episode.2 飼い犬が死んだ

「メルー! おいで」

 両手を広げるとしっぽを振りながら走ってきてくれるダックスフントのメル。ピンク色の首輪に付けた鈴が鳴る。あまり鳴くことのないメルが、その鈴を鳴らす時は嬉しい時なんだって思ってる。悲しい時とか怒ってる時は走らないし、端の方で丸まってるから鈴がなることはない。楽しそうに走っている時だけリンリンと鈴がなるのだ。その鈴の音を聞いて私たちはメルと会話をしていた。


「時間やばいじゃん!」

「何回も声かけたからねー」

 その日の朝は久しぶりに寝坊した。そんな日に限って物ってなくなる。

「自転車の鍵どこ?!」

「昨日あれだけ片付けなさいって言ったのにー。送って行ってあげるから急ぎなさい。お母さんもそのまま仕事行くから」

 キャン! キャン!

「メル、帰ってきたらいっぱい遊んであげるから今は我慢してね」

 キャン! キャン!

「行ってきまーす! メル、バイバイ」


その日、メルは死んだ。


 いきなりだった。学校から帰ると、いつも走ってきてくれるメルがいつになっても寄ってこなかったのだ。寝てるのかな? と思ったけど、ドックハウスにメルはいなかった。

「メルー? どこに行ったの?」

 チリン。

 どこかでメルの鈴がなった気がした。

「メル?」

 縁側の下を覗くと、そこにメルはいた。舌を出した状態でコチラにお腹を向けている。

「メルー、こんな所にいたの? 何してたの」

 声をかけてもメルはしっぽを動かすこともなく、異様な胸騒ぎがした。そっと腕を伸ばしてメルのお腹に手を当てた。

「メル?!」 

 両手をめいっぱい伸ばしてメルを引きずり出した。息をしているようには見えない。抱きかかえてもぐったりとしている。いつもより重い。

 気がつくと、私は無我夢中で走っていた。メルを抱えて動物病院に向かった。手遅れだとわかっている。でも何か出来るかもしれないという微塵もない可能性にかけて全速力で走った。

「隆二さん! メルが」

 いつもメルを連れてきていた動物病院に駆け込み、目に入った獣医さんを呼んだ。電話も入れずいきなり行ったのに隆二さんはメルを見てくれた。手と脚が震えて立っていることも出来なかった。心臓の音が耳元で聞こえる。ギュッと握りしめた右手を左手で包み込む。少しずつ落ち着いて来たところでお母さんとお父さんに連絡した。お母さんはすぐに行くと言ってくれた。お父さんは会議が始まってしまうらしくて仕事が終わったら急いで行くと言っていた。

「美涼さん」

「隆二さん、メルは……、大丈夫だよね……?」

 メルが懐いていた、たった一人の獣医さん。

「ごめんね。美涼さんが連れたきた頃にはメルちゃん亡くなってたんだ。何か大きめの物を飲み込んじゃったみたいで、それが引っかかって息ができなくなったみたい」

「そんな」

 立っていられなくて膝から崩れ落ちた。

 朝まで元気だったじゃん。なんで? 朝、バタバタして構ってあげれなかったから? なんで今日なの。

 涙で視界が歪む。

「メルちゃんの喉に引っかかってた物なんだけど」

 隆二さんはトレーに乗せたそれを私に見せた。頭が真っ白になって、瞳にためた涙が流れていく。

「ごめん、ごめんねメル」

 そこには、今朝見つけることの出来なかった自転車の鍵があった。メルとお揃いでつけた鈴がチリンと鳴る。

「多分美涼さんの匂いがついてたから、見つけてじゃれてたんじゃないかな」

 後悔ばかりが頭を埋めつくしていく。

「お母さん来るの待とうか」

 何かを察した隆二さんはそれ以上何も言わなかった。外はどんより曇り、まるで私の心のようだった。

 ふと視界の端に雑誌やらなんやらを置いてある棚が目に入る。そこには以前まで置いていなかったカードのような物も置いてあった。

「死神提供局番……?」

 見たこともない電話番号。本当にかかるのだろうか。そんな疑いすらすぐに無くなってしまうほど、『最近亡くなった方に未練のある、そこの貴方に。伝えられなかった事を伝えるチャンスを』というフレーズに藁にもすがる思いで電話をかけた。

 トゥルルルルル。トゥルルルルル。

 何もない部屋でコール音だけが鳴り響いているような、そんな音だった。

「こちら死神提供局番です。最近亡くなった方に未練のある、そこの貴方に。伝えられなかった事を伝えるチャンスを。どんな話もお聞きします」

 妙に詐欺っぽい口調にドキッとする。

「あの、愛犬が亡くなって……」

 相手を探るように静かな声で言ってみた。

「そうでしたか。それはとても辛かったでしょう。何歳になる子だったんですか」

「えっ、と5歳です」

「とても早くに亡くなってしまったのですね。これからいっぱい思い出が作れたかもしれないのに」

 心に槍が刺さったような感覚がした。私がメルを殺したんだ。昨日、きちんと片付けていたらメルが拾わなかったかもしれない。寝坊をしてなかったら鍵を見つける時間だってあったかもしれない。私のせいだ。

「しかし、人生とは何があるか分からないもの。もし貴方が別の選択をしていれば、逆に貴方が死んでいたかもしれない。つまり、自転車で登校していたらトラックに跳ねられていたかもしれない、という事です」

「なんで」

「そこで貴方に提案なのですが」

 「なんで私が自転車で登校しているって知っているんですか」と言おうとした時、食い気味に男性は話を被せてきた。この人怪しすぎる。

「貴方に亡くなった愛犬への余命宣告をして頂きたいのです」

「余命宣告?」

「はい。そうですねー、今朝頃に時間を戻せば丁度いいかもしれませんね。制限時間は3分です。伝えられなかった思いも合わせて、愛犬に余命宣告をしてあげてください。それでは」

 目の前がぐわんと揺れ、魂が頭から抜けるような、そんな感覚がした。目をパチッと開けると、そこは見慣れた我が家だった。遠くの方で私の声が聞こえた。

「自転車の鍵どこ?!」

 朝に時間が戻ってる……? 時計を見ると八時四十五分を指していた。

 キャン! キャン!

 足元でメルが鳴く。メルが生きてる。それだけで涙が溢れてきた。しかし、目の前では三分のカウントダウンが始まっていた。

「メル、ごめんね。私のせいで構ってあげれないまま亡くなっちゃうんだ。自転車の鍵、片付けなくてごめんね」

 メルを抱きかかえて最後の温かさを感じた。

「美涼ちゃんのせいじゃないよ」

「え」

「私が美涼ちゃんの鍵を隠してるの。いつもあれを持って行ったら美涼ちゃん、いなくなっちゃうから。行ってほしくなくて隠してるの」

 メルが喋っていた。私の勘違いなのだろうか。だけどメルの声だと確信した。

「メル、喋れるんだね。ごめんね、遊びたかったよね。本当にごめんね」

「美涼ちゃん、謝らないで? 鍵はベッドの下にあるよ。勝手に取っちゃってごめんね」

 ベッドの下。急いでメルの届かない場所に移動出来たら死なないかもしれない。

 急いで階段を駆け上がる。タイムリミットは三十秒しか残っていなかった。私の部屋の扉を思い切り開けベッドの下を覗き込む。暗くて何も見えない。

「どこ? 早く……!」

 手をバタバタとさせ見えない鍵を手探りで見つける。それらしき物が見つからない。

「嫌だ!」

 チリン

 手のひらが鈴を叩いた。と同時に、タイムリミットはゼロとなっていた。


「美涼さん、お母さん来てくれたよ」

 目を覚ますと、そこには急いで駆けつけてくれたお母さんが立っていた。

「お母さん、ごめんなさい。私がちゃんと自転車の鍵を片付けてなかったから、メルが鍵で遊んじゃって」

「メルにごめんねって言いに行こっか」

 お母さんの手が背中を撫でる。

「メルちゃん、美涼さんがいつも鍵を持ったらいなくなっちゃうってわかってたから、隠しちゃったのかもしれないね」

 どこかで聞いたような言葉だった。そこがどこかなんて思い出せない。目の前のメルをそっと抱きしめ、何度も口にした最後の「ごめんね」を呟いた。

 チリン

 メルの鈴が鳴る。この鈴がなる時はメルが嬉しい時。私はしばらくメルを抱きしめ続けた。


 トゥルルルル。トゥルルルル。

「はい、こちら死神提供局番です」

「聞きましたよ。今回の案件」

「素敵でしたね」

「あと十秒あれば、飼い主もその愛犬も幸せの継続が出来ていたのに」

「しかしながら、この時間を提供してくださっているのはそちらではありませんか。規則の改正を求めてもいいんですよ。いつもは「運命を変えるだ」なんて言ってるわりに、こういう系の案件では幸せ継続を願うだなんて」

「仕事が増えてしまいますので、そのような申請はご遠慮ください。今回のことは、一つの勉強として覚えておきましょう。それでは」


episode.2 END

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