第23話 そして時間が動き出す 3

 少し休んだ方が良いと促されて父さんの椅子に腰を下した。

 深く息を吸い込み、着ていたトレーナーの袖で汗を拭った。自分でも何が起こったのか理解出来ないのだから、周りはそれ以上に困惑している。

 呼吸を整え、出来るだけ何も考えない無い様に務め椅子の背に体を預けた。天井の木目が目に入る。

 俺は一体どうしてしまったのだろう?何故思い出せないのか。何故覚えていないのか。俺は・・・おかしいのか?

 ヒカルが不安の張り付いた顔で俺を覗き込んだ。

「ハルト大丈夫?少しは落ち着いた?もう止めて降りようか」

 何が起こったのか全く整理出来ていなかったが、皆を不安にさせておく訳にはいかなかった。

「もう大丈夫だよ、心配掛けてごめん。ちょっと疲れていたからだと思う。今見てる段ボールだけ調べて終わりにしよう。そしたらお婆ちゃんには調べたけど何も無かったって報告するからさ」

 出来る限りの平静を装って答えた。

「うん、解った。ハルトは休んでて、私達で中を見てみるから。いいよね?」

 ヒカル達に頼み、椅子の背もたれから上半身を起こした。

 怖かった。また思い出そうとするのが恐ろしかった。さっきみたいな状態にまたなるのではと不安だった。でも心のどこかでは思い出さなくてはいけないと悟っていた。けれど、今度はどうなってしまうのか解らない。今は怖い。

 机の上に目をやると、段ボールから出されたアルバムが積まれている。

 アルバムの表紙には『サクラ』と、懐かしい母さんの字で記入されている。

 手に取りページを開くと、病室で産まれたばかりのサクラを緊張の面持ちで抱く俺が写っている。隣のベッドで母さんが横たわった姿勢のまま、顔だけを向けて力の抜けた柔らかい表情で笑っている写真だ。

 この日の事を今も鮮明に覚えている。正確には前日の夜からだ。

 母さんは夕飯の支度の最中に陣痛が始まった。予定日よりも十日も早い陣痛だった。

 父さんの運転する車で病院に向かい、俺は母さんの横に座って何をしてあげれば良いのか解らず、検討違いに母さんの肩を摩り続けていた。

 病室に通されると、産まれるまでには暫く時間が掛ると言われ父さんと一旦家に戻た。病室から出るときに母さんは玉の様な汗を額に浮かべてありがとうと笑った。俺は上手く笑えず、きっと情けない顔をして手を振っていたのだと思う。

 その夜は何を食べたかは記憶に無い。

 布団の中で母さんの事を思って何度も寝返りを打った。考えてみれば母さんと並んで寝ない初めての夜だった。

 あんなに辛そうな母さんを初めて見た俺は本気で母さんがそのまま死んでしまうのでは無いかと不安に包まれ、父さんに気づかれないように声を殺して枕を濡らした。

 どうして人の痛みはパンや水の様に分け与えることが出来ないのだろうと、この世の不備を呪った。分ける事が出来るのなら僕が半分持ち帰るのにと本気で憤りを覚えた。

 どれだけの時間そうして過ごしたのか、静寂のなか電話の電子音が鳴った。

 父さんの声を、耳に神経の全てを集めて聞き耳を立てた。どうやら出産が始まったらしい。

 父さんに揺り起こされた。まるで今まで寝ていた様に装いわざと挙動をのろのろと遅らせた。今日からお兄ちゃんになるのだ。さっきまで泣いていたなどと情けない姿は例え父さんにだって見せられない。

 病院に着く頃には冬の空が白み始めていた。

 病室に入ると、母さんに並んで小さなベットにサクラが寝ていた。

 病室には力強い朝日がカーテンの隙間から差込み、サクラを祝福するようにその体に降り注いでいた。

「いらっしゃいお兄ちゃん」

 母さんが初めて俺をお兄ちゃんと呼んだのが少し照れくさくて、眩しいふりをして目を細めた。

 母さんのベットに腰かけ、サクラの顔を覗きこむと、母さんが顔を寄せて聞いた。

「どう?かわいいでしょ」

 かわいい。ちょこんと小さな布団から出たその手に指先で触れてみた。

 小さなその手で俺の指を握った。握ったと言うよりも止まった。何度も何処かで見たようなベタな展開でも、自分の身に起こるとこんなにも特別なことなのかと実感する。

 母さんの問いに大きく頭を縦に振って答えた。

 幸せは自分で生み出すことは出来ない、不幸の種は自分で蒔くが、幸せの雨は人から与えられるものなのだ。 

 温かく柔らかい風船が胸の中で膨らんで満たされた。

 小さなベットから母さんがサクラを抱き上げ俺に手渡した。

 こんなにも小さいのに思っていた以上にずっしりと重く、落としてはいけない緊張から使ったことも無い筋肉を使って硬直した。顔も強張っていたようで、母さんと父さんが笑っている。

 眠そうに身をよじっているサクラは温かく、甘い香りがする。こんなに重たい子が母さんのお腹の中に居たのかと、母さんの苦労を僅かながら悟った。

 優しく抱こうと意識しすぎて逆に変に力が入っていたのだろう、腕がぷるぷると震えだした。

 俺の様子に気づいた父さんが悪戯な笑顔でファインダーを向けてシャッターを切った。用済みと言わんばかりにベットにカメラを投げた。

「どれ、父さんにも抱かせてくれ」

 そっと俺の腕からサクラを父さんが抱き上げた。

 ほっと降ろした腕がサクラの温もりと質感を残したまま痙攣していたが、強がりを言った。

「まだ抱っこしたかったのに」

「順番だ、充分抱っこしただろ、可愛いなぁ。ほら、父さんが抱っこしたから今笑ったんじゃないか?笑っただろ!」

「ずーっと寝てるだけじゃん」

 俺が言うと父さんはむきになって言い返した。

「一瞬笑ったんだ。本当に」

 皆の笑い声が柔らかな光彩の中で桜の花弁のように舞っていた。

 今だって数時間前のことに思える。差し込む光の色さえも瞬時に思い出せるんだ。

 アルバムのページを一枚捲る。

 父さん、サクラ、俺が風呂に入っている写真が張り付いている。

 家族で花見をしたときの写真。

 誕生日、ロウソクを立てたケーキを囲んだ写真。

 俺とサクラが並んで昼食を食べている写真。

 当たり前の変哲の無い家族写真が続く。このアルバムにはそんな当たり前の写真がいつまでも増えていくはずだった。

 けれど、アルバムの数ページを残して終わっている。次のアルバムに移った訳では無い。

 家族の歴史が終わっているんだ。

 ページを戻る。最後の写真は住んでいた団地の公園でサクラが地面に椿の花弁を並べている写真だ。その横で俺が両の掌で花弁を抱えて立っている。この日のことだって覚えている。

 サクラは椿の花弁を手渡すと、等間隔に花弁の向きを揃えて砂場の木枠に並べた。隅まで並べ終えると折り返し、同じ様にまた並べた。それを何度も繰り返した。

 もう十分だからと諭しても、サクラの中の目標が達成されなければ決してサクラは止めようとはしない。無理に制止しようものなら手の付けられない程泣き喚く。だから、無理に止めるのでは無く、早くサクラの作業が終わるのを手伝ってやることが最善策なのだ。

 母さんも俺も、そんなサクラの性格を把握していた。けれど懸念はいつも付き纏っていた。他人には理解し難いその個性を他人と共有することは難しかった。それが対子供となれば特にだ、砂場の木枠に並べた花弁を他の子達が避けて遊んでくれるとは限らない、避けてくれと強制する訳にもいかない。ただ、願うしかないのだ。他の子が木枠を跨ぐ度に息を飲んだ。それだけでは無い。季節が廻れば景色も変わる。それは季節を彩る草花が変化することを意味する。そう、やがて椿もその時期を過ぎれば花弁を提供してはくれない。

 サクラは変化を極端に嫌がった。異常なまでに同じにこだわる。同じもの。同じ時間。同じ手順。同じ場所。何かが変わると酷く不安に陥り怯えて怖がった。正に異常だった。

 異常とは一般的では無い状態のことを言うのだそうだ。一般的では無いサクラにつけられた一般的な呼び名は自閉症だ。自閉症患者には一般的な症状なのだそうだ。

 家族以外には懐かず、婆ちゃんにさえサクラが物心付いてからは抱かれるのを嫌がった。他人には心を開かず、近づかれれば怯えて泣いた。他人への恐怖心を示す事はあっても、それ以外の感情表現には乏しかった。自分のルールの中で遊んでいるのだから、目標が達成されれば楽しいとか、嬉しいとか、何らかの感情表現が合ってしかるべきなのだが、サクラは滅多に笑ったりしなかった。一人遊びしかせず、周りに同じ歳の子が居たとしても見向きもしなかった。近寄ってさえ来られなければまったく視界にも入らないと言った様子で一人遊びを続けていた。

 でも俺は知っていた。サクラだって笑えることを、その笑顔のとびきりカワイイことを。

 ダイヤや金は滅多に採れないから希少価値があるのだ。サクラの笑顔もそれと一緒だ。無い訳じゃない。滅多に見せないだけ、特別なだけなんだ。あの笑顔を自然に皆に見せられるようになれば、どれだけサクラがカワイイ普通の女の子なのかを言葉じゃなく、感じて知ってもらえたのに。そうすれば、サクラの個性として自閉症を認め、皆がサクラを愛してくれた筈なのに。実際に俺たち家族はそうあった、サクラの微細な心の変化を読み取り、悟り、気持ちを汲んで理解し、そして愛した。そうであった筈だった。しかし所詮他人にとってサクラは厄介な変人でしか無かったように、その認識は家族と言う最も強固だと思っていた絆の中においても侵入し、浸食した。


 そしてサクラは死んだ。


 いつのことだったろうか、母さんが俺と同じ目線に屈み、両手を取り強く握ったあの日は。温かい手で少し痛いくらいに力強く俺の手を握り、真っ直ぐに瞳を見つめて母さんは俺に言った。

「お兄ちゃん、サクラを守ってあげて」

 母さんの縋るような潤んだ目。

 俺は瞳を逸らさずに強く首を縦に振った。

 初めて一人の人間として俺が頼られた瞬間だった。

 あのときからサクラを守る。そう心に誓った。無意識にはあった俺の使命が母さんに託された任務へと変わった瞬間だった。けれど俺はその約束を果たせなかった。

 サクラは死んで、家族はバラバラになった。

 こんなことをあらためて思い出すのは久しぶりだ、昨日の事のように過去を思い出せるのに、なぜソウゴが語った俺自身の出来事が思い出せないでいるのか。

 不意に回想してしまった過去と、出てこない過去の記憶への渇望が、ない交ぜになり憤りが沸いた。

 一度気泡の様に湧き出した感情は様々な感情の呼び水となり、苛立ち。哀しみ。寂しさ。愛おしさ。負の感情が次々に胸を襲った。耐え切れずに机に突っ伏して頭を抱えた。

 もう一度サクラに会いたい。最後の写真のあの日に戻ってやり直したい。もう一度家族で笑い合いたい。決して叶わぬ願いが込み上げ、寂しいな。そう思った瞬間。流れ出る涙を自分の意志で止めることが出来なかった。ドロドロと循環する感情が次々に涙を押し出してくる。

 皆が同じ空間にいることも厭わず声を上げ、肩を震わせて泣いた。しばらくはそうして感情に任せて泣いていた。すると、肩や背中に優しく手が置かれた。四つの手が順に傷口を癒すように背を撫でた。

 何も語らぬその沈黙は、時として言葉よりも多くの気持ちを雄弁に語る。

「泣けばいい。すきなだけ泣けばいい」そのときの俺にはそう伝わった。

 ひとしきり泣き切るまで皆黙って背に手を当て待っていてくれた。

 やっと顔を上げるとヒカルが「ごめんね。辛いこと思い出させちゃったよね」と言った。

 ミズキが「ハルトの気持ちも考えないで遊び気分で辛い思いをさせちゃったよね、ごめん」と謝った。

 ソウゴは「一通り段ボールの中見たけど特に気になるものは無かった。あとこれ、お前の母ちゃんの日記だと思う。何か解るかもしれない。これは俺たちが見たら拙いだろうから、お前に渡しておく、悪かったな」

 そう言ってそっと机にノートを置いた。

 皆が悪い訳じゃない。俺は自分自身が不甲斐なくて、不安定で頼りなくそれが悔しくて耐え切れなかった。それだけのことなのだから、誰かを責めることなど出来ない。謝罪が必要なのは俺の方だ。

 跳ねるように椅子から立ち上がると大袈裟な笑顔を皆に向けて言った。

「皆ごめん。何か変な空気にしちゃった。気にしないで、皆が悪い訳じゃないから、と言うか嘘だから。冗談だから。泣いて無いから。ははは騙された?」

「別に隠さなくていい」ソウゴが気まずそうに言った。

「隠す?何も隠してないよ。久々に悲劇の主人公を演じてみたくなっただけだから。ついつい観客がいるから演技に熱が入ってしまっただけだから」

「あ、そう」と言って、そっけない態度でソウゴは顔を背けた。

「あれ?信用してない態度だね、本当だよ、芝居だからね」

「目、赤いよ。泣いてたよね?」ヒカルが覗き込んで言った。

「これもわざとだから。赤くなるように押していただけだから。少し心配でも掛けてやろうかなーっ言うドッキリだからね」

「耳も引っ張ってたの?赤いよ」ミズキが指差した。

「耳は、、、耳も引っ張ってた。両方。レイちゃんは分かったでしょ冗談だって」

「鼻も赤いです」レイが申し訳無さそうに指した。

「鼻も・・押してた」

 ハルトが鼻の頭をグリグリと押して見せた。

「こうやって」

「鼻が赤いのは嘘です。ごめんなさい」

 ソウゴが顔を背けて肩を上下して笑ってやがる。仕向けた犯人だろう、ちくしょう。

「と、とにかく今日はお開きにしよう。これだけ探して何も出てこないのだから、何も出て来ないと思うし、皆ありがとう」

 ハルトは小さく笑って話をまとめた。

「今夜泊まっていってやろうか?」

 ソウゴが真顔をむける。

「腕枕してくれる?」

 ソウゴの申し入れを冗談で返してはぐらかした。今は自分の気持ちを誰かに打ち明けられる程、自分自身の中で気持ちに整理が付いていなかった。


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