第二章
第11話
ジェイドの手を握った瞬間、目の前の風景が一変した。
馬車で長時間移動してあの場所に行ったのに、気付けばもう町の中だった。魔法を使える人にとって、きっと世界はすごく狭く感じるに違いない。
羨ましい思う反面、それはそれでつまらないものかもしれないとも思う。どこにでもすぐに移動できるのならば、旅行する楽しみもなくなる。
もっとも、この世界では他国との交流は皆無のようだが。
まだ優衣の手を握っているジェイドは、何か思案しているようだ。
いつもの不機嫌そうな顔とは違い、真剣に考え込んでいるその表情はやはり綺麗で、少しだけ見惚れてしまう。
でも彼は一向に動かず、優衣は仕方なくそのまま手を離してくれるのを待った。
「……あの」
どのくらいそうしていたのか、わからない。
町の中で手を握って向かい合うふたりを、周囲の人間は微笑ましそうに見ている。
(そ、その見守るような視線はやめてください……)
でも端から見れば、どう考えても別れを惜しんでいる恋人同士にしか見えない。
「ジェイド? 離してくれないと帰れないよ」
仕方なくそう促すと、彼はようやく我に返ったように優衣を見た。
「いや、帰らなくていい。このまま行くぞ」
「え? どこに?」
繋がらない会話に首を傾げた瞬間、また景色が変わっていく。
どこに連れて行かれても、この世界のことを何も知らない優衣はいつも彼の言いなりだ。
(まあ、もういいんだけど……)
諦めたわけではないが、帰る手段を知っているのは彼だけ。それに魔族から守ってくれたときから何となく思っていた。
ジェイドが自分を傷つけることはない。
それは利用できる間だけかもしれないし、仮にも自分が呼び出したのだから、という責任感からなのかもしれない。そんなものが彼にあるかどうか不明だが、それでも優衣はそう思っていた。
(甘いかな。でも、ちゃんと魔族からは助けてくれたし……)
景色が定着し、顔を上げると見覚えのある建物の前にいた。
そこは、この世界に来てから初めて連れてこられた場所。
あの豪華な屋敷だった。
入り口まで歩いて行くと、優衣は顔を上げてその建物を見つめた。
(やっぱり、綺麗だなぁ)
もう日が暮れる頃だ。
白い屋敷は、緋色の光に包まれていた。
振り返って背後を見てみると、この館と蔦の紋様に彩られた大きな門の間には見事に手入れされた庭がある。それは庭というよりも庭園と呼んだ方が相応しいような広さで、背丈ほどもある門が小さく見えてしまうくらいだ。
通路に煉瓦が敷き詰められた庭には色とりどりの花が秩序よく並んでいて、大きな噴水まである。そこから勢いよく吹き出した水は沈む夕陽によって赤く染まり、まるで大きな篝火のように見えた。
館の周囲は背より遙かに高い壁に覆われている。その外壁は見るからに固くて丈夫そうだ。
優衣はもう一度振り向いて、今度は屋敷を見上げる。
三人くらいなら並んだまま入れそうな大きな白い扉には、細かい細工の彫刻が施されていて、真ん中にはステンドグラスのような色のついた硝子が嵌め込まれていた。
扉をゆっくりと開けて中に入ると、目の前には吹き抜けの大きなホールがある。
左右から緋色の絨毯が敷かれた階段が降りてきていて、ここはどこの美術館かと聞きたくなるような装いだ。
そんなホールの中心に佇んでいる、ジェイド。
煌く金色の髪。王妃のような淡い色ではなく、本当に豪奢な金髪だ。こちらを見ている目は、ラピスラズリを思わせる深い藍色。
本当にここは現実なのかと、思わず溜息が漏れる。
あの雑然とした町の中では感じなかった、非日常感。全部、夢の中のできごとでしたと言われたら、すぐに納得してしまいそうだ。
「何をしている?」
手を差し伸べられる。
繋いだ手から伝わるこの体温が、ジェイドがここに存在している証だった。
「ねえ、どっちが本当のジェイドの家なの?」
ジェイドに手を引かれながら、大理石のような光沢のある白い廊下の上を歩く。ヒールの踵がこつこつと音を立てているのに反して、彼のほうは足音ひとつ立てない。
「あいつらが知っているのは、向こうだ。だが、実際にはここに住んでいる」
「この屋敷のことは、誰も知らないの?」
「ああ」
彼は短くそう答えると、一番奥にある部屋の扉を開いた。
「綺麗な部屋……」
ジェイドが中に入り、部屋の様子が見えると、優衣は思わずそう呟いていた。
この屋敷にふさわしい、豪華で大きな部屋だった。
純白の壁紙に、薄紅色の調度品が並んでいる。繊細な造りの美しいそれには、女性ならば誰もがうっとりとするに違いない。
床に敷き詰められているのは、毛足の長い柔らかそうな絨毯。続きの部屋には天蓋のある、所謂お姫様ベッドが見えている。そして大きな窓にはレースでできたカーテン。窓からは、あの大きな庭園が一番良い角度で見えるようになっていた。
部屋の中央には、見覚えのある茶色の髪をした侍女がいた。最初に来たとき、支度を整えてくれたあの女性だった。
彼女はジェイドを見て深々と頭を下げている。
「優衣。あの家は引き払って、今日からこの部屋に住め」
綺麗なものを見るのは、目の保養になる。
そう暢気に考えていたのに、そんなことを言われて慌てた。
「え、また一日しか住んでないよ。どうして?」
「他の魔族に目を付けられると厄介だからな。ここにいれば、どんな者でも俺の許可なくしては絶対に入り込めない。だからなるべく、この敷地内からは出るな」
森で襲われたことを気にしてくれているようだ。
たしかにあれは、ひとりで森に入った自分が迂闊だった。
これからも用心しようとは思ってはいるが、あまり日常的に危険のない場所で生まれ育ったせいで、危機管理能力が欠けている自覚はある。やたらと町の中を歩き回るよりも、なるべくこの屋敷にいた方がいいと自分でもそう思う。
「うん、わかった。じゃあ、もう図書館にも行けないのね」
少しずつでもこの世界のことを学んでいこうと思っていた矢先だったので、それだけは残念だった。マルティとも会いたい。
「時間のあるときなら、連れて行ってやる。お前には少し、いや、かなり、魔族に関する常識がないみたいだからな」
「……むう」
生まれ育った場所には魔族なんかいなかったのだから、仕方がない。
そう反論したいが、よくよく考えてみればあのときのミルーティはあきらかに怪しかった。ついていった自分が悪いと反省している。
「もっと勉強します……」
仕方なくそう言うと、ジェイドは、この部屋に控えていた茶色の髪をした女性に向き直る。
最初に色々と世話をしてくれた人だ。
「ティラ、誓約しろ。お前の持てる力全てを賭して、優衣を守ると。この誓約はお前の命よりも重い」
するとティラと呼ばれた茶色の髪の侍女は、ジェイドの足下に跪いた。
何だか雰囲気が違う、と思った。
王城にも侍女はたくさんいたが、王家に忠誠を誓っているというよりは仕事としてやっているという印象だった。もちろん仕事だから一生懸命にやるだろうが、きっと心から従ったりはしない。
でも、この人は違う。
ジェイドに心底従っていて、彼が命を投げ出して守れと言えば、彼女は絶対にそうするだろう。
「誓約致します。わたしは優衣様を守るために命を捧げます」
そう口にする彼女は、本気に見える。
(でも命を捧げるとか、そんなの……)
ジェイドの服の裾を軽く引っ張って、彼の意識をこちらに向ける。
「どうした?」
「ヤダよ、そういうの。命を捧げるとか簡単に言わないで」
驚いたように目を見開いた彼は、次の瞬間、とても優しい笑みを浮かべた。
初めて見る顔だった。
ジェイドは、こんなにも穏やかな表情をすることができるのだ。
どきん、と胸が高鳴ったのを感じる。
「誓約の決まり文句のようなものだ。本当に命を捨てろと言っているのではない」
そして宥めるように、髪に優しく触れる。
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