第7話

「それで、他にもとの世界に帰る方法があったら、と思って」

 少しだけ期待を込めてそう尋ねると、彼女は難しい顔をした。

「この国の事情に巻き込まれたあなたには申し訳ないと思うし、何とかしてあげたいとは思うわ。でも異世界に通じる道を開いて、さらにそこからひとりの人間を召喚するなんて、信じられないくらいの魔力が必要になる。ジェイドでなければ無理なのよ」

 マルティの答えを聞いて、優衣は肩を落とす。

(やっぱりそうかぁ……)

 あの傲慢な物言い。

 ジェイドは、自分しか優衣をもとの世界に戻すことはできないと知っているのだ。

 がっかりとした優衣を気の毒に思ったのか、マルティはさらに謝罪する。

「本当にごめんなさい。あなたは私達と違って、この国のために命を懸ける義務なんてないのに」

「え、命?」

 不穏な言葉に、胸がどきりとした。

 たしかに魔族はとても恐ろしいものだと聞いたし、破壊されたような跡がある王都の様子を見ていると、危険だと思う。

 でも友好的な魔族もいる、恋愛もよくあることだというジェイドの言葉を聞いて、楽観視しすぎていたのかもしれない。マルティの言葉で、そう気が付く。

「魔族はとても恐ろしい存在。それに自分から接触するのだから、命の危険はあるわ。私はもちろん、あのミルーティだって承知していることよ」

「そう、ね。少し考えてみればわかりそうなことなのに」

まだ観光気分というか、この世界のことを現実のものとして受け入れていなかったようだ。

「わたしはこの国のことも魔族のことも何も知らないわ。もっと勉強しなきゃ」

 ジェイドはあまり頼りにせず、自分でしっかり自衛しなければならない。

(誰も頼る人がいないからって、すべて頼り切ってしまうのは、危険だわ)

 それに彼は、いかにも何か企んでそうだ。

 たとえ束の間でもこの世界で生きるのなら、自分の意志をしっかり持たなければ、周囲の思惑にたちまち流されてしまいそうだ。

 見知らぬ場所、見知らぬ国に飛ばされて、今までは物語の主人公になったかのように、ちょっとだけ華やいだ気分だった。

 でも、マルティを見て思った。

 ここには実際に暮らし、生きている人達がいる。

 彼らにとって、この世界が現実なのだ。

 観光気分で浮かれた気持ちが、少しずつ冷めていく。

(わたしは人形にはならないわ……)

 何も知らずに操られてしまうのは嫌だった。そうならないためには、やはり知識が必要になる。

(本を読まなきゃ)

 マルティは守護者について詳しく書かれた本、そしてこの国や大陸の歴史の本を選んでくれた。いつでも相談にのるからと言ってくれた彼女に礼を言って、優衣は個室に入って本を開く。

 まずは守護者について調べる。

 ジェイドが言っていたように、最初は人間の女性を愛した魔族の男が、恋人を守ろうとして他の魔族と戦ったのが始まりらしい。その魔族は相当強かったらしく、魔族に脅かされていた国はたちまち平和になり、長く続いた。

 それを聞いたある国の王女が、身を捧げる代わりに国を守護してほしいと魔族に頼み込んだ。その王女はとても美しかったらしく、魔族も王女に魅せられてその国を守ったらしい。

(そして他の国でも次々に同じようなことが起こったわけかぁ。最初はともかく、他はもう何というか、人身御供みたいな……)

 さらに時代は進み、この国は守護契約という魔法を生み出した。

 それは互いに了承の上に守護契約を結ぶと、どちらかが死ぬまで有効になるという魔法だ。

 魔族はその契約を結んだ国の人間を殺すことができなくなり、もとの仲間のところにも帰れなくなる。

 他の国にはない、ティーヌ王国独自の魔法のようで、その魔法のお蔭で守護者との契約は強固なものとなった。

 ただ口約束だけで結ばれている他国の守護者のように、途中で飽きて立ち去ってしまうことも、気まぐれに人を殺すようなことはないようだ。

 だが相手は、人間など玩具程度にしか思っていない魔族。よほど相手を愛していなければ、そのような契約を結んでくれるとは思えない。

(ちょっと親しくなればいいって問題ではないみたい。……はぁ。本当にわたしにできるのかな)

 優衣は溜息をついて本を閉じる。

 ジェイドが、契約を結んでしまえばもう用はないと言っていたのは、この守護契約のことらしい。だが、相手は仲間も何かも捨ててこの国の守護者になってくれるというのに、優衣は契約を結んだら向こうの世界に帰ってしまうのだ。それはあまりにも不誠実ではないか。

(うん、まずそんな関係になれる魔族と出逢ってから考えよう……)

 今は考えても仕方がない。

 そう思い直した優衣は、今度は地理と歴史の本を手に取った。

 知らない地名や国は、地図と見比べながらその位置を確認する。わからないことも多かったが、とにかく最後まで読んでしまおうとページをめくり続けた。

「あれ?」

 熱心に読みふけっていると、ふと視界が暗くなった。

 顔を上げると、少し疲れたような顔をしたジェイドがまっすぐにこちらを見つめていた。

 深い海のような色。

 子どもの頃、お守りとして持っていたラピスラズリの腕輪を思い出す。

「あ……」

 彼が来たことにも気が付かないほど、夢中になっていたらしい。

「ごめんなさい、気付かなくて」

 慌てて立ち上がる。

「いや、読み終わるまで待とうと思ったが、もう閉館時間になる。それは借りていこう」

 うながされて、もう一冊、まだ読んでいなかった魔族に関しての本と一緒に手渡すと、彼は受付で貸し出しの手配をしてくれた。二冊の本をしっかり両手で受け取り、図書館を出るジェイドの背後をついて歩く。

 外はもうすっかり暗くなっていた。

 町の両側に置かれている街灯から光が差し込み、誰もいない道を照らしていく。まだ暗くなり始めたばかりだというのに、歩いている人の姿は皆無だった。

「……誰もいないのね」

「夜は町中にも魔族が出る場合があるからな。戦う力のある者以外は外に出ない」

(魔族……)

 マルティに選んでもらった本には、魔族に襲われた歴史がしっかりと記されていた。頼らないようにしようと思ったばかりなのに、ついジェイドの傍に寄る。

「今は大丈夫だ。俺がいる」

 力強い言葉に安堵を覚えるが、彼にとって自分が価値のない人間だったら守ってもらえるのだろうか、とふと考える。

(ないだろうなぁ。なんていうか、合理主義? って感じがするもの)

 冷たい夜風が、彼の金色の髪を揺らしている。

 向こうの世界は夏だったのに、この世界は今、冬になろうとしているようだ。

(そういえば、どこに向かっているのかしら?)

 先を歩くジェイドにそう尋ねてみると、彼は足を止めることなく答える。

「お前が住む家に案内する」

「わたし、ひとりでこの町に住むの?」

 ジェイドと一緒にあの屋敷に戻ると思っていた優衣は、驚いて声を上げる。

 さすがに見知らぬこの世界にひとりで暮らすのは、少し不安だった。

「王城に住んでもいいが、手続きに時間がかかる」

「……王城はちょっと。うん、町でいいわ」

 不安はあるが、ひとりのほうが気楽なのかもしれない。

 そうして辿り着いたのは、町中にあるごく普通の家だった。ジェイドは鍵を開けて中に入る。優衣もその後に続いた。

「ここの家を使え。中の物も好きに使って構わない」

 新しくはないが、きちんと手入れのされた家だった。

「この家は、誰の?」

 見渡してみれば、生活品などは揃っている。

「俺の家、ということになっている」

「……なっている?」

 あの森の中の屋敷が彼の家ではないのか。不思議に思って彼を見つめたが、もちろん答えが返ってくるはずもない。

 ジェイドは優衣に家の鍵を手渡した。

「何か足りないものがあれば言え。また明日の朝に寄る」

 それだけ言うと、ジェイドは背を向けて去っていく。

 ひとり残された優衣は、寝室に入るとそのままベッドに腰を下ろした。

色々と考えたいことや、借りてもらった本も読みたいと思うが、もう限界だった。

「……もう、全部明日にしよう」

 向こうの世界で夜だったのに、こちらに来たら昼になっていたから、もう丸一日以上経過している。しかもあまりに多くのできごとがあったせいもあり、身体はかなり疲労していた。

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