第10話 婆ちゃんは病院に 1
最早時刻は昼だが、自分の起きた時間を朝と呼ぶ生活に慣れ過ぎてしまった。
だから今は朝なのだ。元旦の朝には、元旦の朝だけの匂いがある。世界中の汚れた空気が浄化されたような、新鮮で冷たい空気の匂いだ。例えようのない、そう言う匂い。
いつもならバイクで5分の距離だが、排気ガスで新鮮な空気を初日に汚すのは気が引けたので、歩けば20分かかるが徒歩で病院へ向かった。
新鮮な空気を何度も胸いっぱいに吸い込み、白く吐き出してを繰り返し、一人遊びをしながら歩いた。細く吹き出したり、炎のように首を振りながら吹いたり、病院までの道のりはアッと言う間だ。
どんな気分であろうと病院へ一歩踏み込むと、いつも同じ気分にさせられる。陰気で、辛気臭く、笑うことを禁止されているのかと思わせる空気感に憂鬱になる。
元旦の特別な朝の力を持ってしても、病院の空気にだけは無力なようだ。病院の奥へ進むにつれて負の臭気は強くなる気がする。
閉じたら二度と開かないのでは無いかと思わせるエレベータに乗って三階へ、降りて婆ちゃんの病室の番号を探す、何度来ても番号を確認しないとどの部屋も同じに見えてしまう。
目当ての病室を見つけ、中を見ると、左右に二つずつベッドが置かれているはずだが、どのベッドもカーテンが引かれ中は伺えない。
病室入り口の、正面から見える窓ガラスの外には、生まれたばかりの新鮮な空気が青々と満ちている。
できるだけ憂鬱な空気を払いのけて、僅かに外から持ち込んだ新鮮な空気を味方につけ病室へ入った。
婆ちゃんの隣のベッドがカーテンの隙間から視界に入った。娘と孫なのだろう、こちらもお婆ちゃんのお見舞いにきていた。
その向かいに上半身を起こした姿勢でお婆さんがベットに座っている。
俺の婆ちゃんよりも十は年上だろうか、病床の患者は治療による消耗と心労で実際よりも老けて見えるから、本当はそう違わないのかもしれないのだがそう見えた。
ベッド横のパイプ椅子に腰掛ける母親と目が合ったので小さく会釈を交わした。その奥で小さな女の子が一生懸命にお婆さんに何かを話しかけていた。
その一つ奥の婆ちゃんの病室のカーテンを開いて覗いた。
綺麗に布団を掛けて、婆ちゃんが静かに寝息を立てている。只でさえ体躯の小さい婆ちゃんが病院のベッドに寝ていると更に小さく見えた。
ベッド横のパイプ椅子に静かに腰掛け、腕時計に目をやると、婆ちゃんからメールをもらってから一時間程経過している。待ちくたびれて寝てしまったのか。
やることも無く、無理に婆ちゃんを起こしたくも無かったので、何となく病室を見回したりしてみる、サイドテーブルには薬袋とプラスチック製のオレンジ色のカップ、それには三分の一程水が入っている。それ以外には餅どころか食べるものは見当たらない。小説や雑誌なども無く、テレビのリモコンが小型ナイフと一緒にテレビの横に綺麗に揃えてある、使っている様子はない。いったい何をして時間を潰しているのだろうか?と、どうでもいいことを思った。ただ、小さなメモ帳と短くなった鉛筆が手の届く位置に置いてある。それだけだ。
唯でさえ静かな病室だ、聞くつもりは無くとも隣のベッドから女の子の声が聞こえてきた。
「おばぁちゃん、昨日先生に元気が出るお唄をね、教わったの、だからね、おばぁちゃんに唄ってあげるね、そしたらね、きっとおばぁちゃんも元気になってまた一緒に遊べるからね、何も心配しなくていいからね」
おばぁちゃんは拙い孫の言葉を遮ることをせず。うん、うん、と聞いている。
女の子は話し方からして、四歳位だろうか?こんな小さな女の子が祖母を気遣い、心配しなくていいなんて声を掛けてあげられることに驚いた。
俺は例え嘘や上辺であっても婆ちゃんにそんな言葉を掛けてあげられたことなど一度もない。今日だって餅に釣られて参上したくらいだ、自分の未成熟振りをこんな小さな子に思い知らされた。
女の子の母親が歌の説明をした。
「この歌トイ・トイ・トイって言ってね、ドイツの言葉で、全てがうまくいくおまじないの言葉なんだって」
母親の声は優しく、穏やかだった。
「そうかい、どんな歌か楽しみだねー、ゆみちゃん、聞かせてくれるかい?」
大きく息を吸った後に女の子の歌声が聞こえてきた。強くて優しい歌声に願いが籠められいる。
歌が終わると隣で小さな拍手が鳴った。俺も音を立てずに拍手した。
「ゆみちゃんの歌とっても上手だったね、おばぁちゃんなんだか元気が出てきたわ。先生に聞いてみなくっちゃね、もう病気治ってませんかって」
「やったー本当に?ゆみね、おばぁちゃんの為にね、お歌いっぱい練習したんだ。ひらがなも読めるようになったからね、おばぁちゃんが帰ってきたら今度はゆみがね、絵本を読んであげる」
肉親の健康は家族の願い。病気の全快は家族の祈り。それは幼子であっても思いは同じなのだ、もしかしたら純粋である分思いは強いのかもしれない。
あの歌に効力があるのなら、どうかうちの婆ちゃんにも恩恵を与えて欲しいと思う。
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