第22話 そして時間が動き出す 2
開け放たれたままのカーテン、机に積まれた本、転がったままのペン、部屋の隅で開かれる事無く積まれたままの段ボール。
父がこの部屋の時間を止めた、そのままの状態だ。
ソウゴが先頭で部屋に入った。
人が立ち入り、その場所で過ぎた時間の量を観測する、その行為を切っ掛けに時間は再び流れ出すのだ。
動き始めた秒針を逆に回し、過去を探る。皆そんな子供の遊びのつもりだった。
ミズキもヒカルも話を聞いて乗り気だ。まるでタイムカプセルでも開ける為に集まったかの様な雰囲気だ。ただ一人レイだけはこの家に立ち入った時のように所在無げにきょろきょろしている。
「ねぇハルト、何処にあるのかな?」
ヒカルが部屋を見渡しながら聞いた。
「なにが?」
「なにがって、何かよ!何かが有りそうな何処かよ」
ヒカルに至っては何を探すのかさえ分かっていない。
ミズキが積まれた段ボールを屈みながら勝手に開けて言った。
「証拠よ。物証。ハルトのお母さんが妹を殺していないって証拠か、殺したって証拠を見つけるのよ、そんでハルトのおばぁちゃんをスッキリ納得させてあげるんでしょ」
「ねぇみっちゃん。殺すとか殺したとかそう言う言葉は遺族の前では避けたり、濁したりする言葉じゃないの?ストレート過ぎるよ」
「五月蠅い阿呆。急にまともな指摘をするな。ここに気を遣う相手は居ないからいいの」
「ひっどーい」
「いいからあんたも段ボール開けな」
ミズキが一喝した。
ヒカルはトボトボと積まれた段ボールの一つを取って渋々開け始めた。
ソウゴもすでに段ボールを開けて中身を物色している。レイはしゃがんだソウゴの上から覗き込み手を出して良いものか悩んでいる。
確かに何かが見つかるとすればこの段ボール箱のどれかだろう。あの事件の後、母さんが居なくなり、この家でばぁちゃんとの同居が決まったときに纏めた引っ越し荷物だ。俺と父さんの荷物は封を解かれたが、使う主人の居ない母さんの荷物は今だにこの段ボールに収められたままだ。
ハルトも二段に積まれた段ボールを下ろした。天面に衣類と書かれている。
ガムテープを剥がし、蓋を開けると、懐かしい母さんの匂いがした。香水や洗剤などの人工的な香りではなく、母さんが着用し染みついた母さん自身の香りが。
作業の手が止まった。不意に包まれた母さんの芳香にその気配を感じ胸が締め付けられた。他人からすれば何でも無い中身にハルトは目が離せなくなった。その視界は次第に歪んで行った。手袋やマフラー、帽子がそれを使っていた頃の母さんの姿を想起させた。その中から手袋を手に取ってみる、無意識に母さんの温もりの残滓を求めていた。
当然温もりなど感じる筈も無い、けれどハルトはその中に確かに母の気配を感じた。ヒンヤリとした手袋の感覚が次第に温もりを帯びてくる。ありありと母の温もりが伝わってくる。蘇ってくる。ハルトの記憶が感情によって強く再現されて行く。
段ボール箱の上蓋に雫がボタリと打ち二適、三滴と続いた。
母さんの居ない日常が当たり前になり、母さんの居ない寂しさなど到に忘れたと思っていたけれど、今確かにこの胸の中にこみ上げているのは母さんが居ない寂しさだった。
手袋を戻し蓋を閉じた。これ以上母さんの物を見ていると声を上げて泣いてしまいそうだ。
皆に悟られないうちに涙を拭い、向かいの本棚へ顔を背けて移動した。
この本棚は父さんの本が並んでいる。英語、中国語、韓国語、様々な語学書の中にお気に入りなのかノルウェーの森上下巻、赤と緑のブックカバーが特に目につく、他に小説の類は見当たらなかった。
何を探す訳でもなく適当に本を抜きパラパラとページを煽っては戻すを繰り返した。
ノルウェーの森上巻を引き抜き同様にページを煽ると中程からハラリと何かが落ちた。足元に目をやるとそれは便箋を入れる白い封筒だった。中身を確認しようと手に取ると、後ろから声を掛けられた。
振り向くとレイが申し訳なさそうに皆が呼んでいるよと、要件だけ伝えて戻って言った。手に取った封筒をズボンのポケットに押し込み、出来るだけ明るい表情を作って皆の輪に加わった。
ソウゴ、ヒカル、ミズキが写真アルバムを囲んで屈んでいた、その輪の少し後ろにレイが屈んで加わっている。
開かれたアルバムの写真には良く晴れた小学校の校庭で、俺を中心に両脇から肩を組むヒカルとミズキその笑顔の後ろで腕を組み、ソッポを向いているソウゴが写っている。小学校の運動会の写真だ。懐かしい。写真には写っていないがサクラもフレームの外に居たはずだ。
あの頃の俺がこんな未来を想像することは無かった。仮に想像したとしても、現実は良くも、悪くも想像など及ばない遥に超越した未来を創造する。
母さんが徒競走の後に皆を集めて撮った一枚だ。
ソウゴと俺は同じ組で走った。練習ではいつもソウゴに負けていた俺が、本番だけはソウゴを抜いて一位でゴールテープを切った。
母さんは遠慮も配慮も大人気も無く息子の健闘を喜び満面の笑顔でこの一枚をカメラに収めた。当然ソウゴとしては不服だった。そんな一枚だ。
「ソウゴいじけてるね」ヒカルが茶化した。
「ハルトの横に居る男の子誰?」
怪訝そうにミズキが写真を指差す。
「止めてよみっちゃん。分かってて言うんだから性格悪いよ、この頃は必至で我慢してたんだからね」
ぷりぷりと怒るヒカルを見て、ミズキは悪い顔をして笑っている。
「この頃はよく苛められて、三人に助けてもらってたなー」
ヒカルは表情を緩めてアルバムを指差した。
「クラス替えの度に新しいクラスメイトから、おかま、おかまってからかわれてさ。けど不思議と三人の内、誰かしらは同じクラスになって助けてくれたんだよね。違うクラスからも私が苛められていると駆けつけてくれる。三人があの頃の私のヒーローだったよ、三人が居なかったら私きっと学校に行けなくなってたもん」
ヒカルはその写真を宝物でも見るように見つめていた。
「ソウゴはヒカルを助けるのはいいんだけど、苛めっ子達に遣り過ぎるから、苛めっ子よりも先生に怒られてたよね」
ミズキはソウゴの顔を覗きこんだ。
「言ってわかんねぇ奴は殴るしかないだろ」
「注意なんてする前から殴ってたじゃん」ヒカルが突っ込むと皆が笑った。
「一回さ、ソウゴじゃなくてハルトが大暴れしたことあったよね」
ふと思い出した様にヒカルが言った。
有ったなぁとソウゴが言い、有った有ったとミズキが相槌を打った。
そんな事が有ったか?思い出せなかった。
「そんな事有ったっけ?ソウゴが暴れてたのは覚えてるけど」
「有ったじゃーん。ハルト覚えてないの?」ミズキが大袈裟に驚いた。
覚えていなかった。確かにヒカルが苛められているところを助けに入った記憶なら何度でもある。けれど『暴れる』に当たるような事をしたことはない。記憶に無いのでは無く、そんな事実は無いのだ。俺は今まで人を殴ったことなど一度として無いのだから。
「俺が暴れたって言うのは、具体的に何をしたの?」
ソウゴが答えた。
「小4の時にお前のクラスに同じスイミングクラブに通ってる三人組がいたろ」
「あぁ、居た、覚えてるよ。三人揃わないと何も出来ない癖に三人揃うと妙に鬱陶しい連中だろ?ネチネチと事ある度にヒカルに絡んでな」
「そうそう、クラスでナマズって影で呼ばれてた連中」
覚えている。ナマズ、ソウゴが居る前ではヒカルに寄りもしないのに、ヒカルが一人で居ると必ず嫌がらせをする嫌な連中だった。
「あいつ等をお前がボッコボコにしたことがあったろ?」
「あったかー?そんな事。ソウゴがボコボコにしてる記憶ならあるけど、俺があいつ等を殴ったの?」
「そうだ。殴って、蹴り上げて、投げ飛ばして、踏みつけて、噛み付いて思いつく限りの暴力で暴れてたじゃねえか。俺が行ったときにはヒカルが泣きながらお前にしがみ付いて止めてたぞ」楽しそうにソウゴは言った。
「冗談だよね?」皆の顔を見回したが皆頭を振った。冗談を言っている訳ではないようだ。
「ハルトまさか本当に覚えて無いの?」ミズキが眉間を寄せた。
「一つも覚えてない」
「私が行ったときにはヒカルがハルトの腰に取り付いて泣いてるし、あいつ榊って言ったっけ?ナマズのリーダー的なやつ。そいつが泣きながらごめん、ごめんって謝ってるのも聞かずに、榊の腹に蹴り入れ続けてたんだよ、ソウゴはそれ見てゲラゲラ笑ってるし何が起きたのか理解できなかったもん」
ミズキの言う状況に心当たりも無かった。
ヒカルが当時を振り返って続ける。
「そう、私助けて貰ったけど、あの時のハルトは正直怖かった。いつもと違うハルトになっちゃったみたいで、私あのとき本当にハルトが榊君を殺しちゃうんじゃないかって不安になって必至にしがみ付いていたのを覚えてる」
俺がそんなことをしたのか?何故覚えていないのだろう、同じ時間を共有した三人が覚えているのに何故俺だけの記憶が無いのだろうか?それとも思い出せないだけなのか?本当は記憶の奥にはあるのか?
きつく瞳を閉じて脳内にあるはずの記憶を探る。三人が口を揃えて俺を謀っているとは思えない。俺の頭の何処かにその記憶はあるのだ。実態は有るのに視認できない濃霧の中を手さぐりで探し物をしている様な気分だ。
濃霧を掻き分けようと中空を掻くが一向に視界は晴れない。むしろ更に濃く深くなっていく。霧に奪われた視界、足元には棘が茂っている。棘が食い込む痛みに気を取られ、益々思索に集中できない。
痛い。痛い。棘が痛い。痛い。頭が痛い。思索の歩を進める度にその痛みは増して行く。ナマズを俺が・・・ 泣いて謝る榊を・・・痛い。痛い。頭が痛い。これ以上進めない。思い出せない。
「ハルト!ハルト!大丈夫?」慌てたミズキの声で我に返った。
いつの間にか頭を抱えてその場に蹲っていた。
「汗凄いよ!呼吸も浅いし、どうしちゃったの急に?思い出せないなら無理に思い出すことなんてないよ。ごめんね。もうこの話は止めよう。思い出す必要なんてない話だから」
ミズキの声で我に返った。霞んだ視野の中で皆の心配した瞳が俺を見ていた。
いつの間にか心の深層へと入り込んでいたようだ。呼吸することすら忘れていた。
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