第9話
王妃もいるのだから覗きをするような輩はいないとは思うが、それでもなかなか勇気のいる配置だった。
「あ、優衣」
険しい顔をして露天風呂を睨んでいると、背後から声がかけられた。
振り返ると、図書館で少し話をしたマルティが、こちらに向かって歩いてくる。いつものように魔導師の服装をした彼女は、着飾った女性達の中で少し居心地が悪そうだった。
「よかったら一緒にいてくれる?」
「ええ、もちろん」
迷わず頷く。居心地の悪い思いをしていたのは、優衣も一緒だった。
「それにしても温泉がまさか野外だったなんて。でも王妃陛下のお誘いなら、入らないわけにもいかないし」
マルティはそう言うと、困ったように温泉と警備の兵士を見比べている。
悩みはどうやら同じらしい。同意しようとすると、背後から声がした。
「その程度の身体なんて、誰も見ないから大丈夫よ」
(ああ、また出た)
振り向くまでもなく、それが誰なのかすぐにわかった。
鮮やかな緋色の髪を結い上げ、身体の線に沿った深い紫色のドレスを身に纏っている女性は、審議会の時に顔を合わせた、あのミルーティだ。
「見られるとか、そういう問題じゃないわ。人前で裸になるなんて……」
「その発言は、王妃陛下に失礼じゃないかしら」
マルティははっとして口元を抑えて俯く。たしかにこの場所を選んだのは王妃なのだ。
「嫌ならば無理に参加しなければいいわ。今さら磨いたってどうなる身体でもないでしょうし」
くすりと妖艶に笑い、彼女は悠然と歩き去っていく。
「……私、帰るわ」
俯いていたマルティが、唇を噛み締めながら立ち上がる。
「え、そんな」
「王妃陛下には申し訳ないけれど、お話をして帰らせて頂くわ。私が目指すものは違うものだから。それに、あんな女と一緒に温泉だなんて、とても耐えられない。ごめんね、優衣。あなたは頑張って」
そう言うと振り返りもせずに、馬車に戻っていく。残された優衣は、ただ呆然とその場に立ち尽くしていた。
(ええ……。そんな、ひとりにしないで……)
優衣だって、もう帰りたいと思う。
だがマルティのように明確な目標があるわけでもなく、一応、この世界の保護者であるジェイドに行って来いと言われたのだ。勝手に帰ることもできず、仕方なく侍女に連れられて温泉に向かう。
それでも心は晴れなかった。
(もう、あの嫌味な女のせいで)
さすがに衣服を脱ぐ場所には衝立があったが、タオルがあるわけでもない。こっそりと周囲を見渡すと、王妃もミルーティも隠す素振りなど一切見せず、堂々と温泉に入っていた。
(うう……。あれだけ綺麗だと隠す必要もないのかな)
周囲が気になったが、ひとりだけこそこそしていてはかえって目立ってしまう。優衣もふたりに続いて温泉に入る。透明なお湯は少し熱かったが、疲れた身体にはとても心地良い。
(ああ、気持ちいいなぁ。うん、周囲なんて気にしないようにしよう)
目を閉じて温泉を満喫していると、いつのまにか傍に来た王妃が話しかけてきた。
「どうですか? 今日は少し熱いようですが……」
「あ、はい。大丈夫です。とても気持ち良いです」
慌てて返事を返す。にっこりと笑いながらも、王妃の目はまるで品定めでもするかのように優衣を眺めている。
「そう、よかったわ。あなたには期待しているから頑張ってね」
ゆっくりと遠ざかる王妃の、見事に均整のとれた後ろ姿を見送りながら空を見上げる。
白い雲が、風に浚われて流されていく。
少しだけ気温が下がってきたように感じて、お湯の中に身体を沈めた。
(マルティさん、どうしているのかなぁ。もっとお話してみたかったな……)
優衣の境遇に同情してくれたことから考えても、悪い人ではなさそうだ。今度図書館で会えたら、もっと色々と話をしてみたいと思う。
温泉から上がったあとは、別荘に戻ってそれぞれの部屋で休み、夜は会食の予定だという。でも優衣はマルティが帰ってしまったため、会食の時間まで話し相手もなく、ぼんやりと庭を眺めているしかなかった。
森に近いこの場所の空気はとても清々しく、こんな状況でもなければ森林浴を楽しめたかもしれない。
「はぁ……」
太陽はまだ空高く、夜まで何をして過ごしたらいいか検討もつかない。
(せめてマルティさんがいれば話し相手になってくれたかもしれないのに……)
綺麗な庭を、ひとりで目的もなく歩いた。
満開の花はどれもとても綺麗だったが、見たことのないものばかりだった。
中央には噴水があり、勢いよく水が噴き出している。太陽の光を反射してキラキラと輝く水滴を見つめながら、濡れないように少し離れた場所に座る。
何度目かもわからない溜息をついていると、ふと影が差した。
見上げると、見事な緋色の髪が目に入る。
(うわ、また出た)
日よけの布を被ったミルーティが目の前に立っている。警戒を隠そうともせずに見上げると、彼女は少し視線を外して決まり悪そうに呟く。
「そんなに警戒しないで。何もしないわよ」
そう言われても、優衣はその言葉を信じたりしない。
「……まあ、いいけどね」
顔をしかめたままの様子に呆れたような顔をしたものの、彼女は立ち去らない。
気まずい沈黙に耐えかねて、こっちから場所を移動しようと腰を浮かせた。
「ねえ、あなた。魔族に接したことってある?」
そこでふいに話しかけられ、動きを止めてしまう。
「いいえ。まだないわ」
話に聞くだけで、まだ一度も見たことがない。図書館で借りた図鑑で、種族や容姿などを軽く眺めただけだ。
ミルーティはやっぱりね、と呟き、森の奥を指す。
「あの奥には魔族がいるの。人間が住む建物の近くにいるくらいだから、かなり友好的な魔族よ。暇みたいだし、少し行ってみたら。何も知らない人と勝負しても、張り合いがないもの」
「……」
たしかに、興味はあった。
これからのことを考えても、知らなければならないことだ。
でも、彼女を信用していいのだろうか。
「別に行きたくなければそれでいいわよ。ただ暇そうだったから、言ってみただけ」
マルティを返してしまったことに、こんな女でも罪悪感をもっているのかもしれない。それだけ言うと、ミルーティはさっさと建物の中に戻っていく。
「どうしようかな……」
まだ夜まで、時間はたっぷりとある。
それまでずっと、庭園で噴水を眺めているのもつまらない。森に近づいて、ちょっと様子を見るだけでもいいかもしれない。
立ち上がり、周囲を見渡した。
誰かがいれば、ひとこと断ってから行こうと思ったのだが、間の悪いことに誰もいない。
でも今は自由時間なのだ。すぐに戻れば問題はないだろう。
森へ向かって移動する。
その様子を建物の中から見つめていたミルーティが、妖しい笑みを浮かべていたことなんてまったく知らずに、優衣は歩いて行った。
「……結構暗いなぁ」
別荘から森までの道はきちんと整備されていた。思っていたよりも人通りがあるのかもしれない。だが森の入り口に立って中の様子を伺うと、背の高い木々が陽光を遮り、まるで夕刻のように薄暗い。
(うーん。なんだか危険な匂いがする)
やめたほうがいいのだろうか。
でも別荘に戻っても、暇な時間を持て余すだけだ。だからゆっくりと用心深く、赤い煉瓦を敷き詰めている道に足を踏み入れてみた。
陽光の当たらない森の中は思っていたよりもずっと寒く、温泉に浸かったあとの身体を冷やしてしまう。
「さむ……」
両手で肩を抱いた。
こんなに寒いとは思わなかった。風邪を引く前に、戻ったほうがいいかもしれない。
そう思っていた矢先だった。
「こんな場所で何をしている?」
真上から声がした。
見上げる暇もなく、目の前に降りてくる人影。
その獣のような俊敏さは、とても人間とは思えない。思わずびくりと身体を震わせながら、そっと見上げた。
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