episode.3 妻が死んだ
「今日、雨降るみたいだから傘持って行きなよ」
そう言って傘を突き出してくる。それを受け取ると嬉しそうに「いってらっしゃい」と笑顔で俺を送り出した君は、帰ってきた俺に笑顔を向けることはなかった。
帰ってくると、最愛の妻が死んでいた。
鼻歌交じりにマンションの階段を駆け下りていく。この黒の傘は麻衣香と付き合い始めてから初めての贈り物だった。
「幸隆、いつもずぶ濡れになって出社してくるからさー。こんなのでもいい?」
めちゃくちゃ高いわけでも、オシャレなデザインでもないその傘が、俺にとっては一生モノのような愛おしいものに見えた。
「一生大切にする!」
「大袈裟だって」
「あー俺、この人と一生一緒にいる気がする」何となくそう思えるような人だった。笑顔が素敵で、考え方さえも完璧。こんな人になりたいと思えるような人。この人と一緒にいたい。そう思ったから──
「麻衣香、俺と結婚してください」
半年前のことだ。いつものようにデートをした帰り。夜景が綺麗なところに連れて行って指輪を見せた。
「マジで幸せにします。俺の苗字貰ってください」
彼女はクスッと笑って、俺の手を包み込んだ。
「多分ね、幸隆は私とじゃないと幸せになれないと思うんだよねー」
彼女らしいと言えば彼女らしい返しだった。
「結婚しましょうか」
「そうしましょう」
そして半年たった今。旦那と妻として俺たちは再スタートしている。式場を探しながら、俺は会社員、麻衣香は在宅勤務の仕事をしている。元々仕事人間だった彼女だが、結婚すると決めた瞬間仕事から身を引いた。しかし、やはり何かをしていることの方が好きな彼女なのですぐにしたい事を見つけて、色んな人に相談しながら準備をして今は順調に売上を出している。
「俺、今幸せすぎるな」
ニヤニヤしながら玄関ポストを覗いてマンションの扉を開こうとした時。
「あっ、すみません」
マンションの住人と肩がぶつかった。その拍子に傘を落とし、相手は買い物帰りの袋を落とした。お互い急いで自分の物を拾い、もう一度謝ってからその場を去った。
「あんな人このマンションにいたっけ」
この日の職場は何かピリピリとしていた。納期が近いものがあるわけではないはずなのに。雰囲気が悪かった。
『あー早く帰りたい』
「お疲れ様です」
タイムカードを押して職場を後にする。外は彼女の言った通り土砂降りの天気となっていた。傘を抜き取りバサッと開く。
雨の日は好きじゃなかった。この傘を手に入れてからはむしろ雨の日が好きだと思えるようになった。彼女のポジティブな考え方が少しでも移ってきているような気がしてそれがとても嬉しい。
マンションに着いてから中に入る前に傘の水気を払う。ふと、中の様子を伺ってみるとこの時間には珍しいほどに人がポストの前に集まっていた。
「どうしたんですか?」
その異様な雰囲気に無意識に声をかけてしまっていた。
「三浦さん、仕事帰りですか」
二つ隣の部屋に住んでいる近藤さんだった。
「はい、今帰ってきてみて人が集まってたもんで」
「そうですか。実はお昼前頃に、マンションの住人ではない人間が、宅配便を装って何軒かの家に侵入して──」
そこで近藤さんは言葉を詰まらせた。
ここに集まっている人皆が、涙ぐんだり膝から崩れ落ちていた。胸騒ぎがした。いつもは使わないエレベーターに乗って四階を連打した。
あそこに集まっていたのは外で働いている人達ばっかりだった。帰ってきてからマンションですれ違う人たち。
四階に着き、ドアをこじ開けるようにエレベーターを抜ける。段々と足取りが早くなる。コンクリートに雨が叩きつける音と、俺の足音だけが響く。
震える手で鍵を差し込み部屋の中へ入る。
「ただいま」
玄関出そう声をかけてみる。お願い、出てきて。
「……ただいま」
物音一つたたない。
「麻衣香? 出てきてよ」
リビングの扉を開いた瞬間、見たくもない光景が目の前にはあった。心臓がドクンと跳ねた。
「麻衣香!」
荒らされた部屋、腕や体から血を流す妻。
最愛の光景だった。
「麻衣香! おい、なんで」
服に着いた血は既に乾いていた。これだけ血を流しているのにほとんどが乾いている。相当長い時間こうしていたのだろう。
頭が真っ白になりどれくらいの時間が経っただろうか。誰かに肩を叩かれて視界に色が戻っていく。
「お兄さん、辛い思いをしてそうですね」
それは警察でも救急隊員でもない、見知らぬ男性だった。こいつが麻衣香を。咄嗟に男の胸ぐらを掴んで壁に押し当てた。
「お兄さん、私は彼女を殺した人間ではない。それで言うと、そもそも私は人間ではないですし」
「は?」
スーツ姿で帽子を目深に被り、目元が見えない男が薄い唇で軽く笑った。
「少し不思議な世界から出張でこちらにお伺いしまして。何かお手伝い出来ないかなと思ったのですが」
「さっきから何言ってんだよ」
「あ、名乗り遅れましたね、私死神提供局番の電話対応をしている者でございます。こちらを」
男が胸ポケットから出したのは、死神のようなシルエットが入った名刺だった。
「死神提供局番、?」
「はい。亡くなった方の最も近しい方のもとへ、こちらのカードを送らさせていただいております。サービスと致しましては、その亡くなった人物への余命宣告と共に生前の思いを伝える時間をプレゼントするというものになっております」
「冗談だろ?」
「いえ、冗談ではございません。これまで色んな方にサービスを受けていただき、中にはアイドルの運命を変えることができた方なんかもいらっしゃるんですよ」
信憑性なんてどこにもない。だけど、この男の雰囲気が冗談を言っているようには見えないのだ。何故そう思えるのかわからない。たぶん、この男のこの風貌のせいだろう。声なんてこの世の物じゃないような気がする。おぞましい。こいつの事を深く知ろうとしたらいけない。
「そのサービスは無料で受けられるのか」
「ええ、もちろん。私が選んでいるのですから。選ばれた人間には存分にその権利を使っていただきたい。まぁ、後で怒られるのは私ですが」
「え?」
「しかし、今回の件については上からの命令だったりするのでお気になさらず。それでは」
男は帽子を脱ぎお辞儀をした。顔が見れるチャンスだと思ったが、見えないまま再び意識が遠のいて行った。
「今日、雨降るみたいだから傘持って行きなよ」
玄関の方から麻衣香の声が聞こえる。
ここは、トイレ? 何故こんなところにいるのか分からない。だが、ふと目の前の鏡に目が行く。そこには死神がいた。
「なんだよこれ」
俺の声とともに死神の口が動く。あの男が言ってたように、俺は死神になってしまったのか。すると鏡がグネグネと歪み始め、3:00の文字が表示された。
「タイムリミットなんてあるのかよ」
そんな事を言っている最中にカウントダウンが始まった。
「急がないと」
玄関の扉が閉まる音がした。急いでトイレから出ると、目の前には麻衣香がいた。
「え」
麻衣香は目を見開き俺を見る。しかししばらくして微笑し口を開いた。
「私、死ぬんだ」
こんな時でも冷静で、笑っている彼女を失いたくない。
「麻衣香、よく聞け。宅配便を名乗る人間が部屋に来る。絶対に開けるな。いいか?」
「……幸隆?」
「え」
「なんで幸隆そんな格好してるの。今出て行ったじゃん」
「なんて言うか、未来から来た。家に帰ってきたら麻衣香が血だらけで倒れてて、俺も、倒れた」
「何それ」なんて言いながら笑う彼女を抱きしめる。さっきは感じられなかった。温かさだった。
「死んでほしくない」
「私も。死にたくない」
「絶対に出ないでください」
「わかった」
麻衣香からそっと離れて、タイムリミットを見る。残り三十秒。
「麻衣香以外にも被害に遭ってる人がいるんだ。運命が変わるか分かんないけど、せめて麻衣香だけは助かってほしい」
今度は麻衣香が俺を抱きしめた。
「未来の世界で運命が変わってるといいね」
「うん」
頭が真っ白になりどれくらいの時間が経っただろうか。誰かに肩を叩かれて視界に色が戻っていく。
「三浦さん、大丈夫ですか?」
マンションのエントランスで俺に声をかけてきたのは二つ隣に住んでいる近藤さんだった。
「貧血ですか?」
倒れる前の記憶がないのできっとそうなのだろう。近藤さんが手を差し伸べてくれ、ようやく起き上がることができた。
「梅雨が明けて暑くなってきましたもんね」
そう言って近藤さんはまだ空いていない水を差し出した。
「ありがとうございます」
一緒にエレベーターに乗り四階を目指す。
いつから倒れていたのか、思い出そうとしても思い出せない。きっと相当長い時間倒れていたのかもさはれない。
「それじゃ!」
近藤さんに再びお礼をして玄関の鍵を開けた。
「ただいまー」
いつもだったらすぐに出てくるはずの麻衣香がいくら待っても出て来ない。嫌な胸騒ぎがする。
靴を脱ぎ捨て扉を開く。
パーンッ!
鋭い爆発音にビクッと体が弾ける。
「幸隆、誕生日おめでとう!」
クラッカーを構えた麻衣香がオシャレに彩った部屋でこちらに笑顔を向ける。
「え、もしかして自分の誕生日忘れてたの?」
「忘れてた」
麻衣香は俺のあほ面に笑い転げる。
『あーやっぱり幸せだ』
トゥルルルルル。トゥルルルルル。
「はい、こちら死神提供局番です」
「出張お疲れ様でした」
「珍しいですね。そちらからこのような依頼をされるのは」
「やはり素敵ですね。濁りのない愛情は」
「今回多くの人を助けたのは死神の方ではありませんが、どうされますか?」
「三浦麻衣香。この方は素晴らしい人間ですね」
「そうですね。死神なんて信用出来ないものを信用し、最愛の旦那であると即座に気付き、マンション全体に警告を促したのですから」
「しかし、それで出て行かない住人たちも、きっと彼女を信頼していたのでしょう。嘘をつかないと」
「面白い人間を見つけましたね」
「いつもだったら運命を変えるなと説教するのに、今日はとことん変わってますね」
「前にも言ったはずです。大勢の人が亡くなると、こちらの仕事が増えて面倒だと。ただそれだけです」
「そうですか」
episode.3 END
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