第8話
クローゼットを開けると着替えがいくつか入っていた。衣服を着替え、清潔なシーツが敷いてあるベッドに横になる。
目を閉じるとすぐに意識が遠のいた。目が覚めたら元の世界に戻っていたらいいのにと願いながら、疲れた身体は急速に眠りに落ちていった。
ふと、光が顔に当たるのを感じた。
眩しい。
「……やっと起きたか」
寝起きにそんな声をかけられ、無意識に声のする方向を見つめた。
見覚えのある金色の髪をした男が窓の前に立っている。差し込む陽光が、その髪をさらに煌めかせていた。
「ん?」
あの人は誰だっけ。
優衣はそう思いながら、まだ眠気の残る頭をゆっくりと振り、起き上がる。
「まったく起きそうになかったからな。湖にでも放り込めば、さすがに目を覚ますかもしれないと思っていたところだ。さっさと着替えろ。出かけるぞ」
(……ああ、思い出した)
思い出したくなかったが、そんな暴言ですっかり思い出してしまった。
のろのろと起き上がり、ジェイドに言う。
「着替えるから、出て行って」
だが彼はじっくりと観察するように、優衣に視線を走らせている。
「な、なに?」
思わずその視線から逃れるように、毛布を身体に巻きつけた。だが、ふと視線を落としてみると、太腿が剥き出しになっている。昨日の夜、眠かったせいでよく探さず、大きめのシャツを羽織っただけで寝ていたのだ。
まさか彼がこの部屋に無断で入るとは思わずに。
「きゃああっ」
恥ずかしさのあまり、真っ赤になって絶叫する。
「うるさい。そう喚くな。下で待っているからすぐに来い。遅れたら、明日の朝は湖で目が覚めることになるぞ」
かりにも女性の寝室に無断で入った挙句に、脅すとは。
「あ、明日もまた勝手に寝室に入ってきたら、こっちが湖に沈めてやるんだから!」
湖はどこにあるのだろう。
図書館で調べればわかるだろうか。
どうにか衣服を整え、怒りと恥ずかしさで真っ赤になりながら、優衣はジェイドが待つ階下に降りていく。
「遅い。すぐに行くぞ」
途端に行く先も告げずに背を向けるジェイドに、思わず溜息が出る。
「待って、どこに行くの?」
長いドレスの裾を持ち上げながら、前を歩く背中に尋ねた。
クローゼットにはたくさんの服があったが、すべて上等な布地で作られたドレスだった。その中でも比較的大人しいデザインのものを選んでみたが、やはり胸元は大きく開いてしまっている。それに、こんなドレスを着て徒歩で町中を歩くのも変な気分だ。
「王城だ。王妃陛下がお前を呼んでいる」
「……お、王妃さま?」
「ああ。選出者全員を連れて、肌に良いとかいう温泉に行くらしい」
やはり一般的に、選出者は美しさを磨くことが使命なのだろう。
(でも温泉かぁ……。気持ちよさそう)
異世界の温泉がどういうものか興味もあったし、ゆっくりお風呂に浸かれば、きっと疲れもとれるに違いない。
でもそれよりも先に。
「ま、待って。あの、お腹がすいたんだけど……」
昨日から何も食べていない。疲れていたせいで、食事もせずに眠ってしまったのだ。空腹のまま温泉に入るのはかなりつらい。
それでも男性に空腹を訴えるのには、勇気が必要だった。
「ああ、そうだな。……まだ少し時間はあるか」
ジェイドはようやく立ち止まり、立ち並ぶ店を眺める。
まだ白い朝の光の中で、人々はもう忙しそうに動き回っていた。
夜は人通りがない分、朝は少しでも早く商売を始めたいのだろう。食事を出している店も数件あるようだ。
「軽くこの辺りで食事していくか」
ジェイドに連れられて、その中の店のひとつに入る。
普通に生活をしている人々の中で、このドレス姿はかなり目立っていた。それでも空腹には勝てず、大人しく彼に従う。
いらっしゃい、と穏やかな笑顔で迎えてくれた老婦人は、ジェイドの注文に鮮やかな手つきで食事を用意してくれた。
焼きたてのパンに野菜のスープ。鳥肉に香草をまぶして蒸したものに、ゆで卵。どれもとても美味しかった。
「ジェイドが女の子を連れてくるなんて珍しいね。こんなに綺麗なお嬢さんに、うちの食事が口に合うか心配だわ」
店主の老婦人は顔見知りのようだ。彼には良い香りのするお茶を出しながら、優しい顔で笑う。
「ああ。可愛いだろう?」
さらりとそんなことを言うジェイドに、あやうく野菜スープを吹きかけそうになる。
危なかった。
「な、何を言って……」
「説明するのが面倒だからな。早く食べないと遅れるぞ」
その言葉で、慌てながらも何とか食事を終える。すっかり気分も落ち着き、老婦人に見送られて店を後にした。
「ごめんなさい、全部支払ってもらって……」
当然ながら、優衣はこの国の通貨を持っていない。食事の支払いもジェイドがしてくれた。
「いや、さすがにそこまでしろとは言わない。生活費の心配はするな」
それよりもやって欲しいことがある。
そう言う彼の言葉に、ここは素直に頷いた。
働いて知り合いが増えたりしたら、帰るときに寂しくなる。ここを離れたらもう二度と会えなくなるのだから。
(ジェイドならもう二度と会えなくなっても寂しくないわね。あ、でも顔だけは綺麗だから、それはちょっと名残惜しいかもしれない……)
完全に好みの顔なんて、なかなか巡り合えるものではない。ただ、中身が酷すぎるせいで、恋に落ちることはなさそうだ。
食事を終えると、審議会のときのように魔法で王城の中に移動する。そこからは、王城に勤める侍女が案内してくれるようだ。さすがに向かう先が王妃の部屋なので、ジェイドは付き添えないらしい。
まだこの世界で頼れるのは彼だけで、離れると不安になる。でも行く先が温泉では、ひとりで行くしかないだろう。
磨かれた美しい廊下を、ドレスの裾を気にしながらゆっくりと歩く。ヒールの音が響き渡り、床が傷付くのではないかと余計なことを心配してしまう。
だが先に進むにつれ、床には緋色の柔らかな絨毯が敷かれていた。
侍女がやや緊張した面持ちで部屋の扉を叩く。王妃の部屋付の侍女がそれに答えて扉を開けてくれた。部屋の壁は白で統一され、その奥には淡い金色の髪をした女性が立っていた。
そう若くはないが、それでも充分に美しい人だった。
「あなたが異世界から来た、優衣ね」
落ち着いた声が、優衣の名を呼ぶ。
「はい、優衣です。今日はお招き頂き、ありがとうございます」
この世界の礼儀は知らないが、それでも精一杯失礼にならないようにと頭を下げる。そうすると王妃も、にっこりと機嫌良さそうに微笑んでくれた。
「これで全員揃いましたね。それでは行きましょうか。支度をお願いね」
王妃の言葉に、周囲の侍女が忙しく動き回る。
優衣も彼女達に誘導されて、馬車に乗り込んだ。他の馬車には、あとのふたりも乗っているのだろう。
小さな窓から見る景色が、どんどん変化していく。
整備された町が少しずつ遠ざかり、自然が豊かになってきた。やがて建物よりも畑が多くなり、畑が果樹園となり、そして森になった。
「……遠いんですね」
ぽつりと呟くと、同席していた侍女が頷いた。
「そうですね。ですがとても綺麗な場所です。王家の別荘が近くにありますので、警備もきちんとしています」
その別荘も王妃が好んで使っているので、手入れも行き届いていると言う。
やがて目的地が近くなったのか、馬車は速度を落として注意深く停止した。優衣も侍女に手を貸してもらい、スカートの裾を気にしながら馬車を降りる。
そこは侍女が言っていたように、四方を深い森に囲まれた美しい場所だった。
「綺麗……」
思わずそう呟いて四方を見渡すと、湖があった。その奥には、白く大きな建物がある。あれが別荘だろう。
それにしてもこんなにも森に近い場所なのに、湖には鳥が一羽もいない。不審に思ってよく見てみると、白い煙が上がっている。
「え、これが温泉なの?」
優衣は思わず声を上げた。
たしかに向こうの世界にもあるが、まさか露天風呂だとは思わなかった。しかも周囲には警備の兵士がいるというのに、生い茂った木々だけが衝立だ。
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