第26話 母の日記と 2

 小児神経科を受診しました。

 自閉症。サクラはそう診断された。経過観察を続けながら正式に診断すると言われたけれど、現状を診断した結果は自閉症と判断せざるを得ないそうだ。アスペルガー症候群とか、他の病症名も先生は口にしていたけれど私はサクラが病気であると宣告された衝撃が大きすぎて細かな事まで受け入れる余裕が無かった。正直に告白すれば私だって薄々は分かっていた。サクラは普通の子供達とは違うんじゃないかって感じていた。けれど、いつか他の子供達みたいになる日が訪れるんだって信じていた。と言うよりも、願っていたと言った方が近い表現かもしれない。

 正直、先生に自閉症だと宣告されたとき心の中ではやっぱり病気だったんだと思ってしまっていた。

 自閉症は人それぞれ様々な症状がでるらしい。サクラの口数の少なさや、感情表現の乏しさ、最近の一人遊びや物への異常な固執もその症状と一致するらしい、思い返してみればおかしいと感じることはいくらでもあった。そのどれもがサクラの病気を証明していたのだ。

 先生は自閉症は育て方の問題では無く、元々サクラに遺伝的な要因があった為に起こる病気なのだと説明してくれた。けれど、そんな言葉に救われる親が居るだろうか?

 育て方に関係なくとも、私たちの遺伝子を受け継ぎ、私のお腹の中で育ったあの子に異常があったのだ。親に責任が無いなどと思える筈がない。私はサクラを普通に産んであげられなかった。それが悔しい。

 自閉症、この病気は治ることは無いのだそうだ。それが一番のショックだった。症状が成長と共に軽くなるケースもあるし、またその逆もあるそうだ。

 サクラがこれから歩む苦難を思うと、耐え切れない不安に胸が押しつぶされそうになる。

 どうにか少しでも私たちがサクラを良い方向へ導いて、幸せな未来へ向かわせてあげたい。お父さんに相談したいことが沢山あるけど、今日は遅くなるそうです。


 サクラの病気が解ってからは心配していつもよりも早くお父さんが早く帰ってきてくれる様になった。けれど、最近の私は少し精神的に不安定で今日は酷いことをお父さんに言ってしまった。今更早く帰って来てもサクラは良くはならない。今までお父さんが居ない時間が多かったからサクラが自閉症になった。とか、お父さんを責めて責任を押し付ける様なことを言ってしまった。私は最低だ。お父さんだって頑張って仕事をしてくれているのに、その頑張りがサクラの病気を引き起こしたみたいな言い方をして責めてしまった。

 母親の私がこんなに卑しい人間だからサクラがこんな病気になってしまったんだ。お父さんもサクラも私の被害者だ。みんなごめんなさい。


 お父さんが三日間休みを取ってくれました。今日はお父さんが子供たちの面倒を見てくれたので私は久々にサトコと二人で映画を見て、珈琲を飲んでお喋りをして息抜きをさせて貰いました。気持ちが楽になりました。ありがとうお父さん。


 お母さんが私達との同居を申し入れてくれた。最近の私の疲弊ぶりを心配してくれている。けど、私は断った。私が母親として未熟なのは認める。それは努力で乗り越えられる。サクラの病気を理由に日常生活の支援を頼りたく無い。サクラを言い訳にして逃げることは未熟な母ですら無くなってしまう気がする。私はサクラとハルトの母でいたい。母さんの気持ちはありがとうこれからも力になって下さい。頼りにしてます。


 今日は四人で動物園に行きました。初夏の陽気で温かくて最高の行楽日和でした。

 サクラは何でか分からないけれど、サイが気に入った様でいつまでも見ていました。その横で一生懸命にサイの知識を披露するハルトの姿がとっても面白かった。すっかりお兄さんになったハルトは最近益々頼もしい存在です。

 並んだ二人を見ているとまるで問題なんて何も無い普通の兄弟に見えた。イヤ、本当は問題なんて最初から何も無かったのかも知れない。私がサクラを他の子と違う部分を問題と捉え、誰よりも意識して問題視していただけなのかもしれない。並んだ小さな二つの背中。この幸せな時間の何処に問題があると言うのか?もし、この子に問題が有ると非情にも指差す人間が居れば私は、私達家族は全力で戦う。そしてこの子を守り抜く。

 けれど、私の手の届かない処でサクラに理不尽や差別が襲い掛かることもある。所詮他人など本気で弱者の盾にならない。サクラ自身も私も共に強くなって行かなければいけない。自分自身で活路を切り開く力を身につけなくてはいけない。大丈夫。きっとサクラの未来は明かるい。 



 布団に俯せの姿勢で日記を読んでいた。冷えた肩に布団を引き上げる。枕に顔を埋め、肩に掛っていた力を抜いた。

 この日記には子供心に感じていた母さんの不安が隠す事無く綴られている。当たり前だ、日記は誰かに見せる為に書くものでは無い。むしろ誰にも見せないからこそ本音が書けるのだ。 

 母さんの無邪気な笑顔が浮かんだ。次に心配そうにサクラを伺う横顔が、脈絡無く母さんの様々な表情が浮かんでは消える。不安を悟られまいと隠し、俺の前で明るく振る舞う母さんの姿、それも不安を悟られない為の演出だったのかも知れない。

 他人から見れば歪んで痛々しい家族に見えてしまうのかも知れないけれど、俺は家族の一人として自分の担う役割を認識していた。そして、それを務めることが家族として当然だと感じていた。求められる自分でいる努力をしていたし、自分がこの家族の要だと、この家族を守り繋ぎとめているのは自分だと過剰とも言える使命感を背負わされるのでは無く、自ら背負って過ごしていた。そんな思いが日々の原動力だった。

 そう思い始めた決定的な日の事を覚えている。

 学校から帰るとサクラが癇癪を起して泣いていた。母さんがその横で懸命にサクラを宥めている。この頃はよくある光景だった。母さんがサクラの癇癪の原因を探って必死に向き合って話を聞こうとしている。サクラは泣いているばかりで何も教えてはくれない。

 玄関に靴を脱ぎ捨てて走りよると、母さんはサクラがもっと公園で遊んでいたかったから泣いていると思うと言った。どうやら昼食を食べる為に戻ってきたがサクラは遊びを続けたく、それが気に食わなくて泣いている。そういう事らしい。

 確かに母さんの言う様な理由でサクラが癇癪を起して泣くことも多々あった。

 ランドセルを下してサクラの横に屈み目線を合わせた。瞳を覗くといつもの癇癪とは違うような意志を宿した潤んだ瞳で足元に視線を向けている。

「サクラどうしたの?」

 尋ねるとサクラは一瞬だけこちらにくしゃくしゃになった顔を向けると「ハルゥ」と含みのあるイントネーションで訴えてまた顔を足元に向けてぽろぽろと涙をこぼした。

 サクラはこの頃会話をまともに交わすことが出来なかった。語彙は同年代の子と比べても少なく僅かな単語を話すだけだった。しかもその単語さえ頭文字の二文字だけを話す程度で会話らしい会話は成立しなかった。けれど、コミニュケーションが絶交していたわけではない。

 サクラは僕の事を「ハル」と呼んだが、僕はサクラが発する「ハル」の微妙なイントネーションの違いで大まかなサクラの心情を受けて取れた。

 その時は「ル」が少し下がるイントネーション。そういう場合は何かに困っているか、助けをもとめている場合だ。このイントネーションの微妙な違いは家族の中でも俺にしか分からない程のサクラの心の機微の表現だ。

 しかしサクラの心の趣を察することが出来たとしても、その原因が明瞭になる訳でない。

 サクラは何を助けて欲しいのか?

 注意深くサクラを観察すると上目使いにチラチラと机の上を伺っている。そこにはいつもサクラが遊んでいる指人形がいつもの通り整然と並べられている。左右前後、等間隔に横に三列、縦に五列。種類の配置規則は分からないがいつも決まった位置に決まったキャラクターが並んでいる。そこに一か所不自然にぽっかり間が空いている。

「サクラ、もしかして人形が一つ無いの?」そう問うとサクラの泣き声が増した。

 先程と同じイントネーションで僕を呼ぶ。間違いなさそうだ。

「お母さんサクラの人形が一つ無いんだよ」

「え、人形?指人形が一体無いの?それでサクラ泣いていたの?」

「そうみたい、人形何処にあるか分かる?」

 少し考えてからお母さんが答えた。

「さっき公園に持って行って遊んでいたのよ、全部持って帰って来たつもりだったけど、忘れて来たのかしら?お母さん人形が上手く並べられなくてサクラが泣いているのかと思った」お母さんはサクラを見ながら両の手を顔の前で強く合わせて握った。

「違ったんだね、ダメだねお母さん。全然サクラのこと分かってあげられてないね」

 そう言って僕に作った笑顔を向けたけど、僕には悲しそうに見えた。

 三人で公園に行きサクラの人形を探した。人形はサクラの遊んでいた砂場の穴から見つかった。サクラに人形を手渡すと、不安そうにしていたその表情は晴れて小さく笑った。

 家に帰るとサクラは一体分空いた人形の列にそっと探して来た人形を入れると小さく手を叩いて目を輝かせ、その後何度も人形を並び替えて繰り返し遊び始めた。

 それを横で見ていた僕に母さんが寄ってきて、さっき僕がサクラにした様に、今度は母さんが僕に視線の高さを合わせた。視線の合ったその瞳は濡れている。

「ハルトありがとうね」

 母さんはまた、笑いながら悲しそうな顔をしている。

「あのねハルト、サクラは少し普通の子とは違うの。自分の気持ちを上手く表現出来なかったり、お友達の気持ちを汲み取ったりすることが苦手な病気なの。だからねハルト、きっとこの先そのことが原因でサクラが辛い目に会うことがあると思うの、その時にハルトが近くに居たならサクラを守ってあげてね。サクラを救ってあげてね」

 そう言ったお母さんの顔にはもう、笑顔は無くてただ涙を流していた。

 お母さんはサクラの病気を詳しく説明しなかったけれど、その時僕にはお母さんを苦しめ、悲しませているものの正体がハッキリと分かった。そして僕の頑張り次第でこの状況を打開出来る。そんな気もしていた。

 第一にサクラが幸せでなければ家族皆が幸せを感じることは出来ないのだ。

 僕の中でサクラを守る。そんな当たり前が使命へと変わった瞬間だった。

「サクラも、お母さんも僕が守るよ」そんな言葉が自然と口をついた。

 お母さんは僕を抱き寄せると耳元でありがとうと言って泣いていた。

 あのときの母さんの声がいつまでも耳に残っている。


「あの頃に戻りたいね」誰も居ない。分かっているけど、誰かと思いを共有したかった。自然と誰かに問いかける様に続けていた。

「あの頃に戻って、やり直す事が出来たなら、俺は今一人では無かったのかな?父さんが居て、母さんが居て、そしてサクラが同じ屋根の下に居たのかな」戻れたとしたら、一体何をすれば未来が変えられるのか?当時の俺の努力は間違っていたから今の現実に行きついたのだろうか?誰も答えてくれない。答えなど無いのだろう。考えても無駄なこと考える必要の無いことばかりを考えてしまう。

 顔を枕から上げて涙を拭った。

 母さんの手に触れる様な気持ちでもう一度日記のページを開いた。


 

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