第12話
「大丈夫だ。ティラが命を賭けて守らなければならないような状態に陥ることはない。お前が、おとなしく、何もせずに、この結界の中にいる限りはな」
そんなに念入りに言わなくても。
そう思ったが、前科があるので仕方がない。
「はい。おとなしくしています……」
自分だけならまだしも、ティラが命を懸けるような事態になったら大変だ。
「それでいい。庭までなら大丈夫だ。もし外部から声を掛けられても答えるな。欲しいものがあればティラに言え」
「うん、わかった」
まるで子どもを置いて仕事に出かける母親のようだと思ったが、もちろん口には出さない。そんなことを言ったら、誰のせいだと睨まれるに違いない。
いつのまにか夕陽は沈み、周囲はすっかり薄暗くなっている。
食事の支度まではあと少し時間がかかるらしく、優衣はこれから住むことになる部屋で、ゆっくりと寛いでいた。
そのうち食事の用意ができたとティラが呼びに来てくれた。彼女に連れられて、一階の食堂まで降りる。
「わ、すごい」
大きな細長いテーブルには様々な料理が並んでいる。盛りつけも綺麗で繊細で、使っている食器も高級そうなものばかりだ。
「おいしそう」
小さく手を合わせて、いただきます、と呟く。
昼間食べた、シンプルな料理もおいしかった。でもこれは格別だ。
向かい側にはジェイドが座っている。
その前には白い陶器の茶器セットがあるだけだ。ちらりと視線を向けると、彼はぼんやりと窓の外を見ているようだ。
「ジェイドは食べないの?」
そう尋ねると、彼は視線を外に向けたまま、ああ、と小さく答えた。考えてみれば、ジェイドが食事しているところを見たことがない。何か事情があるのかと思ったが、それ以上聞くことができずに食事を再開した。
「ごちそうさまでした」
考え事をしながら、それでもおいしく最後まで食べ終わる。
「とってもおいしかったです」
傍で給仕をしてくれたティラにそう告げると、彼女は優しく微笑んだ。
食事の後は大きくて綺麗なお風呂を使わせてもらい、部屋に戻った。
ふかふかのベッドに横たわると、あっという間に眠りについてしまった。今日も初日に劣らず色々とあって、疲れ果てていた。
(毎日、こんなだったらどうしよう……)
きっと明日こそ平穏な日に違いないと信じて、眠りについた。
そして迎えた次の朝は、とてもさわやかな気分で目が覚めた。
柔らかいベッドに手足を伸ばし、鳥の囀りを聞きながら目を開く。すると目の前には思わず視線を奪われてしまうくらい、綺麗な顔があった。
綺麗なものっていいな。
そう思ったところで我に返った。
(な、なんでわたしの隣にジェイドがいるの?)
悲鳴を上げて飛び起き、そのままの勢いでベッドから落ちる。膝を打ち、その痛みに顔を顰めたところで、昨日の決意を思い出した。
よし、湖を探そう。
残念ながら、引っ張っても起きない様子のジェイドをベッドから降ろそうとした時点で、悲鳴を聞いて駆けつけてきたティラに必死に止められた。
「……騒がしいな」
その騒ぎでようやく目が覚めたジェイドは、優衣が思わず羨ましくなるくらい、さらさらの綺麗な金色の髪を掻き上げて、優衣を見つめた。
「どうしてわたしの部屋に、部屋ならまだいいけどベッドに寝ているのよ」
そう怒鳴りながらも、部屋まではいいなんて随分ハードルが下がったな、と我ながら思う。
(昨日までは、部屋に入ってきたら湖コースだったのに)
「起こしに来たら、あんまり気持ちよさそうに寝ていたからな。思わずつられた」
そう言いながら、ジェイドは再び転がる。
(そこはわたしのベッドだっての)
引き摺り降ろそうと思ったが、次の言葉に思わず手を止めてしまう。
「……こんなに眠ったのはひさしぶりだな」
こんなに、と言っても起こしに来たくらいだから、せいぜい一、二時間だろう。
「普段、眠れないの?」
思わず尋ねると、彼は目を閉じたまま頷いた。
そうなってしまうと、もう強引に引き摺り降ろす気にはなれず、仕方なくティラを見る。彼女も戸惑ったように、そのまま眠ってしまったジェイドを見ていた。
「……先に朝食にしますか?」
「うん」
優衣はティラの提案に頷くと、眠っているジェイドを残して部屋を出た。
用意してくれた朝食も、とてもおいしかった。
野菜の味がしっかりと出ているスープ、焼きたてのパン。新鮮な果物。美味しいものを食べていると、不思議と心が落ち着いてくる。
「ジェイドってそんなに夜、眠れないの? そういえばご飯もほとんど食べてないみたいだし」
いつも食事をしている優衣の傍で、紅茶などを飲んでいるだけだったと思い出す。気になって給仕をしてくれるティラに尋ねると、彼女は困ったように頷いた。
「はい……。そうなのです」
魔族を従わせるほど、力に満ちたジェイド。
それなのに食べられない、眠れない。
彼はどんな闇を、その美しい外見の中に潜ませているのか。
深入りしてはいけないと、心が警鐘を鳴らしている。それなのにもう優衣の脳裏には、彼の安心したような寝顔がしっかりと焼きついてしまっていた。
朝食を終えてから部屋に戻ってみると、ジェイドはまだ眠っていた。
優衣はベッドの空いている場所に座り、太陽の光を反射して煌めいている金色の髪を、そっと撫でてみる。さらさらとした心地良い感触が、指の間から零れ落ちた。
(綺麗な髪だよね)
この世界では誰もが優衣の黒髪を褒めてくれるが、ほとんどの人が黒髪だった日本で育った優衣としては、彼の煌めく金髪の方が珍しかった。
しばらくそうしていても、ジェイドが目を覚ます様子はなかった。
こんな無防備な姿は珍しいを通り越して不気味なくらいだが、彼にとってここが自分の家だという安心感もあるのかもしれない。
(さて、どうしようかなぁ……)
髪を撫でるのも飽きた優衣は、立ち上がって周囲を見渡す。
今日は新しい本を借りたいから図書館に連れていってほしいとお願いするつもりだった。でもこんなにゆっくりと休んでいるのに、そのために起こすのも悪いような気がする。
(じゃあ何をしようかな?)
眠っている人と一緒に過ごすのも、ちょっと気まずい。
この綺麗な屋敷を、見学してみるのもいいかもしれない。
お茶を持ってきてくれたティラに、館の中を見てまわってもいいか尋ねる。すると、鍵の掛かっていない部屋ならば、自由に見てもいいという。
(……いや、いくらわたしでも鍵の掛かっている部屋を、無理矢理開けたりしません。そんなスキルもないし)
とにかく許可をもらったので、この広い館の中を歩いてみることにした。
さっそく部屋から出ると、広い廊下がある。
高所にある窓から、眩しくて暖かい太陽の光が降り注いでいた。
すぐ近くに大きな森が見える。
風に揺れる木の葉がざわめき、それに対抗するかのように鳥の鳴き声が響き渡る。
こんなに自然に近い場所にあるのに、この館は、あの温泉の近くにあった王家の別荘よりも豪華な造りだ。
白を基調にしているから、かなり念入りに手入れしないと汚れが目立つだろうな、などと庶民的なことを考えながら、広い廊下を歩く。
まるで美術館やホテルを見学している気分になってあちこちを覗きながら歩いていると、中庭が見えた。
王城にあったような、人の手で造り上げた見事な庭園ではなく、花や木が自然のまま存在している空間だ。
つまりこの美しい館にはかなり不釣り合いの、荒れ果てた庭だったのだ。
館の前にある庭はあんなにも美しく整えられているのに、どうしてここだけこんなに荒れ果てているのか。逆に興味を覚えて入り口を探すと、廊下の隅に隠されているかのように存在する扉を発見した。
「あ、ここから入れるのね」
扉に鍵は懸かっている。
でもその扉には、鍵が差し込まれたままだ。
これはどう判断すればいいのか。
「……うーん。入っていいのか、悪いのか」
考え込むこと、数秒。
どうしてこの中庭だけこんなに荒れ放題になっているのだろう。優衣は好奇心に勝てず、そっと扉を開いて中に入った。
「庭はいいって、ジェイドも言っていたし」
一歩、足を踏み出す。
するとたちまち空気が変わった。
身体を包み込む重苦しい空気。
あれ、と思って足下を見ると、そこには魔方陣のようなものが描かれていた。それを踏んでいる優衣の足の下から広がっていく、紫色の光。
(ああ、やっぱりここは入ってはいけない扉だった……)
危険かもしれないのに、好奇心が勝って入ってしまった。ホラー映画のヒロインかと嘆いてみても、もう遅い。
紫の光が身体を包み込んでいく。
眩しくて目が開けていられなくて、目を閉じた。
ふわりとした浮遊感を覚えたのは、ほんの一瞬。
次の瞬間には、かなり高い所から落ちたような衝撃が襲ってきて、その場に座り込む。
「い、痛ぁ……」
腰をさすりながら周囲を見渡した。
「え? ここ、どこ?」
どうやら、四方をガラスに囲まれた部屋のようだ。大きさは充分にあるし、透明なガラスなので圧迫感はないが、扉がないから出ることもできない。
「誰かいませんか?」
大声で叫んでみるけれど、声が反響するだけで何の返答もない。こんこん、とガラスを叩いて、さらに声を張り上げた。
「誰かー、いませんかー?」
こちらに近付いてくる足音が聞こえたのは、そのときだった。
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