる子じゃない。

 そこに他の先生に羽交い絞められる様にハルトが入って来た。まだ興奮していて、怪我をさせた子を睨みつけ、先生の手を振り払って今にも飛掛りそうな勢いだった。私の事など目に入って居ない様で声を掛けても見向きもせずに相手の子を威嚇していた。他のお母さん達が我が子を庇いながら金切り声を上げる姿にまるで現実に捉える事が出来なかった。

 あれがハルトなの?まるで獣の様に身悶えるハルトに私は抱きしめてあげる処か手をさし延ばすことさえ出来なかった。ハルトが今まで喧嘩なんてしたことも無かったし、家でだって多少の反抗はあれどもあんなに感情を剥き出しているハルトは初めてだった。

 怪我をさせてしまった子供達には悪いけど私は何よりもハルトの事が心配だった。

 喧嘩の原因はハルトが怪我をさせてしまった三人の子供達がハルトの友達を苛めていて、ハルトがそれを止めようとしたのが発端らしい。私は遣り過ぎたとは思うけどハルトを誇りに思う。偉いぞハルト!少しハルトの怒り方にはビックリしたけど、他人の為にあれ程感情を剥き出して怒れるハルトは今思えば凄い事だね。あの時の職員室での反省点があるとすれば私の母親としての不甲斐なさだけだ、また一つ反省です。

 けどハルトと帰ってきてから言い合いをしてしまいました。今日の学校でのトラブルをハルトの口から直接聞こうとしたのにわざとなのか、何を聞いても呆けたように知らない。忘れた。覚えてない。のオウム返しで話にならず一応怪我をさせたことはいけないことだと諭そうと思っていたのに、結局感情的に叱りつけて曖昧に話を終わらせてしまった。あぁ、私は何て未熟なのかしら。ごめんねハルト。落ち着いたら改めて話をしなくちゃな。明日は怪我をさせた子に謝りにいかないと。



 この日だ。さっきミズキ達が言っていたのはこの日のことだ。俺は・・・覚えていない。知らないのだとハッキリと言える程、頭の中に記憶の欠片さえ無い。けれど、この日記に書かれていることも、ミズキ達の言っていたことも事実として俺の過去なのだ。これだけの事を忘れるはずが無いのに。

 思い出せ 思い出せ 思い出せ 思い出せ 思い出せ 思い出せ 思い出せ

 枕を投げ飛ばし布団に額を打ち付けた。思い出せ。

 頭の芯が疼く。記憶では無く痛みが頭の深い位置から沁み出すように全体に広がって行く。

 思い出せ 思い出せ 思い出せ 思い出せ 思い出せない 思い出せない 出せない

 頭が痛い 痛い 思い出せ 痛い 痛い 出せ 痛い 痛い 出せ 痛い 痛い 出せない 出せない 痛い 出せ 出せ 出せ 出せ 痛いぃぃ 痛いぃぃぃ

 いつの間にか呼吸を忘れ必死に額を布団に押し沈めていた。汗が噴き出し首筋を伝っている。思考を停止させる激痛に耐え切れず頭を跳ね上げた。

 水中からもがき逃れた瞬間の如く酸素を求めた。

 思い出そうとするのを止めると頭蓋骨に幾つも打ち込まれた氷の矢がゆっくりと氷解して行くかの様に不思議と痛みが引いていく。

 呼吸が落ち着くと布団に頭を降ろし、呼吸のリズムを整え、布団の端を強く握りしめていた拳を緩めて全身の力を抜いた。

 泣いていた。額から伝う汗と共に涙が頬を次々と伝った。

「・・・なんで、なんで俺だけなんだよ。なんでだよ・・・」

 この問いに求める答えは一つでは無い。自分が今一人きりでいる現状。過去を思い出せない実情。サクラが殺された事情。知りたくとも聞く相手すらここには居ない。

 本当は答えなど求めては居ないのかも知れない。ただ、一人で居ることが辛かった。それだけがこの文句の全ての意なのかもしれない。

 ハルトは脱力した腕を伸ばし、母の温もりの記憶を求め再度日記を手繰り寄せた。


 今日からサクラに少しずつ単語を覚えさせることにしました。まずは他の子と同じ三歳レベルの単語を覚えることを目標にした。

 昨日買ってきた単語カードを使ってお勉強を開始したけど、あんまりサクラは単語カードに興味を示してはくれず出だし好調とはいかなかった。ハルトもサクラの横に宿題を広げて一緒に勉強に興味を持たせようと頑張ってくれたのに残念だなぁ。けど最初から上手くゆく事なんて無いよね、サクラ。お母さんと一緒に頑張ろうね。サクラ自身が色々な事を身に着けて強くなって行かなきゃだからね。


 サクラの勉強は正直上手くいっていません。昨日覚えた筈の事が今日はまた出来なくなっている。犬のカードで犬を覚えた筈なのに、別の本の中で犬を見せてもまるで犬と認識してくれない。それに単語カードよりも説明書に興味があるようで、意味も分からない筈なのに延々と見ていて、勉強が全く進んで行かない。取り上げれば泣くし、放っておけばいつまでも終わらないし、どう教えて行けばいいのだろう。


 サクラは最近シャワーを嫌がり始めた。適温に調整しているのにお湯を当てると、体を仰け反り痛そうに顔をしかめてシャワーに怯えて泣く。これはきっと先生が言っていた知覚過敏の症状が出始めていると思う。サクラは他の子より肌に対する刺激が過敏になってきているみたいだ。それに、ハルトやお父さんにバイバイが出来る様になったけど、手を振るときに自分の掌を相手にでは無く、自分に向けて手を振る。それは相手の行為を自分に置き換えて再現出来ない自閉症特有の症状らしい。

 サクラが自閉症であることは既に認識も覚悟もしてた。けど、この先の見えない症状の程度の問題がいつも私を苦しめる。

 一つ乗り越えれば他の問題が併発し、一つの問題に向き合えば他の問題がおざなりになる。解決出来ない問題ばかりが累々と転がり足を取る。そんな現実にサクラは何処の子よりも自閉症の症状が重いのではないのか?際限無く新しい症状は出続けるのでは無いか?そんな疑問と不安ばかりで頭がいっぱいになってしまう。

 サクラが強く成長する為の方法を考えてあげなくてはいけないのに、そんな恐ろしい未来ばかりに思考が逸れて怖くなってしまう。

 誰か教えて。私のしていることは意味のあることなの? 


 私は親として、親どころか人として最低だ。バカでクズでクソでカスだ。私がこんな人間だからサクラが障害を負って生まれてしまったんだ。全部が私の所為だ。私の所為なのに、上手く行かないイライラをサクラの所為にして、サクラに手を上げてしまった。叩いてしまった後のサクラの目が忘れられない。信じる者に裏切られた人間の目。この世で唯一頼れる存在の家族に頬を打たれる事がどれ程のショックだったろうか。手を上げればどうなるか、そんなことも冷静に考えられない程感情に任せて突発的に叩いていしまった。さくらに手を上げてしまった自分が怖い。また、手を上げない自信の無い私が怖い。サクラを叩いてしまうこの腕ならいっそ無い方がいい。この二本の腕と引き換えにサクラの病気が治るのなら躊躇うことなくこの腕を差し出すのに。そんな都合のいいことは起こらないよね。

 サクラごめんなさい。本当にごめんなさい。もう絶対にしないからね、この不出来なお母さんを許してね。いいお母さんになるからね。ごめんなさい。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る