三章 日常に潜む

第20話 監房と月光

 刑務所の消灯は早い、20時には点呼を終えて消灯する。

 照明が落ちると、独房の扉の隙間から僅かな光が忍び込む程度だ。

 暫くすると聞こえるのは受刑者達の寝息と刑務官の巡回の足音くらいだ。

 囚人達が闇に沈むと、私の記憶が入れ替わるように頭をもたげる。あの日のことが闇の中で再現されてゆく。

 十四年が経つと言うのに一向に色あせない記憶のページは毎夜欠かさず私の前に幻視として呼び起される。

『サクラちゃんママ、サクラちゃんの病気の事聞いたわ、何か悩みが有れば言ってね。あまり深刻に一人で悩み過ぎないでね』

『私達で良ければいつでも相談に乗るから、サクラちゃんきっと幼稚園に馴染めるわよ、きっと良くなっていくわ』

 幼稚園の正門で何度も何処かへ行こうとするサクラを捕まえ、先生に預けた私に、様子を見ていた母親達が寄って来て同情した表情で憐れむように声を掛けた。

 私にはこの人達が何を諭そうと語り掛けているのかが解らなかった。さくらの病気のことは既に幼稚園中の保護者が承知のことだ。私達に一歩距離を置き好奇の目で見てくる人もあれば、こうして直接励ましの言葉を掛けてくれる人もいる。けれどその行為も言葉もなぜ私たちに向けられるのか私には理解できない、したくない。憤りの源だ。

 私達は好奇の衆目に晒される様なことは何一つしてはいないし、励ましの言葉が必要な程草臥れてもいない。

 あなた達は何も分かっていない。私達家族はあなた達が本音では思っている通り、普通なんかでは無い。けれど異常などでは決してない。私達家族は特別なのだ、私は本気でそう思っている。

 あなた達が日常的に当たり前に遣り過してしまう子供の笑顔に心が震えたことが最近ある?

 子供に掛けられた言葉に涙しながら笑ったことがある?

 子供の背中に勇気をもらったことがある?

 私には毎日必ずある。あなた達の常識や貧相な感性を押し付けられたくなどない。

 私たちは幸せだ。

 主婦たちから視線を逸らし園庭に目をやると、サクラは走り回る子供達の輪から外れ一人空を仰いで手を叩いている。こうなるとサクラを教室へ連れて行くのは大変だ。先生達の手に余るだろう。

 教室に入るように先生達が呼びかけて回り始めた。

 サクラは子供たちの喧騒から先生の声を聞き分けられていない。まだ同じ行動を繰り返している。子供たちは大方教室に向かい始めた。 

 気が付けば主婦たちを無視して園庭のサクラの元へ走りだしていた。

 あのとき主婦達の言おうとしていたことが正しかったのだろう、私は普通じゃない。

 だからあんな事になってしまった。さっきまでは手を伸ばせば触れられる処に二人の温もりが有ったのに。今は相反する二人に触れている。

 この二人がこの世で二度と話をしたり、じゃれあったり、喧嘩をしたりすることはもう出来ない。私は温かい二人を同時に抱きしめることは出来ない。

 右の温もりが現実なのか?左の冷たさが現実なのか?どちらも夢では無いのか?

 現実から思考が逃避しようとするが、自然と流れ落ちる涙が両腕の感覚のどちらも現であると語っている。

 私は毎晩同じことを考えている。

 あのとき私の選択が一つ違えば。

 あのとき私の行動が一つ違えば。

 あの子達が私の処になど産まれて来なければ。

 私なんかが母にならなければ。

 こんな現状を招いた私が、私は憎い。

 今夜も頬に冷たい月光が伝った。

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