第13話 報道と遺族

 プンッとまぬけな音を立てて突然テレビが消えた。それでも僕はまだテレビに顔を向けていた。映像よりも音声が途絶えたことによってテレビが消えたことに気が付いた。

 どうやらテレビの表面を見ていたようだ。意識がテレビから離れ、ようやくテレビが何故消えたのかが気になって、ゆれゆらと辺りを見回した。

 気配を感じて振り向くとばあちゃんが顔をくしゃくしゃにして笑顔を作り、リモコンを持って立っていた。

「ハルト、お腹空いた?」

 笑顔のままで僕に聞いた。

 そう言われれば昨日の深夜に、ばあちゃんと警察所から帰ってきてそのまま寝てしまい、今まで何も食べてなかった。時計は九時を少し過ぎた辺りを指している。朝食には少し遅い時間だけど少しも空腹を感じなかった。

 ゆらゆらと頭を左右に振って返事とした。

 ばあちゃんは笑いを造り困ったなと言う顔に変えて僕の横に腰を下ろした。

「お父さんは?」 絞り出して僕は聞いた。

「まだ警察に居るよ、心配しなくても直に戻ってくるわよ。ハルトはまだ疲れている?」

 そう言ったばあちゃんの顔はクマが深く、眠れていないことが簡単に想像できた。

 また僕は頭を左右に振って答えた。ばあちゃんに気を使った訳ではなく本当に空腹では無かったし、疲れが残ってもいなかった。ただ、胸や腹など体中に何かがこごもって、体を重くし、感覚を鈍らせている様に感じる。

 体の中にがこごもっているなにかの正体はきっと不安なのだろう、けれど今まで親の元で庇護され保護されていた僕はこの体調にすら影響を与える強く、恐ろしい感情が今まで知っていた不安と同じものであることがまだ理解できなかった。

【残された家族がこれからの人生をどんな思いで送って行くのか】

 不意に頭の中でテレビのコメンテーターの声が甦る。

 そのこごもりが体の中で大きくなる、恐る恐るそれを口にした。

「おばぁちゃん、僕達・・・もうサクラに会えないの?普通の家族に戻れないの?」

 口にしてしまうと、こごもっていたものが溢れ、形として現れた。体は震え、涙はとめどなく頬を伝った。

【妹さんの方はなにか精神病って言うのかしら、そう言うのが有ったみたいでね】

「それとも僕達は・・・僕達は始めから・・・普通じゃなかったのかな?」

 サクラが死んでから初めての涙だった。知らない大人達に指示されるままに行動し時間ばかりが過ぎてしまった。現実を実感する間もなく、悲劇を悲観する時間など与えられず、やっとこの家で緊張から開放され日常に戻り今、失ってしまったものの大きさを実感してその大きさに脅えている。

 嗚咽が止まらなかった。もうサクラには二度と会えない。きっとお母さんにもこのままずっと会えなくなる。

 もう僕達家族が揃って食卓を囲んで他愛の無い話で笑い合うことも、布団を並べて寝ることもできない。サクラが死んで僕達家族も消滅した。そう思うと、急にこの世の中に一人で放り出されてしまった気がして心細くなった。

 溢れ出す感情が次々に悪い考えを助長させていく、僕の体が全て涙となって流れ出して消えてしまえばいいのに、そうやって僕が消えてしまえればどれだけ楽になれるか。

 そんな僕の思考を読み取ったかのようなタイミングで、ばあちゃんは僕の肩に押さえつけるではなく。体の震えに寄り添う様にそっと、まるで僕をこの場に留めるように腕を回して手繰り寄せた。何も言わず僕を覆うように抱き、暖め、いつまでも一緒にいてくれた。

 どれだけの時間をばあちゃんの腕の中で泣き続けていたのだろうか、僕が徐々に落ち着きを取り戻しつつあるのを見計らって、ばあちゃんは頭を僕の頭に摺り寄せた。

「ハルトのことは絶対におばぁちゃんが守るから。何があっても守るからね」

 とっても優しい声だ。

「ハルト、人生は、楽しいんだよ」

 ばあちゃんの腕が痛いほどに強く僕の肩を抱いた。

「ハルトこの先の人生を捨てては駄目よ、世の中にある普通なんてものは、知らない沢山の誰かが作るものなの、そんなことは生きていく中で何も意味の無いことなのよ」

 きっとばあちゃんも泣いている、頭の上で声が震えている。

「このさき他人があなたを傷つけることを言うかもしれない、するかもしれない。そのときはおばぁちゃんに話しなさい。おばぁちゃん代わりに思いっきりその人を恨んであげるから、だからハルトはその人達を許しなさい。ハルトは忘れてあなたの人生を楽しみなさい。私達は、私達の人生を誰よりも一生懸命に、誰よりも楽しんで過ごせばいいだけ。そうやって過ごしていれば、そのときに私達は特別だって言われるんだから。それでもこの人生が辛くて仕方が無いのなら、とても我慢できないのなら、笑って生きて行けないのなら、おばぁちゃんが一緒に死んであげるからね、一人で逝こうとしないで」

 少しかすれたその声には強い決意が含まれていた。

 僕はまた声を上げて泣いた。さっきとは違う暖かい涙だった。

 不思議ともう一人ぼっちだなんて感じなくなっていた。

 目を瞑るとおばぁちゃんから伝わる温もりに、最後にお母さんに抱かれたときが甦った。

 お母さんの腕の中で触れている全てが暖かく、胎児に戻ったように穏やかだった。何も考えていないし、何も思わない。ただ今を感じているだけの存在だった。

 胸の中でぼんやり見上げたお母さんは何かを僕に言い続けている。同じ言葉を何度も何度も繰り返している。その言葉はただ耳に音としては入るが、意味にならない。理解できない。

 言語を知らなければ言葉などただの響だ。あのときの僕は正に胎児そのものだったのかも知れない。 

 お母さんの左胸にはサクラが同じように抱きかかえられているのが見える。

 あぁ。

 穏やかな顔だ。安心しきっている。何の不安もないんだ。

 ならなんでお母さんは泣いている?

 僕に何を言っているの?

 頭が痛い。

 頭の中に何かが入り込んで脳を直接締め付けているような圧迫感、時に爪を立てられたような鋭い苦痛。

 大切なことを思い出そうとする度にその何かが痛みを持ってジャマをする。

 痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。

 お母さんとの最後の時間を思い出そうとすると痛みが襲い思考を止める。痛みを感じる以外の脳の働きを除外してしまう。

 それでも激しい痛みに必死に耐え、苦痛の渦から記憶を呼び起こそうと抗った。

 痛みは思考を止めようと際限なく痛みを上昇させた。

 苦痛の寸暇にお父さんの顔がちらりと浮かんだ。

 怒った顔。こんなに怖い顔のお父さんを見たことが無い。

 僕の前に立っている。怖い顔で僕を何度も何度も殴る。どうして。おとうさん怖いよ。

 頭が痛い。

 それ以上は思いだせない。

 頭が痛い。

 気を失ったのか、眠ってしまったのか自分でも分からない。ばあちゃんに身を任せ意識は体から離れた。白くなるほど僕が握りしめていたばあちゃんの腕に血の気がゆっくりと戻っていった。

 そうやって、僕はお母さんとの最後の記憶を失った。あれから思い出そうとする度にそれを拒絶するように激痛が頭を襲う。いつの間にか僕は抗うのをやめた。

 そうやってばあちゃんとの生活が始まった。

 お父さんはサクラの遺体と共に戻ると葬儀を済ませ、数日は色々な手続きにバタバタと忙しくしていたが、事後処理を済ませるとすぐに仕事に復帰した。

 父さんは貿易の仕事をしている、そのため海外へ行くことも多く、以前から仕事で家に帰ってこれないことも多々あった。事件後はそれに更に輪をかけて仕事に打ち込む様になり、月に一度帰ってくれば良い方だ。

 その姿はまるで何かを忘れるため、何かを避けるために仕事へ打ち込んでいるようにさえ僕には見えた。

 ばあちゃんは、男は家族を食わせて背中で語るものだ、口ばかり動かす男は二流なんだと言って笑っていた。僕はお父さんは睫毛みたいだと例えた。一生懸命に目を守る為に働いているのに目には見えないからだと説明すると、確かにねと言ってばあちゃんは笑った。

 僕にはまだ大人の男の在り方は分からなかったけれど、お父さんのことを間違っていると思ったことは無かった。お父さんは、お父さんにしかできない役割を果たしていると自然に感じていたのだから認めているのと同じことだと思う。けれど、心の何所かで僕達は普通の家族じゃないのだからこれで良いのだと達観していた様な気もする。

 普通の家族。サクラの死。母が殺害。


 痛い、頭が痛い、痛いのは嫌だ、痛い、痛い、痛いのはイヤだイヤだイヤだイヤだ。

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