第11話 婆ちゃんは病院に 2

 すぐ横の寝顔に目が留まる。婆ちゃん、また瘠せたな。ごはん食べられているのかな?髪の毛も減ったな。薬の副作用強いのかな?白髪増えたな。辛いのかな?

 ときどき うっと呻いてその顔を歪ませる。

 小さな体だな。そう思ったけれど、婆ちゃんは辛い現実に立ち向かい疲弊し、消耗した結果小さくなってしまった訳じゃない。

 元々小さなこの体でこの現実に立ち向かい、その小さな体で盾となり俺を守ってくれていた。この小さな体を精一杯広げ、大の字で俺の前に立ってくれていた。

これから俺がばぁちゃんの前に立ち、守って行く番だったのに。


 少しずつ、確かに弱って行く。見ていると考えたく無くても、身近に迫る現実が頭を過ぎる。婆ちゃんが・・・心臓が大きく鼓動する。


 婆ちゃんの寝顔から目を逸らし、サイドテーブルの鉛筆とナイフを掴む。

 ゴミ箱を静かに手繰り寄せ、その上で鉛筆を削り始めた。現実から意識を逸らしたかった、考えることから何かをして逃げたかった。

 時間を掛けて削った。削ることだけを考えて。

 削り終えた鉛筆を戻そうと顔を上げると、いつの間にか目を覚ました婆ちゃんと目が合った。いつの間にか目を覚まして見ていたらしい。

「ありがとう」ベッドから 上半身を起こしながら言った。

「いや暇だったからさ、それに久々にナイフで鉛筆削りたかったし」

 現実から目を背けていただけだ、とは言えず変な言い訳をしてしまった。

「随分待たせちゃった?どれ位寝ていたのかしら」

 婆ちゃんは備え付けのデジタル時計を、目を細めて睨んだ。

「全然待ってないよ、さっき来たところだし、ちょっとしたコンサートがあってね、退屈しなかったよ」

「そう、私も聞きたかったわ」

 隣の雰囲気で察したらしく、そちらへ視線を向けて笑った。

「鉛筆随分短くなっているね、今度来るときに何本か買ってくるよ。それともシャーペンの方がいい?」

 削った鉛筆は、人差し指と親指で縦に楽に摘める程しかなかった。

「鉛筆がいいわ。シャーペンだと書いた字が尖っていて嫌なのよ、何を書いても怒っているみたいで」

 嫌を通り越して、恐ろしいみたいな顔をしている。

「一本でいいわよ、使い切れないと勿体ないから」

 その何気ない言葉の持つ意味に急速に気が沈む。沈みきった底に当たり、反動で上昇し気持ちが怒りに変わる。その怒りは婆ちゃんに向けるようなものではなく、婆ちゃんの中に潜む病魔に対してであって。

「じゃー店で一番高くて高級な、いい鉛筆買ってくるから」

とかまた変な反発の仕方をしてしまった。まるで子供のままだと自分で思う。

 婆ちゃんは語気が強かったせいか一瞬ビックリした表情を浮かべたが、その後穏やかな表情でお願いしますと笑った。いつもビックリしたときの顔を見ると母さんに似ているなと思う。


「お餅食べる?」

確かそう誘われてやってきたのだけれど、病室でその台詞は冗談にしか聞こえない。

「何処で焼くの?」

 トースターのようなものは見当たらない、まさか直火とは言わないだろうし、本当に冗談だったのだろうか?

「あんた遅れているね。今はレンジで、チンッで食べられるお餅があるのよ、それに納豆をかければ。あっ、納豆餅でいいわよね?」

「ああ、なんでもいいよ。でもレンジなんて何処にあるの?」

 当然病室内には見当たらない。

「ここに来る途中の廊下に有ったでしょ?ハルトは私のことに夢中で回りが見えないのかしらね。女に夢中になると痛い目見るから気を付けなさいよ」

 片頬を上げ悪戯な薄笑いを浮かべている。

 こうして会話していると元気ないつもの婆ちゃんで、病室でのお餅食べる?も、これからガンで死ぬ。も、どちらも冗談であるような気がしてくる。

「ご忠告ありがとう。じゃあ御礼に俺もいいことを教えよう。いつまで経っても女だと思っていると痛い目合うから気をつけな」

 眉間に皺をよせて出来るだけの悪い顔を作った。

 どんな状況にあっても俺はいつもこうやって婆ちゃんのペースに嵌ってしまう。現実に今有る問題よりも、現実に今有る目の前のものや、ことに意識を向けてくれる、そうやって何度も正面から目前で向き合えば大き過ぎて竦んでしまうような問題からも手を引き距離をとって斜に構え、対したことじゃ無いさと観点を変えてくれた。けれど今回ばかりは素直に嵌りきれない。現実の問題も、目の前にいるのも、手を引いて観点を変えようとしてくれているのも、その全てが婆ちゃんだからだ、俺はただいつもみたいに婆ちゃんのペースに嵌り嫌なことなど頭の中から消えて無くなりましたと、そう思わせるような表情をつくり安心させてやることしか出来ない。こんなことを考えていて俺は上手く笑えているかな?


 不意に婆ちゃんが掛け布団を剥いでベッドから降りようとしている。

「どうしたの?トイレ?」

 慌てて手を貸した。

「お餅作ってこようね」

 そう言ってゆっくりとベッドから降り始めた。動くと痛むのだろう、時々顔を歪ませる。

「いいよ。場所だけ教えてくれれば自分で作ってくるから、婆ちゃんは安静にしてなきゃ」

そう言ってもベッドから降りるのを止めようとしない。

「いいのよ。作りたいの、本当だったらもっと美味しい物を沢山作ってあげたかったけど、今はお餅くらいしか作れないから、それくらいは私が作ってあげたいのよ。それに少し動かないと体が鈍っちゃうから、だからハルトは座っていてね」

 痛みを堪えて笑顔を作った。


 結局は婆ちゃんに餅を作ってもらった。

 出来合いの餅に納豆をかけただけの、料理と呼ぶのもおこがましい様な唯の納豆餅だけど、俺にとっては特別で、婆ちゃんが命懸けで作った立派な料理で、久々に食べられる婆ちゃんの手作り料理だ。何の感慨もなく食べ終えることなどできなかった。

 食事は様々な物の命を頂いている行為だ。動物を殺し、穀物を刈り、野菜を採って食し命を繋ぐ、同様に料理をしてくれた人の、命の一部も頂いているのだろう。時間の経過の積み重ねが生きていることだ、その時間の一部を人が食べる料理のために時間を割くのは、自分の命を分け与えているのに等しい行為だと俺は今の婆ちゃんを見てそう思った。


 婆ちゃんがヨロヨロと運んできた餅を一口齧ると、当たり前に納豆の味が口に広がり、当たり前に餅の弾力が歯を鳴らす。思わず涙が出そうになった、耐えようと堪えたが、流れ落ちた。一度流れ落ちた涙は止まらなかった。

 頭を下げて婆ちゃんに涙を見られないように黙々と食べた。美味しかった、懐かしい幸せの味が当たり前にした。

 婆ちゃんが俺の頭を撫でて、ごめんねと小さく言った。涙は止まりそうに無かった。なんで謝るんだよ。


 こんな当たり前のことが幸せの正体なのだと、ただ何も無く平凡に過ぎていく日常が、いかに幸せな日々であったのか、皮肉にも婆ちゃんを襲った病魔が教えてくれた。そして奪って行こうとしている。


「ハルトがどんなガールフレンドを連れてくるか見てみたかったわ。それにもっと我儘が叶うならあなたの子供だって抱いてみたかった。娘があんなに可愛くて、孫がこんなに可愛くて、曽孫なんてどんなに可愛いことかしら、辿り着きたい未来は数えきれない程ある。私は強欲ね。とても潔く死んでなんてやれない。あなたと過ごした日々は楽しかったなぁ。私の人生の宝よ。あなた達には必ず幸せになって欲しい。だから、私は泣きながら逝くけれど、あなたは笑って生きなさい」

 婆ちゃんは俺の髪をくしゃくしゃにかき回して励ました。

「こんな弱音を言うつもりじゃなかったのだけど、あなたの顔見たらなんだか安心して気が緩んだのかしら、つい余計なことを言っちゃったわね」

 俺はまた下を向いて大きく頭を振って否定することしか出来なかった。

「こんなことも言うつもりは無かったけれど、ずっと心に引っかかっていることがあるのよ、拭えない疑団が心に」

 言葉を区切り、窓を見ている。

 俺も同じく窓に目をやる。

「あの子が・・・」

 窓に目を投げている婆ちゃんは実像を見ていると言うよりも、何処か遠くを見つめていた。

 風が強くなっているようだ、枝にしがみ付いた枯葉が激しく揺れている。

「あの子が本当に・・・」

 まるで枝に残った葉を落そうとするように風が吹き付けている。

「殺したのかしら・・・」

 俺の心臓は大きく脈打つ、頭が痛い。

 一段と強い風が老人の腕の様な枝を揺らし、幾つかの枯葉を引きちぎってなげた。

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